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第51話 水面に映る星々と夜空の少年

 その晩もいつもどおり地の露(ティルマティム)へ赴こうとし――ネメシスがくれた術符は、出発地が別荘に変わっても問題なく導通している――、アリアはふと思い付いた。


(そうだ、何かおやつを差し入れしよう)


 二人がモノを口にするところを見たことがないので、(……もしかしてこの人たち、食べないでも生きていけるのかしら?)と、人間であることを怪しんだこともあったが、今日のようにニュクスが出稼ぎに行っているということは、お金を使うことがあるということで、やはりどこかで食料を購入しているはずだ。


(いつもお茶を出してもらってばかりで、月謝も支払っていない身だもの。……まあキッチンにある食べ物も、わたしのものではないけれど)


 だがアリアがねだらなくても、厨房の使用人は年齢より小さなお嬢さまを少しでも大きくしようと、毎日食べきれないほどのパンやお菓子をくれるのだ。


 ちょっとくらい頂いたところで、朝に報告すれば済むだろう。


 そうはいっても歯磨きを終えた時間にほしがっても与えてくれないことはわかっているので、アリアは手鏡をポケットに入れ、呼んでもいないのに勝手に飛んできた不死鳥の雛を頭に載せて、静かに忍んで部屋を出た。


「キュィ~」


『どこに行くのよ?』


「ティルマティムのお二人に差し入れしたくて、ちょっと厨房からかっぱらいを」


『お前、この時間にあそこまで転移するつもり? いったいどういう関係なのよ、あのモブたちと』


「モブじゃないわ。次言ったら畑の肥料の中に一晩埋もれてもらうわよお姉ちゃん」


『ヒッ! わ、わたくしを脅したわね!?』


 キッチンは一階の東端にあるので反対側だが、本邸に比べれば小作りな館である。


 この耳があれば、角を走ってきた誰かと無暗に鉢合わせるということもないので、わりと気を抜いて歩いていたのだが、進行方向の部屋のドアが急に開くと、中から人が出てきた。


「……はぁ……」


 重い溜息をついているのは、皇太子テセウスであった。


(あ、どうしよう)


 少し距離があるのでまだこちらに気づいていないが、踵を返して元来た道を戻って行ったらさすがに気づかれる。

 そして、ふつうに無礼である。


 一瞬迷ったのち、アリアはよそいきの笑みを貼り付けて、しずしずとそのまま進むことにした。


「こんばんは、皇太子殿下」


「……ああ、こんばんは。アリア嬢」


 蒼い瞳を見開いたのは一瞬で、すぐさまあちらも貴公子然とした笑みを顔に載せた。


「お散歩ですか?」


「うん。せっかくだから、少し外の空気を吸おうと思ってね。――そういう君は?」


「……お腹が空いたので、こっそりキッチンに忍び込むところです」


 内緒にしてくださいね、と人差指を立てると、小首をかしげて微笑んだ。


 この皇太子が、他家の厨房事情やら青少年の躾やらに首を突っ込むタイプではないと踏んでのことだ。


 テセウスはパチパチと瞬きをして、「きみが?」と尋ねた。

 これは素で意外に思っている顔だ。


「あの晩餐で足りなかったのか?」


「育ち盛りなんです」


「……ふっ。そんなに小さいのに」


 吐息のような笑い声は、思わず漏れたという様子で、当の本人が不思議そうに自らの口に手を当てた。


「お散歩でしたら、庭園の南西の階段を降りると湖に繋がっています。星がきれいですよ」


 良い夜を、とアリアがあっさり背を向けると、テセウスはしばし逡巡した末、「待って」と声をかけた。


 ――自分に近づこうとして待ち構えていたのだと、最初は思った。


 だがどうやらそうではなく、本当に厨房に忍び込みに行くようだと悟り、にわかにこの半獣の少女のことが気になった。


(おれのことなど気にもせず、つまみ食いをするだなんて平然と白状してみせる……変わった子だ)


「面白そうだ。わたしもかわいらしい泥棒の仲間に入れてくれないか」


 切れ長の瞳を細めた秀麗な顔は、しょうもない申し出をしているというのにキラキラと輝いていた。


 アリアは頬に手を当てて「まあ」と驚いてみせながら、(フランやオーギュストさまとも台所に忍び込んだことがあったわね。……異世界のロマンスでは、攻略対象と食料をかっぱらうのが付き物なのかしら)と考えていた。


『違うわよ』


 ポケットの中のセレスティーネの突っ込みは、アリアにしか聞こえない。





 道中、使用人と鉢合わせそうになるたびに物陰に隠れつつ、アリアとテセウスは厨房までたどり着いた。


 まだ灯りはついているがすでに火は落とされていて、だれもいない。


 アリアはテキパキと戸棚を開けて、パンやジャムを少量ずつエプロンに包んだ。


「たぶんあの辺の高いところの戸棚に……」


「どれかな?」


 背伸びをしているアリアの後ろから、頭二つ分は大きなテセウスがひょいと顔を出して同じ場所を見た。


「あっチラッと見えた! 殿下、あのハムを取っていただけますか?」


「ハム? ……今からハムを食べるのか?」


「育ち盛りなんです。あ、大きい方をお願いします」


「お、大きい方を……!?」


 度肝を抜かれながらも、テセウスが手を伸ばしてハムの塊を取ってくれたところで、アリアの耳がこちらに向かう足音を聞きつけた。


「殿下! 人が来ます!」


「何ッ」


 立ち上がったままのテセウスを無理やりしゃがませて、作業台の下に引っ張り込んだ。


 慌てて押し込んだので、二箇所ほどゴチッとぶつけた音がしたが、二人とも口に手を当てて息を殺しているので、気にしなかった。


「はぁ~~~やっと終わった! ねえねえ、余ったクッキー食べてもいいって!」


「やった! シケっちゃう前に片付けよう」


「アンナはまたどこぞの男とデート?」


 仕事を終えたメラニーたちが、キッチンに入ってきたようだった。


「も~モテるんだから。美人っていいなあ」


「モテるといったらお嬢さまでしょ。リスナールのご令息たちも熱心に通ってるし、今回の休暇で、皇太子殿下も射止めちゃうんじゃないかってワクワクしてるの!」


「えーじゃあ賭ける?」


「落ちるか、落ちないか?」


「何日で落ちるか、よ!」


 キャハハハハと鈴を鳴らすような明るい笑い声が、夜のキッチンに満ちた。


 メラニーの「部屋で食べよ!」という提案に乗って、おそらくありったけのクッキーをかっさらって、若いメイドたちは楽しげにおしゃべりをしながら遠ざかっていった。


(よかった、クッキーに手を出さなくて。みんなをガッカリさせちゃうところだったわ)


「殿下、もう大丈夫ですよ。……あの?」


 足音が去ったことを教えようとテセウスを見ると、少し口をとがらせた横顔が目に入った。


 メイドたちはいなくなったというのに、作業台の下で窮屈そうに膝を抱えたままだ。


「……きみは、男と見ればこうやって親しげにするのか?」


「……」


(そういえば、お姉さまが本邸でせっせとわたしの悪評を吹き込んでたって、お姉ちゃんが言ってたわね。――というか、さっきの話題、ふつうに気まずいわ)


 ミシェルたちも、当事者がいると知っていたら絶対にあんな話はしなかっただろう。

 つまり、隠れていたほうが悪い。


 だが、うがった目で見られるのも、痛くもない腹を探られるのも、何もしていなくても不名誉な噂を被せられるのも、プランケットに来てから慣れっこである。


 チクチクとした責めるような視線を気にせず、アリアはにっこりと笑った。


「殿下はおませさんですね」


「!? ……おッ、おませさん……!?」


 およそ皇太子にふさわしくない形容をされ、テセウスはうろたえた。


「わたし、まだ九歳なんですよ。家族と先生と、大事なお友達がいるだけです。ロマンスよりも、物語を読みながらおしゃべりしたり、一緒に正拳突きの練習をしたり、こうしてキッチンに忍び込むほうが断然楽しいわ」


「……」


「まあわたしはお母さんに似て美人だから、ハートを奪っちゃうこともあるかもしれないけど。でも初恋って実らないって言うでしょ?」


「……ふふっ」


 また吐息のような笑いが漏れたかと思うと、テセウスは声を上げて笑った。


「――アハハッ! そっちのほうがよほどませているじゃないか!」


 きっと普段、このような笑い方はしないのだろう。


 使っていない筋肉を使い、眉を寄せて、少し苦しげですらあったが、目尻に涙を滲ませて笑うさまは、目を離せないほど生き生きと輝いていた。


 テセウスは作業台の下から抜け出ると、手を差し出してアリアを立たせ、「貴重な経験だった」とハムを差し出した。


「……」


 その顔があんまり名残惜しそうに見えたので、アリアはハムを脇に抱えながら、「わたしでよければ、湖までご案内しますよ」と提案した。


「!」


 完璧に整った顔がパッと明るくなり、「そうだね。わたしも泥棒稼業に付き合ってあげたのだし」と、テセウスはやや軽い足取りで夜の庭へと繰り出したのだった。


 秋の虫の音が鳴り響く、うららかな晩だった。


 昼間とは打って変わって涼しく澄んだ風が、二人の子どもの、癖のない髪をサラサラと撫でる。


 湖畔までの長い階段を、互いにエスコートしながら下りていった。


 テセウスは、レディを夜道で先導するのは当然だと思っているし、アリアもまた、道案内を買って出たのだから先頭を歩きたいのだ。


「それにしても、自分のことを美人って言ってのける女の子は初めてだな」


「あら。殿下もご自分をそう思っているでしょう?」


「まあ、鏡を見ればわかることだからな」


「わ~強気~」


 弾けるように上がった笑い声は、二人分だった。


 階段を終え、地面に足をつけると、凪いだ水面に白い月の落ちる、静かな湖畔が広がっていた。


 遠い向こう岸に、他家の灯りが揺らめいている。


 天空には、はるかな光を明滅させながら、無数の星々が浮かんでいた。


「本当に、すごい星だ……。城から見る夜空とまったく違う」


「帝都はここよりずっと、地上の灯りが多いでしょうね


「ああ。夜でも昼のように明るい。……あの赤い星はなんて言うんだ?」


「え゛ッ……わたし、星座はよく知らないんです」


「……()()もだ」


「た、たぶんあの複雑骨折してるようなのが、北極星!」


「うむ」


「それで、あれが月」


「それは見ればわかる……」


 涼しくカラリとした夜風が、それぞれの髪を優しくなでた。


「……厨房に忍び込むなんて初めての経験だった。おれの初めてを奪うなんて、やっぱり話に聞いたとおり、悪女だな」


 言葉とは裏腹に、アリアを見つめる夜空色の瞳は、まぶしげに細められていた。


「それはよかった。今夜の経験がなにかの役に立つかもしれませんね」


「そうだな。皇太子の座から追い落とされたなら、泥棒や密偵として生きるのもアリかもな」


「泥棒はやめましょ?」


 皇太子の座。


 今更ながら(そういえばこの人、わたしの異母兄だったわ……)ということを、アリアは思い出していた。


(わたしを確かめに来たってお父さまは言っていたけれど、殿下はどこまでご存知なのかしら)


 夜風を気持ちよさそうに浴びる横顔からは、何の情報も読み取れない。


 だが、会った時よりもずっとくつろいだ表情を見ると、幼い身で悩みの多い日々を送っているだろうその深い心労を、少しねぎらえた気がした。


「……アリアと呼ぶことを許してくれるか」


 テセウスは横顔を向けたまま、ポツリとつぶやくように尋ねた。


「もちろん、殿下」


「……きみも、テセウスでよい」


「では、テセウスさま」


 静かに風に吹かれ、少し距離を縮めた幼い二人の後ろ姿を、――物陰からひそかに監視する目があった。


 アリアはすっかり忘れていた。


 プランケットにただ一人。


 自分の聴覚をすり抜けることができる者がいるということを。

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