第58話 湖畔の宴(9)-孤独な王子と夕凪-
プランケットの擁する楽隊の煌びやかな音色を耳に入れながら、皇弟ランスロットは、晩夏の夕暮れの赤い空を見上げた。
(……懐かしい色だ)
ランスロットが生を受けたのは、このユスティフがまだ王国であったころ。
永遠なる大樹の、四番目の枝。
長兄のうえに一人、自分の上にまた一人、兄王子がいたが、いずれも成人するまでに命を落とし、残ったのは年の離れた長兄と自分の二人だけ。
ユスティフは完全なる階級社会であり、それは頂点たる王宮内でも同様である。
むしろ極地であるのが、ランスロットの生まれ育った場所であった。
王のみが君主であり、それ以外は全て、王に頭を垂れて仕えるべき臣下である。
ランスロットが生まれる前に立太子した長兄は父王のいる居城へと移され、初めて顔を見たのは八歳にもなろうという時分のことだった。
普段、悪ガキとして城仕えたちを困らせているランスロットであっても、無邪気に兄上と呼びかけることができず、ただ後ずさったことを覚えている。
――あの虹色に輝く銀の瞳に見下されて、まるで人ではないものと対峙しているような心地を抱いたのだ。
高貴なる血を継いではいるが、要は単なるスペアであった。
それなりの予算、それなりの教育をつけてもらいはしたものの、父王と言葉を交わしたのは回数を思い出せる程度。
王の居城に足を踏み入れたのは成人してからで、ランスロットはその少年時代を、見捨てられた者ばかりの後宮の中で放置されて育った。
――そんな幼いころの、友と呼べるのはただ一人。
『また来たんですか?』
迷惑そうにしかめられた三白眼の、夕闇が迫る西の空のような紅い色を、今でも思い出せる。
『ぼくのようなものと話してはならぬと、お付きの人に言われていたではないですか』
『あの距離で聞こえていたとは。イリオン人の耳は聡いというのは誠なのだな!』
『……はあ~~~』
彼は、王宮の一塔に留め置かれている人質の姫君のため、彼の兄とともに故郷の品々を届けに来ているメッセンジャーだった。
『組み手をしよう、ニュクス! 今なら中庭に人がおらぬぞ!』
『ぼくは本を読んでいるんですが……』
『身体を動かすと気持ちがいいぞ!』
『自分が暇なだけでしょう』
『ははーん。負けるのがいやなんだな?』
『……』
パタリ、と丁寧な手付きで本を閉じると、少年は首をコキリと鳴らした。
『そう抜かすからには、少しは強くなっているんでしょうね』
本に対する敬意の十分の一、いや百分の一すら込もっていない、挑戦的な眼つき。
対するランスロットは、まんまと獲物が釣れたことを悟り、銀の瞳を細めてにんまりと満足げな笑みを浮かべた。
落ち着き払った顔のわりに挑発に乗りやすいことを、よく知っているのだ。
この友は、王家の血に対する媚びも卑屈さも、無闇な期待もわずらわしい気遣いも、一度たりとも見せたことはなかった。
初対面こそ恭しかったものの、気楽に接するように言えば、「わかりました」と飄々とした一つ返事で、そこらへんの子どもに対するのと変わらぬ態度で応じ、何ならランスロットが無礼を働いた時には堂々と怒りを示してみせた。
一度そうして怒りを買い、――王子として生まれた自分が初めて他人に謝り、そして許しを得て。
ため息混じりに呼び捨てにされるようになった時には、壁の厚い友の懐に潜り込めた気がして、面映ゆかった。
はじめは、線の細い見かけに反した、強健な気骨に面食らったものだ。
だがそれは、己が血筋も国も関係なく尊重されるべき個人であるという、彼自身の自負に他ならない。
薄暗い後宮で育ったランスロットには、その健全な自尊心がまぶしかった。
あの頃、背筋を伸ばして胸いっぱいに息を吸い込むことができたのは、この風変わりな友人の傍だけであった。
お互い身分だけは高貴だったが、まだ未熟な子ども同士だったので、取っ組み合いのケンカに発展したこともあった。
その時は駆けつけてきた彼の兄に傷を癒やされて大事にはならなかったが、冷静になった二人は次第に恥ずかしさを覚え、顔をそらしながらもどちらともなく謝罪を口にした。
『……すみませんでした』
『おれの方こそ……すまなかった』
含羞と――相手に嫌われてしまったのではないかというわずかな怯えを滲ませながら、お互いの顔を恐る恐る見て、それがあんまり情けない表情だったものだから、揃って吹き出したのだった。
『やれやれ。さっきまで獣みたいに殴り合っていた子たちが、今は一緒に笑っているとは……。まったく、子どもって理解が及ばないなあ』
彼の兄も呆れたように破顔した。
孤独な王子は、唯一の友との交流を通して、子どもらしい喜びを一つひとつ、知っていったのだった。
このような人間を育んだ海上の千年王国はどのような地なのだろうかと、柄にもなく図書館に足を運んでみたことすらある。
残念ながら、文字を見ると眠気を誘われてしまう性質を持って生まれたゆえに、やはりたちまち夢の世界に誘われてしまい、友にも「直接聞けばいいじゃないですか」と呆れられてしまったが、太陽に愛されし都にいつか必ず行ってみるのだと、決意を胸に秘めていた。
栄光なる王国。
神から王権を与えられし永遠の一族。
その正当なる第四の枝。
それでも、自分の居場所はここではないとランスロットは悟っていた。
(王位も国も全て、兄上が持っていけばよい。おれはイリオンにゆく。……きっとそこでなら。あいつを産み落とした太陽の国でなら、きっと、おれも自分の足で大地を踏みしめて、人生を切り開いてゆけるはずだ)
王宮に来ても本ばかり読んでいるというのに、少年は組み手をしても木剣を交えても、ずいぶんと手強いライバルでもあった。
年の離れた彼の兄が、毎日厳しく鍛錬してくるのだと、そうぼやいていた。
本人は読書に時間を割きたいので迷惑そうだったが、自分の兄たちとそのような交流を望むべくもないランスロットは、うらやましいと思ったことを覚えている。
(そうだ。確かあいつに、訊いたことがあったな……)
『なぜそうもお前は本ばっかり読んでいるのだ? ――うーわっ! 挿し絵すらない! 行けども行けども同じような線ばかりで目が回らぬのか!? 本など退屈なだけだ』
『ランスロット……。お前みたいなのを脳筋と呼ぶらしいですよ。以前読んだ大衆小説に書いてありました』
『む? 意味はわからないが、バカにされている気がするぞ』
『ふはっ!』
友は笑いながらもページをめくる手を止めず、ただ眩しいものを見るような眼差しで、本を撫でた。
『たとえ、嵐にかき消される宿命だったとしても。――知識だけは、だれにも奪うことのできない財産ですから』
(ああ……だがあの時、おれはなんと答えただろうか。きっと、うすらぼんやりした間抜けなことを言ったに違いない)
自分はあまりに無知な子どもで、その言葉の意味を知ったのは、全てが終わったあとだったから。
ランスロットの唯一の友が――ユスティフに後継者を差し出してかろうじて存続していた国の少年が、その時すでにどんな未来を見ていたのか。
千年の王国と謳われた国が無惨に奪いつくされ、家も土地も財産も、家族すらも失った人々の怨嗟が煙となって天に立ち上ってから、やっと、ランスロットは理解した。
――お前たちが何を奪おうと、この頭に入っている知識だけは奪えない。
彼は王家の一員である自分に、たしかにそう告げていたのだ。
(だからあいつは、あんなに本を読んでいた。――菓子も食べず茶も飲まず、それだけを貪るように)
騒乱を経て、友の行方は杳として知れなかった。
多くのイリオン人が島で虐殺され、残ったものも連行され――人体実験や侵略戦争の肉盾としてすり潰され、その後姿を消した。
いまや千年王国は、海上の島影を残すだけとなっている。
「!」
視界がふっと暗転をし、ランスロットは壁に手をついた。
――まただ。
数年前から、視界が急に効かなくなる現象が起こり始めた。
最近は頻度が多くなり、あまつさえ、次の瞬間には別の場所に移動していることすらある。
だがランスロットはこのことを、侍医に告げるつもりはなかった。
それは贖罪などと呼べるようなものではないとわかっていた。
独りよがりな意地である。
(あいつは……医者の家系だと言っていた。あの時分で、あれほど賢いやつだった。生きていればきっと、稀代の名医になっていたに違いない。おれがこの年で死んだとしたらそれは……友を救えなかった罰だ)
西の空はもうほとんど暗く澄んだ青に浸されて、山の端に少し赤い尾を残すばかりとなった。
++++++
「こお~んなに愛らしい子が存在したなんて! 登場なさった時なんて、わたくし驚きで倒れそうでしたわ!」
「まあ、ロロット子爵夫人ったら」
アリアはフレデリクに抱っこされながら、ちやほやと媚びへつらってくる招待客たちに愛想を振りまいていた。
招待客たちは、半獣の養子を値踏みした結果、利用価値ありと判断した。
しょせんは平民、少し自尊心をくすぐってやれば簡単に心を開いて転がせられると踏み、フレデリクへの挨拶がてら、飾り立てられたお人形をこぞって褒めそやしに来たのだった。
――だが。
「わたしこそ、二階でお見かけした時から、なんておしゃれでお綺麗な方なんだろうって思ってたんです! その葡萄色のドレス、とってもよくお似合いです。白いお肌と月のような瞳にぴったりで、内側から輝いているよう!」
「まっ、まああ……!」
「これはこれは。閣下がこうも溺愛なさるのも納得の可憐さでございますな。うちの娘たちにも見習わせたいものです」
「あらマイヤール伯爵! ご謙遜が過ぎます。上のお嬢さまのブリジットさまはダンスがすっごくお上手で、舞の妖精みたいだってお伺いしました! 下のお嬢さまのシャルロットさまは詩文の才をお持ちで、謝肉祭のコンクールで賞を取られましたね。わたしなんか足元にも及ばない、才色兼備の自慢のお嬢さまたちですのに!」
「な、なんとぉ……!」
媚びへつらいにかけては、アリアのほうが上手である。
当然このたびも、招待客の家族構成やら評判やら、あらかじめまるっと頭に入れているのだから。
丸め込もうとした貴族たちは、逆にすっかりいい気分にさせられてしまい、アリアの前からなかなか去ろうとせず、他の者に押されて渋々辞するときにはすでにありとあらゆる褒め言葉を浴びせられており、ふわふわと夢見心地となっていた。
一連を目撃していたフレデリクは、「さすがだね……」と乾いた笑みを漏らした。
「でも、無理をしなくていいんだよ。まだ身体は辛いだろう」
「お父さま……。わたしも手を緩めたいんだけど、あちらが臨戦態勢だとつい脊髄反射で出てきてしまうのよ」
「難儀な能力だね……」
アリアはチラリと二階を見上げた。
重たいカーテンの影、会場を見渡せる位置にニュクスが佇み、階下を睥睨していた。
ふだんのローブではなく、貴族子弟が夜会で纏う正装を身に着けているが、顔を見られてはまずいというので、こうして裏方に徹している。
ニュクスはすぐにピンクの瞳に気がつくと、どうかしたのかという表情で首を傾げたので、アリアはなんでもないと首を振っておいた。
(あんなにかっこいいのに表に出られないなんて、もったいないわ。……テセウスさまにも皇弟殿下にも負けないくらい、かっこいいのに!)
正装は、別邸にあった子ども用の予備である。
色は漆黒、装飾も少ない簡素な作りだったが、そのこざっぱりとしたデザインが、ニュクスの知的で端正な顔立ちによく似合っていた。
あんまりかっこよかったので、支度を済ませてさあホールに向かおうとした時にその姿を目にして、アリアはネメシスがここにいないことを心底嘆いて天を仰いだ。
「ど~~~~して師匠はここにいないの!? 何としてでも見せてあげないと!」
「アリア、少し落ち着いて……」
「先輩! なんかこう……この場の情景を写し絵にするような便利道具、持っていないんですか!? 動いていたり、声が入ったりするともっといいわ!」
「恥ずかしいことはやめてください! ぼくなんかを写し絵にしてだれが喜ぶというんですか?」
「師匠が喜ぶに決まってるでしょ!? わたしだって先輩のかっこいい姿をあとからたくさん見たいわ!」
「きみって子は……」
あきれ顔でため息を吐いてみせたが、ニュクスもまた、アリアの姿を脳裏に焼き付けるようにじーっと凝視していた。
イリオンの衣装にほぼ近しい軽やかなシルエットのドレス。
朝焼けの瞳を濃く煮詰めたような鮮やかな朱色。
当然のことながらこの少女にはよく似合い、眩しいほどに華やかだった。
(小さな太陽の花が咲いたようだ……)
刺繍のモチーフがユスティフの象徴である百合という点は気に食わないが、教会の追求を免れるためだということは察しがついたので、大目にみることにする。
そうやって凝視することで、ニュクスは自分の瞳孔を通してネメシスに映像を送信していたのだが、もちろんアリアが求める便利道具がこの場にあるなどということを教えるつもりは毛頭なかった。
「イリオンの文物が焼き討ちされた事件もあったというのに、きみの継母は怖いもの知らずですね」
「焼き討ち……!?」
「神聖教会の命で異端とされ、イリオンにまつわるあらゆるものが排斥されました。あれから時が経ったとはいえ、いまだ異端宣言は撤回されていません。……だから今夜、そのドレスをきみと国境伯夫人が身につけて夜会に出るということは、プランケットの姿勢を示すものでもあるのです。教会の判断を支持しないという」
「そう……だったんですか?」
シプリアンに発注をしたのは初夏のころ。
エミリエンヌは数ヶ月も前から、この場面を思い描いていたというのだろうか?
隣で黙っている継母を見上げると、完璧に美しく装ったエミリエンヌは、口の端を吊り上げた。
「これは秘密なのだけれど――わたくし、反吐が出るほど教会が嫌いなのよ。皇帝はもっとだわ。嫌がらせなら、いくらでもやれてしまうのよ」
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