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第52話 湖畔の宴(1)

「あの阿婆擦れ(アバズレ)……! どこまで男狂いだというの……!?」


 星灯りに照らされた湖畔でのことを報告すると、リクハルトの唯一の主は、いつになく動揺して声を荒げた。


「わたくしのものを次から次へと奪うなんて……! あの悪女の醜い本性に、どうしてみんな気が付かないの? しょせん、人間のように動いているだけで漫画のキャラクターに過ぎないということね。それとも、これがシナリオの強制力なの? わたくしをこんなに苦しめておいて、その元凶のくせにのうのうと笑っていられるなんて……ああッ! 胸が……」


「セレスさまっ」


 しなだれかかってきた華奢な身体を、そっと抱きしめることしかリクハルトにはできない。


 スラムの吹き溜まりの中、自分を見出してくれたのは――光を与えてくれたのは、彼女だけなのだから。


「リク、このままでは、あなたさえ奪われてしまいかねないわ……。わたくしはそれが一番恐ろしいの……」


「まさか! ありえません! このおれがセレスさまの敵に与するなど……!」


 家族を失い、たった一人で泥をすするように生きていたリクハルトにとって、自分を救い出したセレスティーネは、唯一の光だった。


 何者にも侵されない、高貴なる姫君。


 他の誰にも内緒だと言って、その深淵なる胸の内を明かしてくれた彼女には、何をなげうってでも、傷一つ付けさせる気はなかった。


 そのためには自分ごとき、どれだけ火の粉を被っても構わないというのに。


「――信じられないわ」


 だが時折。


 リクハルトを見るアイスブルーの瞳には、モノを見るような冷たさが滲んだ。


「ああもう! あの悪女がシナリオをめちゃくちゃにしたから、うまく行かないんだわ。全部あの女のせい! 引き取られるタイミングまでは予想通りだったというのに、そこから何もかも……! ――そうだわ、()()からなのよ」


 冷え切った目を受けて言葉を失ったリクハルトをよそに、セレスティーネは名案を思い付いたとばかりに、頬に手を当てた。


「狂ったシナリオを正さなくては。――まずは最初の一つめから。……もちろん助けてくれるわよね、リク」


 スラムからリクハルトを引き取ってからまず、セレスティーネは生き別れになったハーゼナイ家の行方を探してくれた。


 リクハルトを侍従に任じるのも、ずいぶん無理を言ったと聞いた。

 あの冷たい領主夫妻に対して、この臆病で繊細な少女がよくがんばったものだと思う。


 家族の全員がすでにこの世を去ったらしいと告げる時、彼女の氷色の瞳には、宝石のような涙が浮かんでいた。


『ごめんなさい、リク……これしか見つからなかったの。力及ばない無力な主人を、どうか許してね……』


 己と同じ灰色の髪の一房を渡す手は小さく、涙に濡れていた。


 幸せを失い、将来の希望を失い、浮浪者以下の半獣(セーミス)として搾取され、生きて死んでいくだけ。


 そんな取るに足らない存在の痛みに、高貴な生まれの少女が涙を流してくれた。


 がらんどうになった幼い胸に、新たな生きる意味が芽を吹き始めた。


 ――人間でいてよいと、言ってくれているようだったのだ。


 そうした穏やかで幸福な日々は、彼女が恐れてやまない()()()()が、図々しくも義妹として屋敷に上がりこんできたことで終わりを告げた。


 長いまつげを震わせて怯えるセレスティーネを見て、リクハルトは耐えがたい胸の痛みと――怒りを感じた。


 自分と同じ路傍のゴミに過ぎない生まれの分際で、恐れ多くもこの方の心に陰りをもたらすとは。


 半獣の孤児など、国境伯家嫡子の足元に寄ることすらおこがましい。


 不快になられぬよう、頭を垂れて分際をわきまえて過ごすのが当然だ。


 だから脆弱な身体に一発食らわせて身の程を思い知らせるのは、セレスティーネの侍従として当たり前の役目だった。


『自分、より、よわいものを、なぐるなんて……ッ恥を知りなさい! リクハルト・ハーゼナイ!』


 だが突然。


 黄金色に変わった瞳は、灼熱の日差しのようにリクハルトを射抜いた。


 殴られて地に伏せ、痛みに顔をゆがめながらも、その瞳も声も表情も影一つなく気高く、鞭で打たれたような熱さを覚え、リクハルトは息ができなくなった。


(……なぜ、あんなふうにいられるんだ)


 半獣の娘のことを考えるたび、砂を飲んだような苛立ちを感じた。


(この瞳を持って生まれたくせに。心から愛してくれる本当の家族もいないくせに。――おれと同じなのに、なぜ)


 リクハルトは、アリア・プランケットのことが嫌いだった。


 セレスティーネへの揺るぎない敬愛で凪いだ胸の水面を、無遠慮に荒らすから。


「……セレスさまのお心のままに」


 深々と下げられる灰色の頭を見て、セレスティーネは満足げに口の端を上げた。





 +++





「午前中は湖畔でカヌー、そして軽食を取り、夕方からは避暑にいらしている他家をお招きして晩餐会を設けます」


 朝食の席。

 モーリスが告げる予定を聞きながら、アリアはチラリとフレデリクを見上げた。


 フレデリクは氷色の垂れ目でニコリと笑うと、「せっかく皇弟殿下も皇太子殿下もお見えなのですから、前もって招待状を出しておいたんですよ」と飄々と言った。


「そ、そうか……」


「ええ! こんな時でなければお二人とゆっくりお話することもなかなかできないでしょう。この輝かんばかりの殿下方を当家だけが独り占めするのは心苦しくて!」


「ハハハ……」


「お上手ですね、グウェナエル卿は……」


 ランスロットとテセウスの顔が引きつっているのを見る限り、嬉しくはなさそうだ。


(いやがることを詰め込んでさっさとお帰りいただこう作戦かしら? まあその方が、わたしとしても安心だけど。……それにしても、晩餐会かぁ)


 唯一参加したことのある晩餐会では、リスナール子爵にボロクソ罵倒され、その後全治一か月のケガを負った。

 実際には一晩で治り、主治医に化け物を見る目で見られたが――。


 お茶会とは茶をしばくだけの会ではなく、晩餐会とは夕飯をつつくだけの会ではないのだということを、アリアは半年間の経験で理解していた。


 フラゴナール邸のお茶会に際して、ニュクスが事前に会場入りしてまで備えていたというのも――まあやりすぎかと思うが――それくらい魑魅魍魎の跋扈する集まりということである。


(やだな~こわいな~。……でも、クリスみたいな素敵な女の子がいるかもしれないし、お友達ができたらいいな)


 クリステル・フラゴナールとは、お茶会以降、日を置かずに手紙をやり取りするような仲の良い友人となった。


 お互いの母が親しいこともあり、月に数度はどちらかの家に訪問して、クリステルおすすめの本を読んだり、リクエストをもらってアリアがピアノを弾いたり、お人形を使って愛と憎しみの歴史ロマンススペクタルを熱演したりと――クリスは博識なので、おままごとすらなぜか歴史モノになる。そして時代考証にそぐわないことをすると怒られる。理不尽である――、楽しく遊んでいる。


「招待客は?」


「ヴォルテーヌ伯爵家、マイヤール伯爵家、バルト子爵家、ロロット子爵家、それとラクルテル侯爵家でございます」


「ラクルテル?」


 モーリスの読み上げた招待客を聞き、ランスロットの銀の瞳が意外そうに見開かれた。


「プランケットとは長年の政敵だろう。いいのか?」


「ハハハ。ここは水の都、エリサルデでございますから。俗世のしがらみはきれいに流して、忘れることとしたんです」


「ああ、そうか。いかに腹黒いフレデリク・プランケットといえど、両隣の他家に招待状を出しておいて侯爵家を省くわけにはいかないか」


「そういう面もございますね。今回は皇太子殿下にもご出席いただくので、通常より早い夕刻からの開催となります。リゾート地ですし、中央での気張った晩餐とは違った趣を楽しんで頂けるかと」


「はあ~~~。せっかく口やかましいおべっか遣いどもから逃れて、うららかな湖畔で一休みできると思ったのに! めったにないんだぞ、こんな僥倖は。だが、家主の決定なら仕方ない。一日限りなら、客寄せの珍獣として役目を果たしてやろう」


「恐れ入ります」


 おおげさにため息をついてみせたものの、ランスロットは面白そうに目を細めて、アリアを見た。


「しかし今回ばかりは、皇族以上に客を呼び込む珍しい品があるからな。案外だれもおれたちなど見向きもせぬかもしれぬぞ。そうなったら、愉快この上ないと思わないか? なあテセウス」


 テセウスはあくまで気品を崩さないまま、ほんのわずかに眉を寄せて「アリアに無礼ですよ、叔父上」とたしなめた。


「すまない、アリア嬢。今朝も天使のような愛らしさだぞ」


「まあ、ありがとうございます。皇弟殿下は神話の英雄みたいですね。今朝も立派な上腕二頭筋であらせられます」


「ハハハハ! 目の付け所がよいな!」





 +++





「アリア。支度の前にちょっといいかい」


 朝食のあと、フレデリクの部屋に呼ばれると、エミリエンヌもソファーに腰かけて待ち構えていた。


 邸宅内では知らぬ者がいないほど夫を邪険にしている妻が、フレデリクの私室にいることは非常に珍しく、アリアは瞬きをした。


「先に言っておこうと思ってね。ラクルテル侯爵家と我が家について。……きっときみに、無礼な態度を取るだろうから」


「あら~……」


 前もってわかっているなら、出禁にすることはできないのか?


 目で訴えてみたが、残念そうに首を振られてしまった。


「ラクルテルとは、先代より長らく仲が悪くてね。国境伯家と侯爵家は同等の家格なんだけど、武で成り上がったプランケットのことが、西南の蛮族にしか見えないらしいんだ。目と頭が悪いんだと思う。まあぼくらも、中央で生産性のない権謀術数に精を出すラクルテルのことは、中央の猿としか思えないんだけどね」


「……」


(どっちもどっちっぽいわね、これは)


「お父さまやお母さまにも失礼な態度を取るような人たちであれば、その養子の、半獣の娘にはきっとひどい態度でしょうね」


「そうなんだよ」


「……出禁にできないんですか?」


「できないんだよねえ~」


 口に出して聞いてみたが、やはり断られてしまった。


「ドミニク・リスナールの態度を見て……無責任だけど、驚いたんだ。ぼくらは、きみのご母堂を知っているから、ついその残像に引きずられてしまって、きみを軽んじるなんて発想がそもそもなくてね。他の者がその赤い目を見てどのような態度に出るのか、思慮が足りなかった」


「あの時のこと、悪かったと思っているわ」


 それぞれの瞳は、アリアを見つめていながら、はるか遠くの懐かしい思い出を見るように細められていた。


 それがあんまりまぶしそうだったものだから、アリアは何度目かの疑問を再び思い出した。


(お母さんとお二人って、どういう関係だったのかしら)


 皇宮で人質とされていた時に知り合ったのか。


 年を経てなお輝くような思い出を、どのように築いたのだろうか。


「……わかりました。ラクルテルさんちには気を付けるようにします」


「ああ。物わかりのいい娘でうれしいよ」


「でもその代わりにお願いがあるんです。晩餐会が終わったら、お父さまとお母さまと、お母さんのお話を、聞かせてください」


「!」


「きっとこの晩餐会も、先手を打ってわたしの顔を売っておくためですよね? お父さまとお母さまがどれだけわたしを大事にして下さっているか知らしめて、手を出したら大変だぞって教えるためでしょう? そうでなければわざわざ、政敵を呼ばないといけない晩餐会を開いて、未成年のわたしを出すはずないもの」


「……驚いた。ご指摘のとおりだ」


「うふふ。わたしの大好きなお父さまとお母さまですもの。お母さんとどんな青春を過ごしたのか、すっごく知りたいんです」


 アイスブルーの瞳が、チラリと伺うようにエミリエンヌを見た。


 ふるまいだけは低姿勢だが、やっていることはいつも傍若無人なフレデリクにしては珍しいことだ。


 エミリエンヌは、仕方なさそうに息をついた。


「……よくてよ。聞かせてあげるわ、わたくしとユスティアの話を。ただ長くなるから、明日になったらね」


「はい! ありがとうございます!」


 養女の笑顔を、少し痛みをこらえるような、それでいて愛おしいものを見るような目で、エミリエンヌは眺めた。



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