第49話 水面下の攻防
「こんにちは、アリア・プランケット嬢。お会いできて嬉しいよ」
サラサラと輝く銀髪に、大きな切れ長のロイヤルブルーの瞳。
絵物語から出てきたような美少年は、気品ある笑みを浮かべ礼儀正しく挨拶をしてくれたが、その目がちっとも笑っていないことは、初対面のアリアにもわかった。
(わたしの異母兄という話だけど……言われてみれば、たしかに少し似ているような……?)
セレスティーネは少年の隣に寄り添うように佇み、相変わらず怯えたフリでこちらを悲しげに見つめている。
『出たわね、テセウス・アンブローズ』
さくらんぼ柄のポシェットの中から、鏡のセレスティーネの声がした。
『あの王子様面に騙されちゃダメよ! 中身はどす黒いんだから! あの男、陰りなんてまるでないって顔をしているけれど、幼いころ母親に見捨てられたの。次は父親にも見限られるんじゃないかって日ごろから思っているから、疑り深くて立ち回りがうまいのよ!』
「……」
ペシッ
『痛ッ!? ちょっと、いま何か当たったわよ!』
「お姉ちゃん静かにしてて」
(あ~~~聞いてしまったわ。絶対に初対面の相手なんかに知られたくないだろう個人情報を……)
皇太子テセウスは、セレスティーネと同い年だと聞く。
それならまだ十歳かそこらのはずで、その時分からこうした愛想笑いが身についているということは、完璧であろうという自制心の強い性格なのだろう。
そんな相手の、当然秘匿しておきたい心の傷まで、原作とやらを読めば把握できてしまうのだ。
(これじゃあお姉さまにとって、わたしたちが物語の登場人物にしか見えないワケだわ)
――でも自分たちは、セレスティーネたちが何といおうと、現実を生きる生身の人間である。
こんな簡単に秘密を暴かれたり、それを利用して攻略されていい存在ではない。
ピリピリとした不快感を覚え、それを押し隠すため、アリアも花のような愛想笑いを浮かべてワンピースの裾をそっと上げた。
「ユスティフに繁栄と加護のあらんことを。永遠なる大樹の一枝にご挨拶申し上げます。プランケット家が次女、アリアでございます」
カーテシーは母が、皇族への口上はジャクリーヌ先生が教えてくれた。
テセウスは少し意外そうな顔をしたが、それは一瞬にして打ち消して「うん。楽にしていいよ」とまた上品な微笑を浮かべた。
『――アハハッ! あの女の顔を見た? お前が礼儀作法の授業をサボって男と遊んでばかりいるから、引き取って半年も経つのに猿みたいに行儀が悪いってテセウスに訴えていたのよ! 残念だったわね、まともな挨拶ができてしまって!』
こっそり横目で盗み見ると、確かにセレスティーネがこちらを射殺しそうな目で睨みつけていた。
アリアは今度は本心からニッコリを笑みを浮かべた。
「そういうリークなら大歓迎よ、お姉ちゃん」
ここはプランケット家別邸、エリサルデの別荘。
皇族の突撃お宅訪問から逃げるために無理を押して夜逃げしたというのに、ものの数日で突き止められてしまったらしく、こうして皇太子と顔を合わせることになっている。
もちろん、エミリエンヌが勝手に定めた『男子禁制の館』などという決まりは、皇族の前には無意味である。
エミリエンヌが夫を見る顔には(この役立たずが)と明記されており、エメラルドの瞳はもう、絶対零度という感じであった。
風の吹き抜けるエントランスへと、また一人向かってくる足音がした。
軍人らしい、規則正しい足音。
「テセウス! こちらの令嬢が、兄上がお探しの姫君か?」
「叔父上」
皇太子の肩に手を置いて親しげに現われたのは、同じ銀髪を持つ美青年だった。
スラリと背が高く、腰に剣を佩き、身体を鍛えぬいていることが衣服の上からでも見て取れる。
星のような銀の瞳は自信に満ち、吸い込まれそうな輝きをしていた。
昨夜叩き込んだ皇族家系図を思い起こし、アリアは再び膝を折った。
「ユスティフに繁栄と加護のあらんことを、皇弟殿下」
「あ~堅苦しい挨拶はなしでいい! ここに来れば会えると人づてに聞いたものでな、無理を押して訪ねてしまった。おれはランスロット・ファクティス。皇家の末席だ」
「アリア・プランケットでございます」
「聞いたとおり、本当にご母堂の生き写しだな! 将来美人になるぞ」
ニカッと笑ってみせる様は、高貴な血筋らしくない、晴れた夏空のようなカラリとした気さくさを湛えていた。
引き取られてからこちら、母を褒められたのは初めてだったので、アリアも「ありがとうございます、皇弟殿下!」と本心から満面の笑みを浮かべた。
視界の端で、セレスティーネがテセウスの袖をくいっと引っ張るのが見えた。
「テセウスさま……その……」
「……ああ、そうか。そうだったね」
テセウスの顔にまた気品ある爽やかな笑みが貼り付けられ、「アリア嬢」と呼びかけた。
目は全く笑っておらず、年に似合わない倦み疲れた色を滲ませている。
「セレスティーネ嬢から、妹君とうまく行っていないと相談を受けてね。やりづらい気持ちは察するが、少しお互いに誤解があるのではないかと思う。距離を縮めるために、ゆっくり姉妹で話してみたらどうかな」
「え……!?」
「まあ! お姉さまがそんなことを?」
アリアは頬を薔薇色に染めて、口元に手を当てて驚いてみせた。
セレスティーネは何を言い出すのだこいつはという顔で、テセウスをまじまじと見ている。
(残念でしたね、お姉さま)
大方、フランシスと同じように義妹の悪評を吹き込んで、皇太子から義妹を咎めてもらおうと思ったのだろう。
だがこの皇子、他家の姉妹ゲンカなどに関わるほどの余裕はない。
年に見合わないこの疲れ果てた陰影を見ればわかる。
意に反してボールを受け取ってしまいはしたが、さっさと当事者に返すに限ると、こうした方針で話を切り出したというところだろう。
(頭のいい人だわ)
「わたし、お姉さまとずっとお話ししてみたかったんです! お部屋から出ていらっしゃらないでしょう? 子供部屋でわたし、いつお話できるのかなってお待ちしていたんですよ」
「っ……」
「さっそく今からセッティングしましょう。メラニー! サロンは今空いているかしら?」
「やめてッ!」
金切り声のような制止に、一番びっくりしたのはセレスティーネ自身だったらしい。
氷色の目を丸くすると、自分をまじまじと見る視線から逃げるように、楚々とした仕草で口元を抑えた。
「……気分が優れませんの。少し休ませていただきますわ」
「セレスティーネさま、こちらへ」
リクハルトの導きによってセレスティーネが邸内に引っ込むと、ランスロットの銀の目が説明を求めるようにテセウスに注がれたが、苦笑いが返ってきただけだったので、今度はアリアを見た。
「姉君と仲がよくないのか?」
「ん~……そう、ですね」
仲がよくないという領域に収まるものかしらと悩んだのを、気を使って言い淀んだように見えたらしく、皇弟の眼差しが気遣わしげに変わった。
「複雑な立場であろうからな。だがアリア嬢が気に病むことではない。――そうだ! せっかく湖畔に来たのだから舟を借りてカヌーをしよう。この数日、馬車に押し込められてすっかり身体がなまってしまった」
「叔父上……遊びに来たのではないと言われたでしょう」
(……じゃあどういう名目で来たのかしら?)
「ほら、お前がそういうことを言うから、アリア嬢が『何をしに来たのだ』というお顔になってしまったじゃないか」
「国境の視察に来たんですよ。叔父上がご無理を仰るから、こんな別荘地に今はおりますが」
ほんの少し疑わしげな色が視線に混じったことを、二人の皇族は敏感に察知したらしい。
自然な態度で、不信感を持たせないように成り行きを説明した。
アリアは「足を運んでいただけて光栄です」と花のような笑みを貼り付けたまま、小首をかしげた。
「カヌーはこちらに来てまだやっていないんです。毎朝お母さまとテニスで運動はしているのですが」
「そうか! 今日はもう午後だから、明日さっそく手配するよう、フレデリクに話をしておこう。ああ、心配は不要だ。御婦人とご令嬢は日傘を差して腰掛けているだけで良い。漕ぐのはおれたち男の仕事だからな」
「え? わたしも漕ぎますが」
「令嬢が?」
「意外に活発なんだね」
全員がよそ行きの微笑をたたえたまま、それとはわからぬよう観察しあい、皇太子と皇弟の二人はプランケット家別邸に足を踏み入れた。
++++++
晩餐の席でも、二人の皇族はプロトコルを守った表情と振る舞いを崩さずに、アリアのことを観察し、把握しようと努めていた。
事前にエミリエンヌから何も答えるな、何も応じるなと厳命を受けていたのでせめぎ合いとなっていたが、アリア自身としてはこういったやり取りは得意であった。
食べたものの味がまるでわからないことも、手に冷たい汗が滲んでいることも些事である。
「フレデリクはよくこんなしっかりしたご令嬢を見つけられたものだな。なあ、テセウス」
「ええ、まだ引き取られて半年ほどだというのに、きちんとした挨拶ができて驚きました。――プランケットに引き取られる前はどこに?」
探るようなロイヤルブルーの瞳に、気づかないふりをしてにっこりと笑い返した。
「小さな孤児院にいました。野菜を作って売っていたんですよ! 今の時期ならトマトがそれはもう山盛りに採れて、スープにしたりソースにしたりそのまま食べたりして……おいしかったわ~。皇城にも畑はありますか?」
「いや……近隣の村から、その日の朝収穫したものを運んでもらっているよ」
「まあ素敵! いろんな人達が、皇族の皆様の食卓を支えていらっしゃるんですね。農家さんはもちろん、運搬する方、選別する方、納品する方、一つ一つの調理工程にスペシャリストがいる厨房の料理人に、配膳する方、給仕する方まで……。殿下方がお食事で幸せを少しでも感じられるよう、心を砕いているんですね」
「あ、ああ……」
「おっしゃる通りだな……」
フレデリクとエミリエンヌは、神妙な顔をして舌平目のムニエルにナイフを入れている。
笑うのを我慢している時の表情だ。
「いやしかし、食事の作法もよくできているな。付け焼き刃でこうは行くまい。生みのご母堂の指導があったのか?」
「ええ! とても優しい母でした! 風邪をひいたら大麦の粥を作ってくれて、お誕生日にはオレンジが効いた小さなケーキを焼いてくれました。おいしかったなあ……。殿下はお誕生日に出たらうれしいごちそうはありますか?」
「え、いや……。好き嫌いなど、考えたこともないな」
「嫌いな食べ物がないなんて素晴らしいです! きっとお料理を作った方々も喜ばれていますよ」
質問に対してややズレた答えをよこし、そのまま別の話題に持っていってしまう。
しょうもない政治家のようなやり口だが――しかもなぜかすべて食べ物の話題になってしまっているが――、これが一番有効なのだ。
特にこうした、礼儀を守らざるをえない人たちにとっては。
何をどう尋ねようとも全てこのように返ってくるため、ランスロットもテセウスもそれ以上踏み込めずに、つつがなく晩餐は幕を下ろした。
夜更け。
本邸と同じようにおやすみのキスをくれたメラニーを見送って、アリアは身を起こした。
この日、ずっと気にしていたことは、自分が皇族と会ってしまって、地の露の二人はどのような気持ちなのか――ということだった。




