第62話 湖畔の宴(11)-真夏の夜の夢-
「ラクルテル嬢。優れた演奏には拍手をするものだよ。きみの拍手は、どうやら少し……変わっているようだね?」
サラサラとした銀髪を少し傾けたテセウスが、ミュリエンヌの平手打ちを制していた。
そっと腕を離すと、二人の令嬢に穏やかなロイヤルブルーの瞳を向ける。
「この宵に花を添えてくれてありがとう、ラクルテル嬢。季節にふさわしい選曲だった。――そしてアリア。卓越した演奏技術と、そこに至るまでの努力に敬意を表する。まさに、妙なる調べであった」
「光栄でございます、テセウス殿下」
すかさずカーテシーを取ってみせたアリアと違い、ミュリエンヌは真っ赤な顔でドレスの裾を掴んでプルプルしているだけである。
両親が「ミミ!」と小声でたしなめても、耳には届かない。
彼女にも、テセウスの賞賛の差が、周囲の貴族たちの嘲笑を含んだ目が、――売ったケンカに敗れたことが、理解できたのだ。
テセウスはそれきり、ミュリエンヌのことは片付いたことにしたらしい。
アリアを見ると、なぜか少し顔をそらしつつ、赤くなった頬を冷やすように手の甲を当てた。
「アリア。その、本当はひと目見た時に言うべきだったんだが……そのドレス、よく似合っている。……可憐なアマリリスの妖精のようだ」
「テセウスさまこそ、キラキラ輝いてます。王子さまって感じです!」
「そこはまあ、王子だからな……」
完璧な貴公子の美貌は、夜会のシャンデリアに照らされて発光しているようだった。
「それで……。ワガママを一つ、申したいのだが……」
「ワガママ?」
「おれの伴奏で、きみの歌を聴きたい」
思いがけないお願いに、ピンクの瞳がまたたくと、テセウスは慌てて「ダメなら構わない!」と遮った。
「おれは自由がない身で、次いつ会えるかわからないから……皇宮に帰る前に、きみに会えた思い出がほしいと思ったんだ。もっもちろん、報酬は払う! 気が進まないなら、断ってくれて構わない」
「お安い御用です! あと、こんなことに報酬なんて払わないものですよ。お友だちでしょ?」
きっとふだん、ワガママなんて言い慣れていないのだろう。
この広大な国に、たった一人しかいない皇太子だというのに、ささいな願いをこんなに恐縮しながら頼んでくるとは。
アリアは、この悩みの多そうな少年のお願いを叶えてあげたくなってしまった。
「本当か!」
テセウスの表情はパッと晴れ、いそいそとピアノの椅子をひいて座った。
「何が歌える?」
「何が聴きたいですか?」
「……真夏の夜の夢」
「わかりました。――あ、皆様、伴奏は殿下がなさるので結構ですよ」
楽隊に改めて断りを入れ、アリアは息を吸った。
真夏の夜の夢は前奏が短いのだ。
――歌声は、天から降り注ぐ優しい雨のようだった。
ネメシスから習った歌い方ではなく、昔ながらの喉を開いた歌い方。
ひたすらに高音が澄み渡り、星月夜の雲間を晴らす声。
それでいて全ての音が、現われたその瞬間からピタリとあるべきところに収まり、どれほど長く伸ばしても、揺らぐことすらない。
招待客たちはもちろん――アリアのことを知っていたプランケット邸の使用人たちも、家族たちでさえ、しばし呼吸を忘れて聞き入った。
何度も手慰みに弾いた旋律を奏でながら、テセウスはじっと、歌う少女の柔らかな頬を見つめていた。
(この姿を、網膜に焼き付けておければよいのに……)
もうすぐ、あの恐ろしい場所へと帰らなくてはいけない。
あと何度、このような自由が許されるのかもわからない。
――厨房に忍び込もうとする彼女の悪戯っぽい目も、一緒に見上げた複雑骨折した北極星も、覚えている。
母の命を救うため、一瞬の迷いもなくドレスを脱ぎ捨てたことも。
ためらわず湖に飛び込んだ小さな身体が立てたその水しぶきに、そろいもそろって役立たずの男どもがと、頬を張られた気分になったことも。
濡れ衣を晴らそうと無用な問いかけをした己へ向けた、朝焼け色の瞳の苛烈な炎も。
それはこれまで、皇宮でも、中央の重臣たちが手配する令嬢令息たちの中にも、見いだせなかった光だった。
(きっとこの三日間は奇跡だ。この思い出を握りしめて生きよと。これから、義務と無私の終わりなき道をひた走るために、神が与えたもうた奇跡だ)
曲は終わりに近づいている。
寂しさに胸が締め付けられて、つい指が重くなりかけたが、この天上の調べをわずかでも滞らせてはならないとテセウスは鍵盤を鳴らした。
(……ああだが、もしも……。もしも生涯を共に生きる伴侶を、おれ自身で選ぶことができるのなら……)
嘘にもおもねりにも、企みにも卑劣にも、無縁の人がいい。
大事なものを間違えることなく、その瞳に映る光をまっすぐに追いかけるような人がいい。
そんな相手の背を、息を切らせて追うような人生は、きっと喜びに満ちているだろうから。
――父があまりに強大であるがゆえ、与えられるものをただ享受していたテセウスの胸に、初めて小さな灯がともった。
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シャンデリアに照らされて、銀髪の貴公子と金の髪の歌姫が、妙なる音楽を奏でる。
その完璧な絵画のような光景を、ニュクスは二階の暗がりから、目を細めて眺めていた。
『あの子をどうしたいの?』
何もかも見透かす金の瞳にそう問われたのは、アリアを見出してすぐのことだった。
『本当は、ユスティフを火の海に沈めたいくせに。それでいて、唯一のリオンダーリが、ユスティフ人と友誼を結ぶのを野放しにしてさ。このままじゃ、にっちもさっちも行かなくなるよ』
『それは、彼女が他国で不自由なく暮らしていけるよう生活基盤を整えてから、アフラゴーラは良い国ですよ~と、いい具合に丸め込んでという計画がですね……』
『それじゃ遅いよ! というかニュクスがあの子を丸め込むのは無理でしょ。過信だよ』
『う……』
『ヒキガエルで見た限り、もうねえ、人たらしというか、とにっかく人付き合いがうまい子だからね。ニュクスと正反対。早熟な子だし決断も早いし、何ならもう数年で『この人と結婚しまーす!』ってユスティフの貴族を連れてきてもおかしくないよ。そうなったらどうするの?』
『……どうするも何も』
開いていた本を閉じて、ニュクスは夕刻色の瞳にネメシスを映した。
『選択肢は一つしかありせんよ、ネメシス。……あの子から何かを奪うことは、許さない』
アリアがその手で掴んだ者。
唯一守りたい少女が選んだ、そのたった一人なら裁きの炎から見逃すことを、ニュクスは心に決めていた。
(たとえそれが、アンブローズの後継者だったとしても)
「ところで、わたしが歌えるってだれから聞いたんですか?」
歌い終わったアリアは、腰の抜けた貴婦人や感涙した紳士に取り囲まれる前に、フレデリクによってバルコニーへと移動させられていた。
心配したのか、テセウスもついてきてくれている。
「ああ。ランスロット叔父上が、アリアは天上の歌声を持つと仰っていたんだ。……聞きしに勝る歌声だった。帰る前に、聴けてよかった」
頬に朱をのせたままアリアを見つめるテセウスをよそに、ピンクの瞳は「皇弟殿下が?」と不思議そうに見上げた。
「どうしてかしら……?」
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改稿により文字数が増えたので分割しました(2023/5/27)




