第46話 鏡の中の少女
『出られたッ出られたわ! けど、ここ――どこなのよ!?』
手鏡は、口やかましく騒ぎ立てていた。
気味の悪い虫でもつまむように持っていたアリアの手から、ニュクスがスッと取り上げる。
赤紫の瞳で見下ろし、裏返したりコンパクトを開いたりと検分するのを、ダイニングチェアに後ろ向きに座って背もたれに頭を乗せたネメシスが愉快そうに眺めていた。
「これは……珍しい。人間の魂が閉じ込められていますね」
「たましい!?」
アリアは青ざめて、ソファーの布でそっと手を拭いた。
なんか縁起が悪い気がする。
「わりと最近のものです。ここ数年で成立した呪器のようだ」
「人間の魂って、人間の魂ですよね? どうやったらこんな鏡に?」
「たしかに、並大抵のことではありません。境界の波を揺らがせるようなこと……大いなる災厄、犠牲、五芒星の禍、生命の樹の揺らぎなどが起きない限り、発生しえないことです」
『ねえ、ここはどこなの!? お前たち、あたしのお母さまとお父さまをどこにやったの!?』
熟考するニュクスをよそに、手鏡はキャンキャンと吠えたてている。
「お母さまとお父さま? あなたの?」
『そうよ! 教えないと呪い殺してやるわ!』
「お前の父母の名は?」
『そんなの知らないわよ。お母さまはお母さまでお父さまはお父さまに決まってるじゃない! お前バカなの?』
「燃やせば解呪完了ですが、どうします?」
「待って待って待って」
鏡の性格は、とりわけ気難しい小さな女の子のようだ。
「あなたのお名前はなんていうの?」
『知らないわ。……思い出せないのよ。なんにも、出てこなくなっちゃった』
「生前のことは、呪器に囚われた瞬間に忘れてしまうものです。特に己の根幹を成す情報、名前や生い立ちなどは欠落しやすい」
「う~ん……」
打つ手なしか、とアリアは腕を組んだ。
だが、発見されたのがプランケットの別邸であるなら、プランケットの縁者ではないだろうか。
それもつい最近というなら、この脳内家系図には載っているかもしれない。
『……ぐすっ。どこにいったのよぉ、お母さま、お父さまぁ……』
その嗚咽は、別館に引き寄せられた際に耳にしたものと同じだった。
母を探す寄る辺ない声はアリアにとってはまるで他人事ではなく、思わず眉を寄せて胸元を押さえた。
「おうちは? どんなおうちに住んでいたの?」
名前や生い立ちが思い出せないというなら、周辺部から探るしかない。
下町でお家の場所や自分の名前を忘れてしまったご老人にもこうやって対処していたことを思い出す。
『……大きかったわ。部屋がいくつもあって、おしゃれな蔦が這っていて……こんな馬小屋みたいな家とは比べものにならないくらい、立派な家よ』
「燃やしていいですか」
「わたしが砕こっか?」
「はいはいカームダウンカームダウン。先輩と師匠がいるここはわたしにとって最高のお家だから落ち着いて」
薄々気がついていたがこの兄弟、ユスティフ人には全然優しくない。
「大きな家ってことは……あなた、きっと貴族の子だったのね。ペットは飼っていた?」
『お母さまがお嫌いだから飼ってないわ。あたしは真っ白な毛の長い子猫ならいてもいいと思ったけど、ドレスに毛がつくんですって。馬小屋の馬くらいかしら』
「お気に入りのドレスはあった?」
『んーと……真っ赤なやつね! その次は、リボンがついた薔薇色のやつ。緑のやつは、地味だからあんまり好きじゃなかったわ』
「好きなおやつは?」
『たしか、あの、甘くて溶けてベタベタになる……チョコレート!』
「そっかぁ」
アリアはほほえんだ。
列挙されたものには、心当たりが多くあった。
「セレスティーネ・プランケット。あなたのお名前、そうじゃなかった?」
パキパキッ!
薄氷の割れるような音が立ち、ごく薄いガラス片の膜のようなものが手鏡から弾け飛んだ。
「!」
ニュクスが手から取り落とすと机の上でコンパクトが開き、――小さな鏡の中には、呆然と目を見開いた小さな女の子が映っていた。
長い黒髪。
目尻の吊った大きな切れ長の、アイスブルーの瞳。
アリアのよく知る容貌と全く一緒でありながら、驚愕から激怒へと色を変えていくその表情の鮮烈さは、これまで目にしたことのないものだった。
『よくも……! よくもあの女、わたくしの身体を奪って!』
激昂した両眼から、涙が次々と流れ落ちていく。
『お母さまもお父さまも、わたくしの中身が入れ替わったことに気づかなかった! わたくしがお母さまとの買い物を嫌がったり、ドレスをゴミ箱に入れたりするわけないのに! わたくし、ずっと待ってたのに……! 助けに来て、くれなかった!』
――中身が入れ替わった?
不穏な言葉を耳にしてニュクスは思案するように口元に手を当て、アリアは胸元で手を握りしめた。
(どういうこと? 入れ替わった元のお姉さまの人格が、この鏡に閉じ込められているの? じゃあ……いまお姉さまの中にいるものは――何?)
矢継ぎ早に脳裏を駆け抜けた疑問への答えはどこにもなかったが、背筋を冷たい汗が伝い、高鳴る心臓を押さえようと小さな手が胸元のフリルを握った。
得体のしれぬものに身体を奪われて、そのことを誰にも気づいてもらえないまま、たった一人、誰も訪れない離れで時を刻む。
その絶望を想像することは、できない。
拳で鏡の表面を何度も打ち付けて、涙を顎から滴らせながら激怒する少女の姿は、届かぬとわかっていても手を差し伸べずにはいられなかった。
「そんなに鏡を殴ったら、あなたが怪我してしまうわ。セレスティーネさま」
アリアはそっと手鏡に触れた。
「諦めないで。わたしに声が聞こえたんですから、他の人にもきっと聞こえます。お父さまにも、お母さまにだって」
『……お前は、アリアね』
「わたしのことを知っているんですか?」
鏡の中少女は泣き濡れた瞳でアリアをじろりと見上げ、うなずきながら洟をすすった。
『これまで名を失っていたからほとんど思考できていなかったけれど、わたくし、別館の鏡とあの女の後ろを自由に行き来できたのよ。だからお前が邸に来た日から、あの女の目を通して、ずっと見ていたわ』
「後ろ?」
『頭の中というのが近いかしら。あの女の記憶も、思考も、どろどろとした壁紙の天井のように見えていたのよ』
「……いま、お姉さまの中にいるのは誰なんですか?」
『他の世界の記憶を持つ人間。まだ若いけれど、わたくしたちのように子どもじゃないわ。成人した女よ』
「せッ成人女性……!?」
「他の世界の記憶を持つ人間?」
アリアとニュクスたちで驚く箇所は違ったが、それぞれ息を呑んで鏡を見つめた。
鏡の中の少女――自分こそが本物だと主張するセレスティーネ・プランケットは、氷色の瞳に侮蔑と憎悪を浮かべながら、口の端を尊大に吊り上げた。
『ええ、そのとおり。醜悪だと思わなくて? いたいけな幼女の中身はいい年をした女で、純粋な子どものフリをしながら、どう男を落とそうだのどう義妹を殺そうだの、凶悪なことしか考えていない。……わたくし、そんな白痴に身体を奪われたままだなんて、我慢ならなくてよ』
常ならば冴え冴えと冷たい氷に、境界の向こうで炎が滲む。
頬に涙の筋を残したまま、孤独な少女は傲然と顎を上げた。
『お前たちを使ってあげるわ、光栄に思うのね! 可及的速やかに、わたくしの身体を取り戻しなさい!』
ビシッ! と指を差され、――ニュクスはパタンとコンパクトを閉じた。
『ちょっと!? 暗くなったわよ!? どうして蓋を閉めるのよ!』
「すぐ近くの泉のほとりに何でも消化する食虫植物があります。この間は金属片も溶かしていましたし問題ないでしょう。アリア、せっかく昼間に来たのだからピクニックに行きますか?」
「えっ、先輩と師匠とピクニック!? 行く! 絶対に行きます!」
飛び跳ねんばかりのよい返事に、ニュクスの口の端にも珍しく笑みが滲んだが、アリアは小首をかしげて「でも」と上目遣いで二人の兄弟を見上げた。
「身体、取り戻してあげたいです。師匠、先輩、お願いします! 力を貸してください!」
「「……」」
それぞれに端正な顔立ちが、困り果てたように眉を下げた。
「う~~ん。アリアくんの頼みは何でも聞いてあげたい。あげたいんだけど……少し、わたしには荷が重いかなあ」
「ぼくも同意見です。境界に関わるなんて、夜の帳であるぼくたちには自殺行為。もちろん、きみが閉じ込められたなら話は別です。たとえ二度と人間に戻れなかろうが必ず救い出してみせます。が……これ、ただのユスティフ人でしょう」
「わたしたちが危険を侵す意義を見いだせないよ」
どうやらこの頼もしい二人でも――おそらく彼らだからこそ、この呪いを解くのは難しいらしい。
どうしようかと手鏡を見下ろすと、『いらないわよ、お前たちなんか!』と怒った声が飛んできた。
『この子にやってもらうわ! だいたい、この子さえいれば何とかなるのよ! ねえアリア、やってくれるでしょう? お前を散々苦しめた女に鉄槌を下して、わたくしに身体を返してくれるわよね?』
「ええっと~……」
『はいかイエスで答えなさい! 妹は姉のいうことを聞くものなのよ! よくお聞きなさい。わたくしはお前のお姉ちゃんなんだから!』
「……!」
朝焼け色の瞳が大きく見開く。
――今、この鏡の中のお嬢さまは、自分のことをなんと言っただろうか。
ニュクスは据わった目で手鏡を引っ掴むと、大量の書類束の中に突っ込んだ。
『いやああああ潰れる! 蓋がミシミシ言ってるううう!』
「うるさい鏡ですね、さっさと処分を……アリア。どうして喜んでいるんですか」
「え?」
果たして、厄介ごとに巻き込まれたばかりのアリアは、紅潮した頬に手を当てて、キラキラと瞳を輝かせていた。
「まったく。きみは姉なら何でもいいんですか? よく考えてください。これ、人間ですらないですよ? 無機物ですよ無機物。古物商に持ち込んでもせいぜい10銅貨が買取価格」
『失礼な男ね! 出たら覚えてなさいよお前!』
呆れ一色で問いかけたが、ニュクスにもわかっている。
たぶん何でもいいのだ。
自分を家族と思ってくれる存在であれば、血が繋がってなかろうが人間でなかろうが、彼女にとっては些事なのだ。
嘆きたいような、いじらしさに頭を撫で回したいような気持ちで、魔法使いの少年は長い溜息を吐いた。
「そんなだから……いつだって変なのに好かれるんですよ」




