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第55話 湖畔の宴(4)-アストライアの制約-

 不意にガサッと草の揺れる音がして、ニ対の赤い瞳が茂みを映した。


「! ……生きていたか……!」


 そこには、煮詰めた紅茶色の瞳を見開いたリクハルトが立っていた。


(こいつが一人でいるなんて珍しいわね……)と思った瞬間。


 頬を刺すような突風が吹いて、その鋭さに思わずアリアが目を閉じると、バシッと人体をしたたかに打擲する音が聞こえた。


「愚か者が!」


 目を開くと、ニュクスがリクハルトの腕を取り押さえていた。


 リクハルトはいつの間にかエミリエンヌへ間合いを詰めていて、振り上げた拳からは、長い紐が垂れ下がっている。


(……紐?)


「その、紐で……何をしようとしたの」


 呆然としたアリアの問いに、灰色の髪をした侍従は眉を寄せて顔を背けた。


 胸の内に不隠な雲が輪郭を作り始め、ここに至るまでの経緯を思い出す。


(そう。あの時、急に爆発音が聞こえて、全員の注意がそちらに向いて……お姉さまが、お母さまを突き落としたんだったわ)


「……まさかとは思うけど……」


 恐ろしい想像に、喉が震えるかと思ったが、出てきたのは石のように冷たく堅牢な声だった。


「あなたが爆発音を上げて近衛の気を引いた隙に、お姉さまがお母さまを湖に突き落とす……そういう手筈だったの……? あなた、それに加担した? それで今、お母さまが生きているのがわかったから、首を絞めて……トドメを刺そうとしているの?」


「……」


 紅茶色の瞳は逸らされ、何も語ることはないと言うように口元は硬く引き結ばれている。


 無言すなわち、肯定。


 ――稲妻のような怒りが、アリアの脳天を貫いた。


「黙っていていいと思っているの!? 答えなさい! リクハルト・ハーゼナイ!」


 瞳がいつかのように熱かった。


 爆発したのは、この男への怒気ではないと知っている。


 一線を越えた()の侍従の主のこと――大事なものをたやすく踏みにじってしまえる彼女のことが、自分たちを物語の登場人物としか認識せず、心も命もあるとどうあっても理解しない義姉のことが、許せなかった。


「……ッ!」


 リクハルトはつい、黄金に色を変えた瞳を見てしまい、動けなくなった。


 赦しを乞いたい。


 膝をついてしまいたい。


「!?」


 奇怪な感情が自らの脳裏を走り、動揺のあまり「黙れ……! 黙れ黙れ黙れ!」と怒鳴って頭を振る。


 ニュクスは腕を捉えたまま、「屈服した方が楽だというのに」と冷たい嘲笑を浮かべた。


「イリオンの血をひく者が、よりにもよってリオンダーリに弓を引くとは。猿猴捉月(えんこうそくげつ)、向こう見ずの怖いもの知らずというほかありませんね」


「イリオンだと!? 知るか! とっくに滅んだ国のことなど、おれには関係ない!」


 侍従がいくら身をよじっても、ニュクスに押さえつけられた腕はビクともしない。


 憎しみに駆られた紅茶色の目が、アリアを下から睨み上げた。


「全て――全て、貴様のせいだ! セレスさまはこのようなことをなさる方ではなかった! あの臆病で優しい方が……! 貴様がッ! 半獣の汚れた孤児の分際で! 足元にも及ばぬ価値しか持たないくせに、のうのうとあの方の領分を侵すから! セレスさまの罪は何もかも、貴様の所業だ!」


「自己憐憫と責任転嫁だけは一人前ですね。聞く必要はありませんよ、アリア」


 ニュクスは足をかけてリクハルトを転ばせると、地に伏した頭をさらにドカッと踏みつけた。


「ピュティアは医学を司る家系ではありましたが、オルフェンであるため一定の裁判権も有していました。エレウシス朝から変わらぬ法――リオンダーリに傷をつけた者は、その武器を持った腕を切り落とす。弑逆(しいぎゃく)を企んだ者は奈落(タルタロス)へ追放する。実質の死刑です。とはいえ愚かな人間どもの国と違い、イリオンの民は心からリオンダーリを慕っていたので、弑逆が為されることなどありませんでしたが」


 飄々と説明を始めたニュクスを、リクハルトは「貴様は何者だ!?」と自由の効かない頭で何とか見上げたが、紅紫(マゼンタ)の瞳は、冷たい憐みと軽侮を返すだけだった。


「醜悪な蠅の狗よ。その身に流れる千年の血に免じて、極刑は容赦しよう。――お前に三つの制約を課す。これは裁きの女神アストライアの僕、テイレシアスの代理人ニュクス・ピュティアによって為されるものであり、宣言の執行はアストライアの意志である」


 何らかの宣告がスラスラと唱えられると、突然、空中から黄金の鎖が現れてリクハルトを硬く地面に縫い付けた。


「!?」


「一つ目。汝は自らの血が従う王とそのまつわるものについて、一切の他言を禁ずる」


「ぐあッ!」


 空中から黄金の金づちと太い釘が現れ、ニュクスが言葉を切ると同時に、リクハルトの背に容赦なく釘を打ち込んだ。


「二つ目。汝は、自らの血が従う王を害すること、それを企てることはできない」


「うああッ!」


 カンッ! と二本目の釘が打ち込まれ、リクハルトが苦痛に身をよじらせた。


「三つ目。汝は自らの血が従う王に問われたら、いついかなる時も、真実を述べなくてはならない」


「ぐっ……ううう……!」


 三本目の釘が首に打ち込まれると、黄金の金づちは空気に溶けた。


 釘も幻影だったらしく、打たれたところに血がにじむことはなかったが、痛みは本物のようで、リクハルトは鎖を解かれても荒い息で呻いていた。


「先輩……今のは」


「イリオン式の刑の執行ですよ。テイレシアス家も滅びて長いので、アストライアも久々だったことでしょう」


 アストライアという神の名は、フラゴナール邸での水鏡の儀でも耳にした。


 ずいぶんとおっかない神がいるものだと思ったが、この制約を見る限り、やはり情け容赦ない神らしい。


「この者が、曲りなりにもぼくたちと同じ血を通わせていなければ、焼き払っていましたが。――ああ、あの醜悪な女は恩赦の対象外ですよ。魂の入れ替わりの件があるので、いつどのように片を付けるか悩むところですが」


「先輩がそんなこと、する必要はありません。わたしだってリクハルトに一発喰らわそうと、正拳突きを練習しているんですから」


「そうですか」


 シュッシュッとパンチの真似を目にしたニュクスはほほえましげな笑みを浮かべかけたが、ふとなにかを思い出したらしく、再び三白眼に凶悪な怒りを灯した。


「……そういえばこの者、きみを殴ったことがありましたね。やはりどうあっても腕は切り落としておかなくてはならないようだ。――右腕でしたか、左腕でしたか?」


「だから、そんなことをする必要はないんですよ!」


 アリアは、ニュクスが優しい人柄であることを知っている。


 たとえユスティフの貴族に苛烈であったとしても、イリオンの血が流れるリクハルトに対して刑罰を執行するのは、本意ではないはずだ。


(いやなことは全部、自分がやろうとしているんだわ……! わたしの代わりに)


 どうしてかニュクスは、年もそう変わらないはずなのにアリアの保護者であろうとしていて、だからアリアの手が汚れないよう、良心が傷つくこともないよう、意向すら聞かずに制約を執行した。


 ふだんは心地よいその過保護さが、今ははがゆかった。


「なんでも背負うのはやめてください! いやな役目をだれかに代わってもらおうなんて、そんな了見で生きていないわ」


「できません」


 間髪入れずに答えた夕刻色の瞳は、かたくなな信念を滲ませていた。


「ぼくが最初に何と言ったか、忘れたんですか? きみがイリオンの残党に関わることは看過しないと、そう言いました。――赤い目を持つ人間のことは忘れなさい。背負おうとすることもやめなさい。きみには……幸福な人生を歩んでほしいのです」


「……」


 幸福な人生とは何だろうか。


 それはニュクスやネメシスと同じものを見たら――彼らが目を凝らしている闇を覗いてしまったら、手に入らないのだろうか。


 尋ねたいことは山ほどあったが、こちらへと向かう複数人の足音をアリアの耳が聞きつけた。


 顔を向けると、ニュクスも気づいたようでそちらを見た。


「……わたしだって、先輩と師匠に幸せになってほしいですよ。どんな人よりも」


 ふてくされたように零された呟きは、何よりも温かくニュクスの胸に沁みこんだ。


 自分が捨てたものを、大事そうに拾い上げてくれる少女のやさしさと、――いずれ必ず一人残さなければならないことを思い、ニュクスはただ、困ったような笑みを浮かべた。

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