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第59話 湖畔の宴(8)ー慕わしき赤ー

「……違うの! そのお芋はまだ食べていないの! ……はっ」

「あら、お目覚めですね」


 頭がグラグラと揺れる動きで、アリアは目を覚ました。


 周囲にメイドたちがいて、自分は見慣れない鏡の前で椅子に腰掛けている。


「どうぞ! レモンティーです。お嬢さまのお好きなレモン多めですよ」


「ありがと……」


 まだ目がしょぼしょぼしていて頭が働かないが、そういえば夕方に夜会があったということをぼんやりと思い出していた。


 本人が深く寝入ったままでも、優秀なメイドたちはドレスの着付けやヘアセットを着々と勧めてくれていたらしく、すでにコテで綺麗なカールをつけられ、高い位置で技巧的な二つ結びをされていた。


 それにしても、一体どうしてこんなに身体が重いのだろう?


「あなたは座っているだけでいいわ」


 エミリエンヌの声がすぐそばから聞こえて、ここは彼女の私室なのだと思い至った。


 そちらに視線を巡らせたアリアは、壁にかけられた二つのドレスにふと目を留めた。


「……あら」


 新鮮でありながらも、アリアにとっては懐かしいシルエット。


 鼻の奥に、ふと懐かしい白い花の香りが蘇ってきた。


 ――亡き母からいつも香っていた、澄んだオレンジの花の香り。


「よい出来でしょう。あの熊男(シプリアン)が待たせただけのことはあるわ」


 隣で耳飾りをつけているエミリエンヌは、ルージュを塗った唇を誇らしげに吊り上げた。


「だからあなたは何一つ、無理をする必要はなくてよ。媚を売らずとも、微笑みを浮かべずとも、座っているだけでいい。ただそこにいるだけで、会場の有象無象が圧倒されるような出来に仕上がるのだから」


「……」


(さ、さすがに期待が重いわ……。メラニーとアンナにとってもプレッシャーじゃないかしら)


 心配になって顔色をうかがったところ、二人ともニコニコと「間違いありません!」と頷いているので、アリアはもう何も言うまいと唇を引き結び、美容の先輩たちのなすがままになろうと決意した。






 ++++++






 日差しに黄金色が混じるころ。


 貴族ばかりが集まるエリサルデ湖畔でも珍しいほどの大貴族、国境伯プランケット家主催の夜会が開かれた。


 招待客には皇族、侯爵家と錚々(そうそう)たる顔ぶれが並び、その上、噂の養子も出席するらしいとなっては、招かれた貴族たちも皆はりきって、開催時刻のずいぶん前から駆けつけていた。


 会場のそこかしこで、普段は見られないプランケットの美術品や庭園に目を凝らしながら、扇に口元を隠して聞きかじった風聞を交わし合う。


 主催者の一家はまだ姿を見せないような刻限であったが、ただ一人、すでに支度を済ませてホールに姿を現している者がいた。


「まあこれは! セレスティーネさま、ごきげんよう」


「ごきげんよう」


「ご嫡女にお目にかかれるなんて今夜は僥倖でしたわ。落ち着いた色のドレスがよくお似合いですこと」


「本当。上品でおしとやかで……霧や(かすみ)の女神のようですわ」


「恐れ入ります……」


 長い黒髪を垂らし、藍鼠色(フォギーブルー)のドレスを纏ったセレスティーネは、招待客に向かって儚げな礼をした。


 例によって、夜会のためにこの身体の母親(エミリエンヌ)が選んだのは派手な真紅のドレスだったため、セレスティーネは「まあ……悪趣味だこと」と顔を顰めて、リクハルトに捨てさせておいた。


 ――男から眉をひそめられそうなけばけばしいドレスを、わざわざ好んで身に纏う女は何を考えているのだろうと、セレスティーネは心底不可解だった。


 考えた結果、彼女たちは根っからの悪女だからそのように毒々しいものを好むのだと結論付けている。


()()()は違う)


 事実セレスティーネは、この身体になってから二年近く、常に攻略対象に気に入られることを念頭に行動を選択してきた。


 ドレスは地味な色味で楚々としたもの、アクセサリーは銀細工の目立たないものしか身に着けない。


 髪を結い上げることがないのも――結髪が戦闘状態ならば垂髪は無防備な状態といえるので――殿方の庇護欲を誘うためである。


 人前で声を荒げることもなければ、かしましい女たちのおしゃべりに参加もしないし、不躾に殿方に口答えをしたり、睨みつけたり、――あまつさえ、恥知らずにも下着一枚で湖に飛び込んだりするわけがない。


(原作と少しは違うところもあるけれど、やっぱりバカなところは変わらないわね。目先のことに気を取られて、家族だの友達だの幼稚なことにこだわって、その先を見ていない)


 大人しく儚げで、従順であること。


 悲しげな表情で庇護欲を誘い、叶えたい願いは人を使って叶えさせること。


 セレスティーネにとって、真に賢く強く、勝利を掴む女とは、このような者に他ならない。


 攻略対象者たちは、あらゆる女にとって憧れの的。


 その彼らから、全員揃って愛を乞われること以上に、この世界において幸福なことなど存在しないのだから。


 ――初めて鏡を覗き込んだ時。

 歓喜に胸が震えたことを覚えている。


 雪のように白い肌。艶々とした豊かな黒髪。長いまつ毛に縁取られた、アイスブルーの大きな瞳。

 幼いながらもすでに完成された、冬の妖精のように繊細な美貌。


(大丈夫。……きっと今度こそ、うまくいく。今度こそ、誰よりも幸せになれる)


 その確信だけを握り、――たとえ世界をまたごうとも決して消えない恨みを胸のうちに燻らせて、彼女はここまで進んできたのだった。


「セレスティーネさまはお一人? エミリエンヌさまは?」


「それが……」


 招待客の問いに、セレスティーネは氷色の瞳を伏せた。


 この問いに答えるためだけに、支度を早く済ませて、有象無象どもの群れに一人身を置いていたのだ。


 セレスティーネが、言葉を選ぶように口元に手を当てながら語ったことは、招待客の動揺と興奮を誘うのに十分であった。


 ふだんあまり表に出ない国境伯家の嫡女が珍しく出席しているというだけで衆目を惹き、その上、どの家でも話に上がったであろう、卑しい半獣(セーミス)の養子が――あろうことか、貴き国境伯夫人を舟から突き落としたというのだ。


「まあ! そんなことが起きていたなんて……!」


「ではエミリエンヌさまは、今夜お出でにならないの?」


「ええ。せっかくの席ですがあんなことがあっては……」


 エミリエンヌは、原作の中の端役も端役。


 興味は全くなかったが、それでも同じ家に暮らす者なので、彼女が面倒くさがりだということくらいは、セレスティーネも知っている。


 なにせ、数週間引きこもったあげくに体力を落とし、夏風邪をこじらせて死ぬ運命なのだ。


 普通の人間ですら、死にかけるような目に遭った数時間後に、きついコルセットを締めて重いドレスを着て夜会に参加することなど厳しいのだから、まず間違いなく、あの母は欠席すると踏んでいた。


「アリアも、悪気があったわけではないと思うのですが……」


 頬に手を当てて、セレスティーネは傷ついたように瞳を揺らして小さく息を吐いた。


「悪気があるなしのお話ではないでしょう!? 湖の真ん中でふざけて突き落とすだなんて!」


「善悪の判断がつかぬのか、それとも悪意に満ちているのか……。いずれにせよ、閣下はとんでもない獣を引き取ってしまったというわけだ」


「セレスティーネさまと変わらぬ愛を注がれたというのに、恩を仇で返されて、夫人のご心痛はいかばかりだったでしょう!」


「もっともですわ。それを思うと、わたくし、胸が張り裂けそうで……」


 周囲の貴族たちは、セレスティーネを慰め、尊い身分の夫人の優しさを踏みにじった半獣の孤児への義憤に燃えながら、――なんと面白い話のタネが収穫できたことかと、心の中で快哉を上げていた。


 セレスティーネはハンカチで隠された口元で、薄く笑った。


(これで噂は広がるわ。実の娘よりも、継子の卑しい半獣が継母を殺そうとする方が、よほど()()()()()もの。何が真実かなんて関係ない。この者たちにとってその場が盛り上がることが全てなのだから、面白い噂のほうがよく広まる。……お花畑のヒロインには、わからないでしょうけど)


 ――必ず、あなたの魂が牙を剥くわ。真実はほかならぬあなた自身が知っているのだから。裏切りも恥も愚弄もすべて、必ず支払うことになる。


 あの時の口上を思い出すと、声を上げて笑いそうになってしまい、セレスティーネは品よく咳き込むフリをした。


(本当にバカなヒロインだわ。魂ですって? ふふっ。そんな不確かなものに縋らないと生きていけないだなんて、笑っちゃう。一生、お祈りでもしていればいい)


 だがあの時。


 確かに黄金の気迫に気圧されて、――自分が認識するよりも、脳よりも心よりももっともっと深い場所に、消えぬ刻印を刻みつけられた気がして、とてつもない不安に襲われたのだった。


(……勘違いに決まっているわ)


 セレスティーネは冷たいリンゴジュースを飲み干しながら、何度目かの念押しをした。


 しょせん、物語のキャラクターに過ぎない。生きて思考しているように見えるけど、そうプログラムされているだけ。


 ただのハリボテの分際で自分を脅かそうとするなど、いい加減、身の程を教えなくてはならない。


 ふと歓声が上がったのでそちらを見ると、ホールへと降りる階段の上、二階の手すりの横に、皇太子テセウスと皇弟ランスロットが姿を現していた。


 二人とも攻略対象者だけあって、正装した姿は眩しいほど美しい。


(テセウスさま!)


 テセウスのロイヤルブルーの瞳は、たしかにセレスティーネの上を通ったはずだが、表情を変えることはなく素通りし、いまだ開かれたままの二階の扉を覗き込んだ。


 現れたのは国境伯夫妻。


 そしてフレデリクに抱かれた、小さな女の子だった。


「まあ……!」


 それは束の間、マホガニーの扉の木枠を額縁とした豪華絢爛な絵画だと、人々の目を錯覚させた。


 彼らが揃って身に纏うのは鮮やかな赤。

 フレデリクとエミリエンヌは深みのある真紅(ヴォルカン)、少女は目の覚めるような緋色(スカーレット)


 豊かな迫力が、帝室の紋章色である銀とロイヤルブルーを基調とした殿下方の存在感を、あっという間に食らい付くした。


 ドレスのシルエットは異国風の見慣れぬ作りで揃えられ、――その場にいた一定以上の年齢の者には、それがかつて栄華を誇った彼の国(イリオン)の衣装だと気づいた。


 彼女たちのドレスは、初夏の候、エミリエンヌが仕立て屋シプリアンに発注したものだった。


 もともとはエミリエンヌからコルセットを外させるため、無理に体を変形させなくても美しく纏えるドレスをアリアが求めたことに端を発するが、イメージ図を目にしたエミリエンヌが、自分が憧れた人のドレス姿を思い出し、総力を上げて作り上げるように命じたのだった。


 シャルル・シプリアンもまた、洗練の極地であったイリオンの文化を覚えていた。


 イリオンは千年の間、同じ血脈が統治し、民の変わらぬ尊崇を集めていた奇跡の王国。


 長い内戦が終わったあとも侵略戦争を繰り返しているユスティフに比べると、様々な要因で文化が成熟し、かつては服飾だけでなく、書物も絵画も彫刻も建築も、憧れと驚きを持ってユスティフに迎え入れられていた。


 無駄なものを削ぎ落とし、くつろいでいて、それでいて遊び心があることを何より尊ぶ文化。


 その指向のもとで生まれたイリオンのドレスは、腕も裾もくびれも自然なラインを描き、柔らかな生地が身体に寄り添ってすとんと落ちている。


 不自然な形の衣装に慣れた目には、ともすれば心もとなく見えそうなシルエットだが、鮮やかな紅い生地に施された百合の刺繍は豪奢そのもので、惜しげもなく使われた薄絹が織りなす無数のドレープが流水のように落ちてはやわらかく風をはらむ様は、目が離せないほど、鮮烈な印象を与えた。


「美しいこと……」


 誰かの嘆息を皮切りに、いくつものため息が漏れた。


 剣高の薔薇と謳われた貴婦人エミリエンヌの衰えぬ美しさはさることながら、その隣で国境伯に大事そうに抱かれている少女の、朝焼け色をした宝石のような瞳に、なんとよく似合っていることか。


 艶めくプラチナブロンドは丁寧に、しかし子どもらしい愛らしさを残すように結い上げられ、ドレスと同色のヘッドドレスに彩られている。


 インペリアルトパーズのパリュール――ネックレスとブレスレットを身に着けている――は、少女の瞳と同じオレンジがかったピンク色をしていて、プランケットが彼女をいかに手厚く遇しているのか、雄弁に語っていた。


 それに比べると、セレスティーネの装いは精細を欠き、明らかに見劣りしていた。


 垂らしたままの長髪は、元よりだらしないと眉をひそめる者もいたし、清楚を狙って身につけた地味な色合いのドレスもシルバーのアクセサリーも、上品というよりはみすぼらしく映った。


(……何!? なぜそんな目でこちらを見るの!?)


 目が眩むほどに完璧な()()()()と自分を見比べるいくつもの視線に気が付き、セレスティーネは藍鼠色(フォギーブルー)のシルクタフタを、きつく握りしめた。


 ――現代を生きた記憶のあるセレスティーネには理解しがたいことだったが、この時代、豪奢な装飾品とはただの虚飾ではなかった。


 己が何者であるか。


 どう扱われるべき人間か。


 それを視覚にもわかるよう端的に示すものであり、蔑ろにするということは、どうぞ舐めてくださいと言っているようなものであった。


「今宵はお集まりいただきましてありがとうございます」


 少女を抱きかかえたまま、国境伯フレデリク・プランケットが挨拶を述べた。


「うるわしい湖畔の晩夏の夕べでございます。光栄なことに、永遠なる大樹の一枝、皇弟ランスロット殿下、皇太子テセウス殿下にもお越しいただきました。どうぞ日頃の疲れを癒やしていただき、楽しい宵になればと願っております」


 ここでフレデリクの氷色の瞳が、悪戯っぽくアリアを見た。


「……と、娘を抱えたままのご挨拶になりましたがご容赦ください。何分、身体の弱い子でして、今日も体調が芳しくないのですが、一人にしておいて何かあったらと思うと気が気でなく……親心とはままならないものですね。アリア、大丈夫かい?」


「ええ、お父さま」


「つらくなったらお母さまに言うのよ」


「ありがとう、お母さま」


 エミリエンヌが手を伸ばしてプラチナブロンドを愛おしそうに撫で、フレデリクは目を細めて微笑んだ。


 それににっこりと天使のような笑みを返す、まさに理想の娘。


「よかった! ――皆さま。今宵、わたしはずっとこの調子でおりますが、どうぞ気にせずお話しかけください」


 国境伯の思いがけない親バカぶりに、招待客からほほえましそうな笑い声が上がった。


「……?」


 一方、先程、セレスティーネの話すことを聞いた者たちは、どういうことかと目を見合わせた。


「……エミリエンヌさま、お見えになられたわね」


「……お元気そうね」


「半獣の娘のことも、かわいがっていらっしゃるように見えるわ。あの好き嫌いの激しいお方が、子どもといえど、自分を殺そうとした相手の頭を撫でるかしら……?」


「さあ……?」


 貴族たちはそろそろとセレスティーネの方を確認し、慌てて目をそらした。


 淑女然としていた少女は、いまや顔を歪ませて、目だけで呪い殺さんばかりの形相で、自らの家族を睨みつけていたからだ。


(何度も、何度も、わたしに恥をかかせて……! 許せない! アリア・プランケット! 絶対に、償ってもらうわ!)

ドレスの採寸をしたのは、作中時間では四ヶ月前のことです。

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