第54話 湖畔の宴(3)-蛇-
「皇弟殿下ッ皇太子殿下! ご無事ですか!?」
「おれたちのことは良い! エミリエンヌを早く救出せよ!」
「先に殿下方の安全を確保してからでなくては!」
「なっ、なにを言っているんだ……!? おい、ただちに舟を止めよ!」
「なりませぬ皇太子殿下! 狙撃される恐れがあります! 船頭、止めてはならぬぞ! 早くここから離れよ!」
男たちの怒号も足音も。
「湖を覗き込んでいたお母さまを、この子が急に突き飛ばして……! わたくしっ、びっくりして何もできませんでした……!」
引きつるようにしゃくりあげる少女の声も。
アリアの耳には、幾重にも遮断された壁の向こうのように聞こえた。
『ぃ、嫌! ――お母さまアアアアア!』
ポケットから上がった鬼気迫るひび割れた悲鳴だけが、意識を引き戻し、つかの間、呼吸を忘れていたことに気が付いた。
「――切り裂け!」
喉は歌い、自らに向けた指先でドレスを縦に引き裂く。
アリアは養母とお揃いの色をしたドレスを脱ぎ捨てて、衆目の中、何の躊躇もなく下着一枚になった。
水上の者たちの息を呑む音も、狂人を見るような視線も些事である。
「! アリア、ダメだ!」
珍しく余裕のない養父の制止も、セレスティーネが突き落としたということも、おそらくあの爆発音すら彼女の企みの一つだろうということも、些事である。
『誰か、誰か! お母さまを助けてよ! お願い、誰かあ……!』
――脱ぎ捨てたドレスの下から届く鏡に閉じ込められた少女の嗚咽は、自分にしか聞こえない。
フレデリクも近衛兵たちも、エミリエンヌを見捨てたくて見捨てるわけではないだろう。
だが帝国の皇位継承者二人の身に危機が迫っているかもしれない状況が、救助を許さない。
命を天秤にかけずにいられる者は、ここに自分しかいない。
アリアはためらわず、舟底を蹴飛ばして水に飛び込んだ。
(早く見つけないと! あの恰好で突き落とされたら何もできないわ)
ドレスを着たまま泉に落ちた時の、どうにもならなさを覚えている。
この身体が重りとなっているかのようにどんどん沈んでいき、酸素は瞬く間に尽き、死がすぐ隣でその息遣いを聞かせていたあの時の恐怖を。
(それにしても水の中ってこんなに見えづらいのね。岩や水草や水の流れが邪魔で……あっ、水流!)
自分の髪を見ると、右前のほうへたなびいているのがわかった。水の流れはあちらへ向かっている。
きっとエミリエンヌも同じ方向に流されているはずだ。
『前進せよ!』
水の中で歌をうたうのは、魔力効率が非常に悪いとネメシスから教わった。
確かに口にした瞬間、身体が一気に重くなったが、エリュシオンの権能は声に従ってきちんと、すさまじい速さで前方へとアリアを引っ張った。
泡沫がどんどん後ろへ流れていく。
雑な呪文だったため、岩などの障害物は自分で避けるしかない。
避けきれなかった水草や岩が肌に傷を作っていく。
(あばばばばば……! は、早すぎるわ! ありがたいけれど……!)
前方に、水草にしては鮮やかなフォレストグリーンがたなびいているのが見えた。
(! お母さま!)
そのまま近づくと、エミリエンヌは意識を失っているらしく苦しげに眉を寄せて目を閉じていた。
アリアは手を伸ばして、細い腕をぎゅっと掴んだ。
あとは水上に上がるだけと上を向いたが、エミリエンヌのドレスが重くて、何度掻いても引きあがれそうにない。
(あと魔法を使えるのは、一回か二回……!)
酸素も魔力も残り少ない。上に上がっても岸までたどり着かなくてはいけない。
どの呪文を唱えようか逡巡したその時、ふと、突風のような水音が聞こえた。
(えっ)
何か非常に強い力に腹部を掴まれたと思ったとたん、エミリエンヌを抱えたまま、目を開けられないほどのスピードで進み始めた。
(なに!? なになになになに!?)
誰何を口にする間もなく、太陽の光が見え、アリアは水上に頭を出すのと同時に「ぷッッはァァァァ!」と空気を吐き出した。
混乱しつつ己の腹を見下ろすと、光沢のない黒いうろこが目に入った。
いまだ水面下から見上げてくる、つぶらな赤い瞳も。
「ぅえっ? ……蛇?」
見たことのないほど、巨大な大蛇だった。
胴はアリアが両手を広げてもまだ余りある太さ。
大の大人も軽く数人丸呑みにできてしまうような、明らかに魔物の大きさをしている。
アリアが息継ぎをしたのを把握したのか、大蛇は再び加速して一息のうちに岸辺へとたどり着き、口に咥えた人間を離した。
「ゼエッ、ゼェ、は〜〜〜……!」
水から打ち上げられた身体はずしりと重い。
荒い息を吐きながら顔を上げると、ぐったりと地面に横たわるエミリエンヌの姿が目に入り、アリアの頭から、一呑みで自分を喰えてしまうだろう正体不明の大蛇がすぐ背後にいることさえ消え失せた。
倒れた養母の頬は蒼白で、苦しげな表情のまま、鼻も口元も動いていない。
「――お母さまッ!」
パファッ
養母に取りすがった瞬間、大蛇の頭部が二つに割れて、まるで脱皮でもするかのように中から人間が姿を現した。
「……先輩?」
果たして、蛇の中にいたのはニュクスであった。
眉を寄せ、怒りとも困惑ともつかない複雑そうな顔をした魔法使いが地に降り立つと、抜け殻になった大蛇はサラサラと風に溶けた。
(……助けに、きてくれた……)
助けてほしい時に、一番頼りにしている人が。
張り裂けそうな不安に、にわかに温かいものが混じってきて、アリアは思わず涙ぐんだ。
(きっと先輩なら、お母さまを救えるはず……! でも、師匠と先輩にとってはユスティフの貴族はイリオンの仇……。助けて……くれるかしら?)
ニュクスは涙目のアリアを視界に入れると――格好が格好のため一瞬で目を逸らしたが――もともと険しい表情をさらに険しくさせ、自らのローブを脱いで小さな肩からすっぽり覆い被せた。
「癒す者 薬師の蛇の主よ 呼吸を与えよ 絶え間なく巡るものを」
アリアの危惧に反し、ニュクスは迷うことなくすみやかに歌をうたってくれた。
薬品で少し荒れた指先でエミリエンヌの胸元を指し示すと、わずかに風が起き、濡れた衣服がふわりと空気をはらんだ。
「――ヒュッ、ゴホッ! かはっ」
エミリエンヌの口から水が吐き出された。
苦しそうではあるがゼエゼエと呼吸をし始めて、アリアは歓喜の息を呑んだ。
「お母さま! しっかりして!」
「少し水を飲んでいます。が、権能の手応えはありました。まもなく、無事目を覚ますでしょう」
横向きに寝かせながら告げられた言葉に、ピンクの瞳からとうとう涙がこぼれた。
「よかった……! 手遅れじゃなくて、本当に……! ありがとうございます!」
ニュクスは複雑そうな顔をしたまま、「……いいえ」と小さく答えた。
「それにしてもどうしてここに?」
「待機していました。きみから目を離すと何が起きるかわかったものではないので」
「いつから?」
「……アンブローズが到着した時からです」
「昨日からじゃないですか!? また前日入りして! 言ってくださいよ!」
ニュクスは紅紫の瞳を翳らせたまま、アリアの手を取って、血の滲んだ傷を癒した。
「……きみが飛び込んだりしなければ、見捨てていました。今だって、この女性の行く末に興味はない」
「当たり前です。師匠と先輩にとって、ユスティフの貴族は決して許せない敵でしょう」
暗い呟きに対して間髪入れずに答えると、ニュクスは面食らったように目を瞬かせた。
「それでもこうして助けてくれた。心は関係ないです。わたしにとっては、お母さまを救ってくれたということが全部。――先輩はわたしにとって、やっぱりたった一人のヒーローだわ」
「今日も助けてくれてありがとう」と、洟をすすりながら笑みを浮かべると、ニュクスもまた、かすかに笑みをのせた。
痛みをこらえるようでもあり、眩しいものを見るようでもある、苦しそうな笑みだった。
「……当然です。ぼくはきみの――たった一人の、オルフェンですから」
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「パファッ」の擬音は、みんな大好き寄生獣からです!




