第56話 湖畔の宴(5)ー炎威、敵すべからずー
岸辺に息を切らせて現われたのは、プランケットの使用人と近衛たちだった。
エミリエンヌとアリアを目にして、探し人を見つけた安堵の表情を浮かべたが、見知らぬ少年もいる上にリクハルトが地面に倒れているこの状況を掴み切れず、首を傾げた。
「お、お嬢さまッ! ご無事ですか!?」
「ええ。お母さまも無事よ。こちらの方……えーっと、魔術師さまが助けて下さったの」
「はじめまして。通りすがりの魔術師です」
ニュクスはいつの間にか眼鏡をかけ、瞳の色を赤紫から黒に変じていた。ぬかりない。
「そこに倒れているのは……ひょっとしてリクハルトですか? え? やつはここで何を?」
本邸から連れてきた使用人の一人、従僕のトゥーサンが尋ねると、アリアの表情に隠し切れない怒りが浮かんだ。
「ここでは話せないわ。トゥーサン、とりあえず屋敷にいる人にお湯をわかすように伝えてくれる? お身体が冷えて風邪をひいてしまうから」
「はい、ただいま!」
「近衛の皆様は、お母さまを運んでいただけますか? 部屋までご案内します」
「はっ」
ニュクスをチラリと見たが、(ついていきます)という顔をしていたので、アリアも目で(了解)と伝えた。
この先には、ニュクスたちの仇である皇族の二人もいる。
だが会わないようにしようと思えば、この年若くも並ぶ者のいない天才は、どうやっても容易く逃れられることができるだろう。
エミリエンヌと、動けないリクハルトを抱えた近衛を先導して駆け足で斜面を上り、野ばらの茂みを抜けると、プランケット別邸が見えてきた。
玄関前には、皇太子たちやフレデリクが近衛に囲まれたまま、所在なく佇んでいた。
その真ん中にセレスティーネがいるのを目にして、朝焼け色の瞳が自然と鋭くなる。
「お嬢さまあああ!」
真っ先に気が付いたメラニーは、大きな猫目に涙をいっぱい溜めながら駆けつけてきて、その後をカトリーヌが、ふらつきながらも追いかけた。
もともと血色がいいほうではないが、敬愛してやまない主人の身に起きた命の危機ですっかり血の気が失せて、彼女のほうが倒れそうだ。
フレデリクもまた、救助班の帰還を知ると大股で駆け寄ってきた。
「無事でよかった、アリア。……エミリーは?」
「生きていらっしゃいます」
アリアは目も合わさず、そっけなくそれだけ答えると、安堵の息を呑んで倒れそうなカトリーヌの肩を支えながら、エミリエンヌを抱える近衛に「二階に上がってください」と指示を出した。
――フレデリクとて、叶うなら自分が飛び込んで助けたかったに違いないということは、アリアだって承知している。
最悪の事態を想定して、今後の皇室と家門の関係まで勘案をしたうえで、舟の上で皇位継承者を守ることを選択したのだろう。
だがそれでも、家族以上に守るべきものがこの世界にあるとは――それがほしくて仕方ないアリアからすれば、到底、思えなかった。
(わかってるわよ、わたしの考えが偏ってるってことは。……でも水に流していいことだなんて、決して思わない)
フレデリクは知らないのだ。
気位の高い自分の娘が、出られないと知りながら鏡に拳を打ち付けて、どうか誰か母を助けてくれと気が狂うように懇願していたことを。
エミリエンヌが生きていると耳にして、テセウスに縋り付いていたセレスティーネは、弾かれたように顔を上げた。
氷色の瞳に浮かんだのは驚愕――続いて、憤怒だった。
「……ああっ! テセウスさま!」
安堵で緩んだ空気を割くような甲高い声を上げ、衆目を引く大げさな身振りで、テセウスの胸に顔を埋めた。
「わたくし、恐ろしいですわ……! お母さまを殺そうとした子と、これからも一緒に暮らさなければいけないだなんて! 胸が張り裂けそう……!」
「セレスティーネ嬢……」
テセウスは秀麗な顔に疲れを滲ませながら、途方に暮れた様子で眉を下げた。
ここにたどり着くまでに、何度もこうやって、誰が何をしでかしたのか強調し続けたのだろう。
近衛兵や別邸の使用人たちから、許されざる罪人を見る視線がアリアへと突き刺さった。
誰も犯行を目撃していないとはいえ、繰り返し熱を込めて語り続けたら嘘も真実らしくなる。
国境伯夫人を舟から突き落としたとされているアリアが捕縛されていないのは、曲がりなりにもプランケットの養女であるからに過ぎなかった。
「だーかーらッ! アリアお嬢さまは絶対にそんなことしないって、何度言ったらわかるんですか!?」
「嫌、怖い……っ! このメイド、あの子の手先なんですの! 使用人の分も弁えず、いつもこうしてわたくしに敵意をむき出しにしてきて……!」
(賎陋な……)
ニュクスは汚物を見るように、黒く変えた瞳を眇めた。
(醜悪な茶番だ。これ以上、一言たりともこの子に聞かせる価値はないな。高潔なリオンダーリの心には無用な毒だ)
そう判断するが早いか、ポケットの中で魔法の発動を準備しながら「黙らせましょう」と前に立つプラチナブロンドを覗き込み、――そっと、身を退いた。
自分の働きかけが不要であることを、夜の帳の血が悟らせたからだった。
「――耳が腐りそうだわ」
張ったわけでもないその声は、ほんの短い一言だけであらゆる者の耳を引き寄せる。
朝焼け色の瞳は、真夏の日差しのように燃えていた。
生まれついての大貴族や皇族すらも前にして全くたじろがず、むしろ不快げにひそめた眉は、軽蔑さえあらわに滲ませた瞳は、――目前の何もかもが無価値であると、雄弁に語っていた。
セレスティーネは、横から覗き込んだだけで頬を焼くほどの、熱を放つ激しい眼差しを真正面からしたたかにぶつけられ、引き攣った悲鳴を上げて後ずさった。
しがみつかれているテセウスもとばっちりで威圧され、背筋にこっそり冷汗を流した。
「あと千回でも、そうやって嘘を吐いていればいい。自分の魂が恥じる生き方を選ぶのなら、気が済むまで繰り返せばいい。――必ず、あなたの魂が牙を剥くわ。真実はほかならぬあなた自身が知っているのだから。裏切りも恥も愚弄もすべて、必ず支払うことになる」
怒りと軽蔑を傲然と表し、堂々と見下すその様子があまりに自然だったものだから、居合わせた者たちは、この場にいる誰よりも位が高い者の不興を買ってしまったのだと思わず錯覚した。
この国で最も見下されるべき、半獣の孤児だというのに。
「……! なっなにが言いたいの!? だれに向かって口を利いていると思っているの!? まさか、わたくしがお母さまを突き落としたとでも言いがかりをつけているつもり!? そうやってまた、わたくしに罪を被せようとして、いつも……!」
「そんなことが、それほど大事?」
黄金の眼差しが眇められ、セレスティーネは「ヒッ」と息を呑んだ。
失望と蔑みの色が、煮詰めたように濃く輝いている。
「あなたの口からお母さまを心配する言葉は、一言も出てこないようね」
セレスティーネの白い頬に、怒りか羞恥か、朱が散った。
――本当はこの義姉が突き落としたのだと、アリアの口から告げる気はなかった。
衆目を前に真犯人を論わないのは、ただひとえに、本物のセレスティーネのため。
鏡の中でただ一人、涙を流して母の救助を願ったあの子が汚名を着せられるなど、許せなかったからだ。
「言いがかりをつけて……! 心配しているに決まっているでしょう! わたくしの母親よ! 血のつながりもないあなたと違って、わたくしは本物の娘なのよ! ――リク! リクはどこ!?」
味方を増やすため、セレスティーネはリクハルトを探し、近衛に運ばれてベンチの上で倒れている姿を目にして、「キャアアア!」と耳をつんざく悲鳴を上げた。
「どうして!? どうしてリクが気絶なんてしているの!? ひどいわ! ――アリア・プランケット! わたくしの従者に何をしたの!?」
「うるさいわよ」
実際に両耳を抑えながら睨みつけると、セレスティーネは突然言葉を奪われたかのように、口をパクパクと開閉させた。
ニュクスは何食わぬ顔で、左手をポケットの中に戻した。
今度こそ、これ以上不毛な囀りを大事な少女に聞かせる必要はないと、黙らせたのだった。
「カトリーヌ。お母さまは?」
「お、お目覚めです! でも、何もお話にならなくて、窓の方を見てぼーっとされていて……! 頭をぶつけたりしてはいないか、侍医が調べているところです」
「わかったわ。わたしも行く」
「――待ってくれ! 結局、きみは突き落としたのか、突き落としていないのか?」
言外に、セレスティーネがやったのではないかとテセウスは問いかけたが、つかまれた腕を、アリアは躊躇いなく外した。
「テセウスさま。それはわたしが語ることではありません」
瞳から火は消え、いつもの朝焼け色に戻っていたが、いまだ強い怒りがくすぶっているのを目にして、テセウスは息を呑んだ。
「すまない……」
邸内へ消えるアリアを見て、メラニーも足早に追いかけた。
明言されずとも、いつも朗らかに笑っている小さな主人の尋常ならぬ怒りようから、舟の上で何が起きたのか、彼女は悟っていた。
いつかこうなるとはわかっていた。
セレスティーネはいつも、アリアを貶める道を選んできたのだから。
だが血の気の失せた顔で口元を抑え、立ち尽くしている黒髪の少女を一瞥すると、胸に走る痛みがあった。
とうとうこの日、アリアがセレスティーネに真正面から対峙した。
プランケットの姉妹は、決定的に分かたれたのだ。
(……わたしがすることは変わらない。まずアリアお嬢さまのお召替えをして、温かいレモネードを作って持っていくの。飲んで頂いている間に、髪を乾かしてあげなくちゃ)
自分だってびしょ濡れで、借り物らしい黒いローブの下は下着一枚で、疲れ果てた顔をしているくせに。
メラニーの主はずっと人のために怒って、人の心配ばかりしていたのだから。




