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第53話 湖畔の宴(2)

『あの女に気をつけなさい』


 湖へと向かう行列に混じりながら階段を下っているところで、ポケットから自分にしか聞こえない声が上がり、アリアはそっとピンクの瞳を落とした。


『昨夜、あいつらが何か企んでいたのを見たのよ。ハッキリと声に出していなかったから、何をする気なのかわからないけれど……狂ったシナリオを正すって、そう言っていたわ』


「狂ったシナリオを、正す?」


(ど、どれのことかしら?)


 鏡のセレスティーネが言って聞かせてくれた原作とは、すでにかけ離れてしまっている。


 テセウスやエルヴェとはカントループに入学してから出会うようだし、どうやら自分は頭がお花畑で、何をされても反撃したり、疑ったりすることなどないらしい。

 当然、仕留めた不死鳥を肩に乗せてもいない。


 いったいどれを、どのように正すというのか。


(どうか、大したことじゃありませんように……)


 すぐ目の前を、侍従に手を取らせながら歩く黒髪を見つめながら祈った。


 ――その身体で悪事を重ねれば、身体の持ち主も、セレスティーネを愛している人たちも、傷つくのだから。




 サンコウチョウの鳴き声が月、日、星、と聞こえるまぶしい朝。

 耳に涼しい澄んだせせらぎ。


 エリサルデは、ほとりに淡い桃色の蓮が咲いた美しい湖だった。


「お待ちしておりました」


 船着き場で待っていたのは、カヌーと呼ばれて想像していた細長い乗り物ではなく、小型の舟艇――それもきらびやかな――であった。


 貴人の身体に無骨な木造が触れないよう、鮮やかなターコイズブルーのクッションが敷き詰められ、頭上には日除けの天蓋から透きとおるベールが垂れ下がり、カラリとした風が吹き抜けるたびに大きくはためいた。


(ごっ、豪華~~~~! ただの舟遊びもこの人たちがやるとなると、こういう感じなのね!?)


 お茶会やら晩餐会やらが華やかなものだとは想像がついていたが、果たして素朴なアウトドアまでこうも贅を尽くした形になるとは考えていなかった。


「殿下、お気をつけてお乗りください」


 フレデリクのエスコートで、一向は天蓋のついた豪奢な舟に乗り込んだ。


 一艘の定員は八名ほど。


 皇家と国境伯家の六名と船頭が乗り込み、その周りに皇家の近衛たちの舟が並走する。


「ほら、どうぞアリア嬢」


 ランスロット手ずから差し出したのは、木製のパドルだった。


 昨日、アリアも漕ぐと言っていたことを覚えてのことだろうが、大人の背丈ほどもある櫂はどう見ても手に余る。


「――なーんてな! この櫂はおれがいただこう。令嬢は夫人とくつろいでいてくれ」


 からかうだけだったランスロットがパドルを引っ込めようとした時には、すでにアリアの手はその柄を掴んでしまっていた。


「あっ!」


 思っていたよりも重たく、舟の上でバランスを崩した身体を、慌ててテセウスが「危ない!」と支える。


「叔父上! 水上で悪ふざけはやめてください! 落ちたらどうするんですか!」


「悪かった、アリア嬢。もうしない」


「大丈夫です、皇弟殿下。テセウスさま、ありがとうございます」


 港町育ちではあったが舟に乗るなんて初めてのことで、つい浮かれてしまっていたのだろう。


 冷汗をこらえながら礼を述べると、――すぐ隣から「なんということ……!」と息を呑むような声がした。


「尊き皇太子殿下のことを名前でお呼びするなんて……!」


 声を震わせるのは、やはり、セレスティーネであった。


「学のない貧民育ちだからと、これまでどんな無礼にも目をつむってきたけれど、まさか皇族にまで恥知らずな振る舞いをするなんて……! 不敬を許してはおけないわ!」


 今日もエミリエンヌから色合わせの指示があったことを無視して、一見すると質素なダークグレーのドレスをまとい――ちなみに今日の指示は野外活動だからかフォレストグリーンだった。かわいい――、長いまつげを震わせている。


「殿下、どうかお許しください……! この娘も悪気があったわけではないのです! ただ愚かなだけで……」


 セレスティーネは織物の敷き詰められた床に座り込み、神に祈りでもするように胸の前で指を組んで皇太子に頭を垂れた。


 身を震わせながら詫びる口上は、いつになく大きな声だったため、周囲の近衛の舟にもよく届き、咎めるような厳しい視線がいくつかアリアに向けられた。


 皇太子に粗相をしておいて平然としている平民出の娘と、義姉であるがゆえ代わりに詫びる貴族令嬢――そのように見えているだろう。


 だが、アリアはただランスロットに言われたとおりエミリエンヌの隣に腰を下ろし、テセウスを見据えた。


 委細承知したテセウスは、天蓋の影が落ちた秀麗な顔に、貴公子の笑みを貼り付けた。


「騒ぎ立てるほどのことではないよ、セレスティーネ嬢。わたしが許可を出したんだ。アリアとは友人になったからね」


「!?」


 セレスティーネの顔色が変わり、岸の方へぞっとするような冷たい視線を走らせた。


 いつも一緒にいるリクハルトは舟の定員上、陸地でお留守番である。


(あっちを睨んだ……ってことは、そんな報告受けてないわよってところかしら。じゃあ、昨日のテセウスさまとの会話、盗み聞きされていたって考えた方がよさそうね。……は~まったく! 家の中だというのに監視をつけて、鬼の首を取ったようにわたしがいかに性悪かアピールしてくるんだから)


『アハッ無様だこと! 聞いた? あの女は他人行儀に呼んでいるのにお前のことは親しげに呼び捨てよ!』


 ポケットから鏡の嘲笑が高らかに上がった。


「さて皆さん、そろそろ出発しませんか? 時間は有限だ。そちらの船頭の方、このパドルはどう使えばよいのですか?」


 テセウスが話を切り替えたおかげで、緊迫した空気は霧散した。


 船頭がパドルの使い方を実演してみせると、ランスロットやテセウスたちも真似をして水に差し入れて、ゆっくりと舟は岸から離れた。


「セレス。いつまでそうしているつもり? みっともなくてよ」


 エミリエンヌに声をかけられて、床に座り込んだままのセレスティーネは立ち上がって、アリアとは反対側の母の隣に腰かけた。


 てっきりテセウスたちのほうに行くかと思っていたので珍しいと思ったが、その表情はあちらを向いてしまっているのでわからない。


 まあ十中八九、アリアのことを射殺しそうな目をしていると思う。


『それにしても……他でもないわたくしの身体なのだから、もうすこし理性的にふるまってくれないものかしら? これじゃあ、お母さまに失望されてしまうわ……』


「……」


 少しだけ不安そうな色をにじませた声に返せる言葉を、アリアは持っていなかった。


 実際に本物のセレスティーネが鏡に閉じ込められてから、エミリエンヌとの距離は広がる一方のようだったから。


 もし自分が同じ状況だったら――母が生きていて、自分の身体には母をないがしろにする別の人間が入り込んでしまい、失望を重ねて関係が冷え切るのをただ見守ることしかできない状況に陥ったとしたら。


 アリアとて、相手を殴っても気が収まらないだろう。

 たぶん泣いて謝られても許せない。


 ましてや、いつ戻れるのかもわからないのだ。


(あのお姉さまでは、お母さまのこともお姉ちゃんのことも、ひどい状態にするだけだわ。早く、元に戻す方法を見つけないと。――絶対に、見つけてあげなくちゃ)


「……あっなにか光った! お母さま、お魚がいます!」


「そりゃいるわよ、こんな大きな水たまりだもの。あまり身を乗り出して落ちないように気を付けなさい」


「お夕食に出てきたりするかしら」


「淡水魚はねえ、モノを選ぶのよ。――ああ、あれ。あのすばしっこい魚、ペルシェというのだけれど」


 アリアの声につられて、面倒くさそうにしていたエミリエンヌも縁から肩を出して、水面を見下ろした。


「ペルシェは十五センチ以上になってしまうと味が落ちると言われているわ。だからあれは、食べごろね」


「わあ! おいしそう!」


「あとここでよく採れるのはザリガニ、フィーラあたりかしら。幻と呼ばれる魚もいるのよ。オンブルシュヴァリエ――騎士の影と称されているの。もし獲れたらディナーに出すように言っておくわ」


「幻の魚……! お母さま……わたし、実はお魚派です!」


「あら、わたくしは圧倒的肉派よ。血の滴るレアが好きなの、残念ね。でも……あの子もそうだった。覚えておくわ」


 キラキラと光を反射する水面に目を凝らし、必死に魚を探そうとする養女を見下ろして、エミリエンヌは、彼女の玲瓏とした美貌に珍しく、柔らかな笑みを浮かべた。


 思いがけず自分のもとに転がり込んできた、小さな女の子。


 忘れられない思い出と同じ顔をしていても、まだ幼いせいかあれよりずいぶん素直だが、視界に入れるだけで胸に満開の花が咲くような思いをさせるところは、よく似ていた。


 ――腹を痛めて生んだ一人娘との間の溝が広がり、どう働きかけても埋めることができず、無為に過ごしていた日々に色を付けてくれた娘。


 エミリエンヌにとって、アリアは春の夜に天からコロンと落とされた、賜りものだった。


 あの子というのが、自分の生みの母のことを指すということにしばらくして気が付いたアリアは、自らの養母のうるわしい顔を見上げ、それから秋の雲を浮かべた空を見上げた。


「乗り心地はいかがか? 夫人、ご令嬢方」


 ランスロットが船頭のように声をかけると、エミリエンヌはかすかな微笑で答え、アリアは「とってもいい気持ちです!」とにっこりした。


 櫂を持つランスロットも満足げに大きく笑った。


 皇族の二人とも腕をまくって時折汗を拭っていたが、いい運動になっているらしく顔色は明るい。


「船頭どの! あの小島に降りてみたい。可能か?」


「ええ。では右の方、深く(かい)てください」


 船頭の指示で、テセウスたちがパドルを操ると舟の向きが左に曲がり、少し先に浮かぶ小島に頭を向けた。


 人が立ち寄らないためか、色とりどりの鳥が羽を休めている。


「このあたりは水深が深いので、大きな魚も見ることができますよ」


「あら」


 案内に従って、アリアとエミリエンヌはそろって縁から顔を出して水中を覗き込んだ。


 たしかに大きな背びれが揺らめいているのが、青い水底のほうに遠く見えた。


「! お母さま! あれ」


 幻の魚じゃないですかと言いかけた瞬間、岸のほうから、ドン! と爆発音がした。


「!?」


 水上の者たちの目が一斉に岸へと向けられたその時、大きな水音が上がり、アリアの頬に水しぶきがかかる。


 振り向くと、エミリエンヌがいた場所にはセレスティーネの腕が伸びて、泡沫の上がる水面の底に、フォレストグリーンのドレスが沈みゆくのが見えた。


 何が起きたのか、一瞬わからなかった。


 アイスブルーの瞳がアリアを捉え、人の目が引き寄せられるまでのほんの束の間、勝ち誇った笑みを口の端に浮かべた。


「――キャアアアアア! お母さまが落ちたわ! アリアがっ、アリアが落としたの!」


 耳をつんざく悲鳴も、どこか遠くで起きたことのように聞こえた。

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