第57話 湖畔の宴(6)-顕現-
エミリエンヌの私室へ向かおうとしたアリアは、メラニーたちに捕捉され、「先にこっちです!」と問答無用で着替えさせられた。
メラニーもひどく心配したのでプンプンしていたが、アリアの疲れの滲んだ顔を見て、動きやすいエプロンドレスを用意してくれた。
「もお〜! まったく、湖の真ん中で飛び込むなんて! お嬢さまはメラニーが心配しすぎて死んじゃうかもって思わなかったんですか!?」
「ごめんね。もうしないわ」
「くうっ……! 上目遣いすればいいと思って……! 今度という今度は丸め込まれませんからね!」
「ほんと~~に反省してるの」
ぎゅっと抱き着いて、しょんぼりとした表情で見上げると、メラニーは天を仰いで「あざとすぎるううう!」と顔を覆った。
着替えを手伝っていたアンナは「ちょろすぎじゃない?」と、バカにするのを通り越して心配していた。
「魔術師さまは?」
「あ、命の恩人のお方ですね! お部屋の前で待っていらっしゃいますよ。うーん……まだちょっと髪は濡れてますけど、早く奥さまのお部屋に行きたいですもんね。簡単に二つ結びにしておきます」
「ありがとう。そうだ! 手鏡なかった? 舟の上で脱いだ服に入ってたはずなの」
「これですか?」
メラニーに手鏡を渡してもらい、アリアはほっと息を吐いた。
「行ってくるわね!」
スリッパを履いて廊下に飛び出すと、佇んでいたニュクスの手を取って廊下をパタパタと駆けた。
「お姉ちゃん、お母さま目を覚ましたって!」
『……聞いたわよ……』
鏡から聞こえる声は、懇願と悲嘆を繰り返したためか憔悴しきり、すっかり小さくなってしまっていた。
「先輩、お母さまに会って大丈夫ですか? たぶんお父さまもいますし、もしかしたらそのうち、殿下方も来るかも」
「構いません。――アンブローズに会うつもりはありませんが、もし鉢合わせたとしても、記憶を消せばいいだけなので」
相変わらず、対処の仕方が物騒である。
――アリアはこの時点では、立て続けに起きたさまざまなことに押し流されて、「皇族」の名を聞いただけでピュティアの兄弟が抑えきれない警戒心と殺気を灯したことを、まるっと忘れていた。
二十年前、ユスティフの現皇帝レクスが祖国イリオンを滅ぼした。
そのことだけは教えてもらったが、その最大戦力が当時のプランケットであったことも、大事な二人の兄弟がどう関わっていたのかも、アリアは知らされていない。
兄のネメシスも弟のニュクスも、どう年上に見積もっても二十年前の争乱に関わっていたとするには年齢が若すぎる。
ネメシスは二十代の青年にしか見えないし、ニュクスに至っては十二、三歳程度の少年である。
(その割には、在りし日のイリオンの栄華も、陥落の悲惨も見てきたように語るような……)と違和感は抱いていたが、それを気にも留めないくらいには毎日大抵いろいろなことが起こっていたし、魔法の授業はまあまあスパルタであった。
何より、二人の人生に重く影を落としているであろう出来事について尋ねて、傷つけてしまうことを恐れていたから、これまで聞く機会がなかったのだ。
だからニュクスがこの場にいる意味をアリアがうっかり忘れてしまっても、仕方のないことである。
「お母さま! アリアです!」
ノックをして部屋に入ると、エミリエンヌは身体を起こして窓辺を見つめていた。
向こうを向いてしまっているので、その表情を窺い知ることはできない。
ベッド横の椅子に座っていたフレデリクがアリアを見て、珍しく途方に暮れたような笑みを浮かべた。
「気分はいかがですか? お腹すいてませんか? カトリーヌは何か取りに行ってるのかしら」
「……」
話しかけても、返事はない。
「こっちの魔術師さまが通りがかって助けてくださったんですよ。あのね、まだ子どもなのにすっごく優秀なの! 本当に運がよかったわ!」
「……わたくし……あのまま、沈んでいればよかったわ」
窓から吹き込んできた風にも、かき消されてしまうほど小さな声が、ポツリとこぼされた。
「もう、何を言っているんですか?」と努めて明るく尋ねながら、アリアはベッドの端に腰掛け、――養母のとがった肩が、かすかに震えていることに気がついた。
「あの子に、あんなに憎まれていたなんて……ゆめにも思わなかった。わたくし、何を間違えたのかしら? いえ、何もかもだわ。たしかに……優しい、聖母のような母とは言えなかった。あの子が変わってしまってからも、どうしてよいか、見当もつかずにいて、手をこまねいて……。わたくしの愚かさが、あの子の罪を招いたのだわ」
エミリエンヌは外を向いて決してその表情を見せなかったが、消えそうな声が震えていて、アリアにもフレデリクにも、気難しく気高い彼女の頬に涙が伝っているであろうことが伺い知れた。
『――違う! あれはわたくしじゃない!』
包んだ手の中から、アリアとニュクスの耳にしか届かない、悲痛な訴えが上がった。
『わたくしはあんなこと決してしないわ! お母さまを殺そうとするなんて! ――お母さまのバカァッ! 大好きなのに! ずっと大好きなのに! どうして、気づいてくれないのよぉッ!』
「……!」
耳を打つ慟哭に、アリアも泣きたくなった。
やり方は知らない。
真実しか知らない。
(でもこの叫びを聞き過ごして、すれ違いをそのままにしておいて、……この人たちと家族でありたいなんて、卑怯者の願うことだわ)
手鏡を握った右手を突き出して、歌うための息を吸い込んだ。
「……顕せ……」
歌おうとすると、しかし、魂の奥から途方もないものが引き摺り出されるような感覚があり、――ニュクスが横から手を伸ばし、アリアの口元をパシッと押さえた。
「――仕方のない子だ」
声はため息混じりで、夕刻の目は、言うことを聞かない幼い子どもを見るような色をしていた。
境界を超える力を使うことは、ニュクスのような半神にとっては不可避の発狂と隣り合わせだが、エリュシオンにすら人の身を置くリオンダーリならば、不可能ではない。
それでも途方もない魔力を消耗するため、使わせたくはなかった。
この状況下、どうあっても鏡の少女を顕現させようとするだろうということは、ニュクスにはわかっていた。
再び巡り合ってからこれまで、この花々を飛び回るハチドリのように賑やかな少女から目が離せずに、ずっと見ていたから。
避けられないのならば、最低限、魔力効率のよい歌を教えなくてはいけない。
そのためにニュクスは、決して見つかってはならない敵に姿を見られる危険を冒してまで、屋敷の中までついてきたのだった。
「ほどけ うたかたの波濤 銀の月 満ちた海 ……繰り返してください」
「ほどけ……うたかたの波濤 銀の月 満ちた海……」
――カチリと、どこか遠くでゼンマイを回す音がした。
「!」
胃の辺りからドッと魔力を奪い取られる感覚があり、思わずアリアが身体を折ると、すかさずニュクスが支えた。
『お母さまぁ……ッ!』
「!」
――その声は、たしかに空気を揺らした。
聞き慣れた、それでいてたまらなく懐かしい響きに、エミリエンヌとフレデリクが、弾かれたように顔を向けた。
アリアはニュクスに寄りかかりながら、自分の手の中にある手鏡を開いて、二人に見せた。
指一本も動かしたくないほど身体が重い。
「……こちらです。セレスティーネさま……お姉ちゃんは、ずっと、鏡に閉じ込められているんです」
小さな鏡面の中。
真っ赤に泣き腫らした目をした小さな女の子が、ぎゅっと腕組みをして、両親をきつく睨みつけていた。
『――遅いわよ! お母さまもお父さまも、今までずっと何してたのよ!』
エメラルドグリーンの瞳に、涙の膜がじわりと浮かんだ。
++++
「……まさかセレスが星宿りだったとは」
セレスティーネとニュクスから一通りの説明を聞いたフレデリクは――アリアは魔力をあらかた持っていかれてしまったため、エミリエンヌの横でひっくり返って寝ている――、頭を抱えながらそう独りごちた。
『星宿り?』
「一部の貴族たちの間に、まことしやかに伝えられているおとぎ話があってね。まれに、異界の記憶を持つ魂が現世の者に入り込んでしまうという……。ただの伝説だとばかり思っていたよ」
「それはどうでもよくてよ。問題は、どうやって元に戻すか、それだけよ」
手鏡を膝のうえに大事そうに抱えながら、エミリエンヌはキッとフレデリクを睨んだ。
「かわいそうなセレス。父親が無能なばかりにこんな姿になってしまって」
『違うわお母さま。悪いのはあの女! あの女がわたくしの身体を奪ったからよ! さあ、さっさとこらしめてちょうだい!』
「こらしめるとはいうけれど、あなたの身体だもの。そう手荒なことはできないわよ。処罰を与えるというのは、あなたの経歴に傷をつけるということでもあるのだもの」
『もう! もうもう! どうしたらいいと思う!? アリア!』
「ほげっ」
遠慮なく話を振られて、微睡んでいたアリアは瞬きをした。
ニュクスが「――令嬢セレスティーネ」と冷たい視線で手鏡を見下ろした。
「彼女はあなたを顕現させるためにほぼ全ての魔力を費やし、向こう一週間は満足に動けない状態です。貴重な休息中だというのに、無遠慮に話しかけないでください」
『わ、悪かったわ! わかったから威圧するのをやめなさい! ……わたくしだって、感謝してるのよ。力を全部使ってわたくしの声を届けてくれたことだけじゃなく、アリアには恩があるわ。お母さまを救うために飛び込んでくれたのも、この子だけだったもの。お父さまだって見捨てたのに!』
「ウッ」
「本当ね。この男も皇族たちもまるで役に立たなかったせいで、殿方の前で下着一枚になって湖に飛び込むなんて無謀をしでかさなくてはならなかった。無鉄砲で恥知らずで……誰よりも気高く、優しい子だわ」
『わたくしがいない間、アリアがお母さまのお側にいてくれて、本当によかったと思ってるの。わたくし、ずっと鏡の中からこの子を見ていたの。すごかったのよ! あの女がどんな悪事を企てようと、真正面から虫でも払うように叩き潰していたの!』
「ええ。早くあなたが身体を取り戻して、アリアとおそろいのドレスを着せるのが楽しみだわ」
『赤がいいわ! ギラッギラで宝石がたくさんついた豪華絢爛なやつにして!』
「そうね。そこの男に今回の詫びとして一式揃えさせましょう」
「お安い御用だとも……」
気の強い母娘の会話に苦笑しつつ、フレデリクは、ひたすらアリアを気遣わしげに見つめているニュクスを見た。
「今さらだが……きみは、魔術師ではないんだろう?」
「……」
ニュクスの黒い瞳が、険を込めてフレデリクを見据えた。
隈のおりたその眼差しは、年若い少年の顔立ちに似つかわしくない、老成した暗い影を滲ませている。
フレデリクは慌てて手のひらを向けた。
「いや! 誤解しないでほしい。エミリエンヌとアリアの命の恩人に対して、素性を探ろうなどとしているわけではないんだよ。ただ、不死鳥を倒したときにも感じたけど、アリアは……ユスティティアさまと同じ力を使えるのではないだろうか? あの聞き慣れぬ歌……。そしてそれは――きみが教えているのではないかな?」
「……愚かな」
黒い目が、いよいよ不快げに細められた。
「察したのであれば、黙っていればよいものを。好奇心は猫をも殺す。――あの方の権能を知っているのなら、この手の一振りでたやすく、お前の妻も娘もお前自身も消し炭にできるということも、知っているはずだろう」
窓辺から差す光が逆光となり、にわかに少年の表情は闇に沈んで、貫くような怒りを込めた視線だけが金の光を帯びて濃く輝いた。
「失礼! 咎め立てするつもりはなかった!」
弁解したものの、ニュクスの左手がふわりと持ち上がった。
「!」
フレデリクも立ち上がり、腰に佩いていた剣の柄に手をかけた時。
「――よくてよ」
相変わらずくつろいだ様子で、二人の娘を愛おしそうに見つめているエミリエンヌが、扇で自らを仰ぎながらそう言った。
「フレデリク・プランケット。お前は本当に白痴ね。下手くそだわ。こちらがどういう立場なのか明らかにしないうちから詰問しては、怒りを買うに決まっているじゃないの。この少年はね、あのユスティアの子分なのよ」
「こ……っ」
予想だにしていない単語で形容され、ニュクスはパチパチと瞬きをした。
お読みいただきありがとうございます!
やっと両親と会話させてあげられました!
セレスティーネ(本物)のセンスは、悪役令嬢らしく金ピカ成金趣味です。




