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第44話 エリサルデ湖畔の別荘

 エリサルデ湖畔は、西方国境グウェナエル領の南部に位置する山間(やまあい)の美しい土地である。


 山脈に守られるようにして広がる透明度の高い湖は、古代においては信仰の対象とされ、山麓は寺院の参拝客を目当てとした宿場町として発展した。


 五百有余年前の王国建国以降、神聖教会の台頭によって自然信仰は廃れたものの、麗しい自然と朽ちた寺院遺構群は人の足を引き寄せ続け、二十年前の『迷宮(ラビュリントス)』の出現では冒険者や傭兵たちが大挙して押し寄せたが、古来の遊興地の豊かな乱雑さは何もかもを容易く呑み込んでいた。


 湖畔の南側には歓楽街、北側にはユスティフ国内外の貴族の別荘が立ち並ぶ。


 国境伯家プランケット家の別邸はエリサルデ湖畔にあって領地の主人らしく、湖に映った西方山脈の美しい姿を真正面から臨める場所に位置していた。


 とろりとした飴色の屋根に白い漆喰、溢れんばかりの緑生い茂る夏。


 窓が多く開放的な南部式建築の邸には晩夏の花が咲き乱れ、風がアベリアの花の甘い香りを運んでいる。


 緑陰きらめく中庭に、球を打ち合う音が響いていた。


「ああっもう! 夏が終わったというのに暑いわね! さっさと運動用のドレスを届けなさいよ、あの大男!」


 スパーン! と放たれたサーブは地面に深い跡を残した。


 アリアはラケットを握りながら(想像以上にお元気になられたわ……)と、感慨深くエミリエンヌを見上げた。


 不死鳥騒動からこのかた。


 心境の変化があったのか、エミリエンヌはアリアと同じ時間に起きて、一緒に朝の散歩をするようになっていた。


 それだけでも見違えるように顔色がよくなったのだが、養女から「お母さまとスポーツがしたいです!」とせがまれて、テニスを打ち合うことさえ始めていた。


 筋金入りの面倒くさがりを引っ張り出すのには大変苦労したものの、元来負けず嫌いな性分ゆえ一度やってみたらすっかりハマってしまい、今では自分から「やるわよ」と誘うようにまでなっている。


 アリアの目論見(もくろみ)通り、スポーツは性に合っていたらしい。


 シプリアンから届いた動きやすいコルセットもまんまとお気に召して、急速に健康体へなりつつある養母は、今朝も夫への怒りのままにラケットを振るっていた。


「本ッ当に、あの男は人をバカにして! 絶対に兆候があったに違いないのよ、帝室の御幸だなんて!」


「ええ、お父さまは似ても焼いても食えないお人だわ」


 アリアは球を打ち返しながら従順にうなずいた。


「でもそのおかげで、お母さまとこうしてバカンスができるんですもの! わたし、とっても嬉しいです!」


「ウッ!」


 夏の日差しより輝く天使の笑顔をすかさずぶつけられて、目がくらんだエミリエンヌは娘をキッと睨んだ。


「もう! 本当にあなたは口がよく回ること!」


 アリアとエミリエンヌ、それと侍女のカトリーヌとメイドたちは、三日前からエリサルデ湖畔に訪れていた。


 この別邸は、エミリエンヌがフレデリクとの賭けに勝って手に入れたものである。


 国境伯家の奥方は『なにか気に食わないことがあったら、わたくし即座にエリサルデへ行って帰らないからそのつもりで』と常日頃から堂々宣言しており、(近いうちにすぐ訪問することになりそうだわ~)とアリアも覚悟していたが、この度の旅行は、エミリエンヌが望んだものというわけではなかった。




 一日のうちで唯一、プランケット家の家族四人が揃うティータイム。


「ああ~、そうそう……」


 珍しく少しバツの悪そうな顔であらぬ方を見たフレデリクが落としたのは、爆弾であった。


「なんか来週、皇太子と皇弟がいらっしゃるんだよね~」


「……」


 貴婦人は紅茶を一口飲んで喉を湿らすと、細い指で、カチャン……と静かにティーカップを置いた。


「なんっですって!?」


「アハハまあそうなるよね~」


 胸倉を掴んでいないのが不思議なくらいの勢いで、エミリエンヌは夫に詰め寄った。


「いや~ぼくも困っているんだ。今日受け取った知らせには『二日後に訪問』ってあってさ。あれ? 皇都からうちまで馬車なら一週間はかかるぞ? なんかもうあちらは城を出ているぞ? って」


「なぜそういうことが起きるの!? 肝心なときに役に立たないなんてなんのための日和見主義なのよ!? あなたが無能で腑抜けだからではなくて!? フレデリク・プランケット!」


「おっしゃるとおりでぐうの音も出ないな」


「ヘラヘラするのはおやめ!」


 アリアは目を瞬かせながら、養父母のやり取りを見ているしかなかった。


 皇太子と皇弟。


 ユスティフの最高権力者とほぼ同等の血縁者。


 そしてネメシスたちが言うには、──アリアと血の繋がった親族である。


 この国で彼らの来訪を拒める家などありえない。


 だからといって、侯爵位相当、西の国境線の守護者たるプランケットへの突撃訪問は、アリなのだろうか?


(いや、ナシナシ。ロイヤルファミリーだからこそ絶対にナシ。もう家を出た段階で「遊びに行くわ~」って、近所の茶飲み友だちじゃないんだから。こんなの爵位に関係なく、どこも大慌てしちゃうわ)


 エミリエンヌの狼狽ぶりからすると、この突撃訪問は先例のないことであるらしい。


(どうして? そんな無茶をしてまでうちに来ないといけない理由が、なにかあるのかしら?)


 その時、視界の端でセレスティーネの薄い唇が弧を描いた。


 雪の妖精のような微笑。


「!」


 アリアはパッと目をそらして、気づいていないふりで紅茶に口をつけた。


 ドキドキと胸が高鳴る。……もちろん、悪い意味で。


(これもまた、お姉さまの『シナリオ』にあるものだったりして……?)


 何にせよセレスティーネにとって喜ばしいものであるならば、アリアにとっては凶兆と考えたほうがよさそうだ。


 エミリエンヌは立ち上がると、フレデリクにビシッ! と扇を突きつけた。


「あちらのペースで動くわけには行かなくてよ! わたくしたちはバカンスに行かせてもらうわ!」


「そうするのがいいだろうね」


「場所は……そうね、わたくしの持つエリサルデの別荘。もちろん男子禁制の館よ。もう昨日邸を発ったから、御幸の便りは間に合わなかったの。はあ……残念だこと」


 白々しいため息にフレデリクは苦笑し、アリアは怪訝に眉を寄せた。


(もしかして……逃げようとしてる? しかもけっこう無理をしてまで?)


「カトリーヌ。すぐに娘たちの荷物をまとめるようにしなさい。メイドたちには悪いけれど今晩すぐ出るわ。……ああ、()()()()()()()()()()()は詰めなくてよくてよ」


「かしこまりました」


「……」


 状況を理解するため頭を働かせていたアリアは、ふいに疲れ果てた遠い目をした。


(ガブリエル夫人のドレス……。うっ、頭が……!)


 不死鳥騒動のあと、リスナール子爵夫人ガブリエルは週に一度の高い頻度で、息子たちを連れてプランケットを訪れていた。


 フレデリクの発案で、オーギュストとフランシスもオーレル少将の授業を一緒に受けることになったのだ。


 毎週木曜日の昼下がりは、正拳突きや壁のぼりや匍匐前進や剣術や体術やらで、三人仲良く汗を流している。


 子爵家の息子たちは、二人とも武術の才に恵まれていた。


 オーギュストは齢十二歳ながらオーレルが目を見張るほど完成されており、フランシスも筋がいいと褒められるほどで、つまり何をやってもドベはアリアであるのだが、ビリになってもまるで気にせず陽気にこなしている。


(お友だちと運動できるなんて、それ自体が楽しいもの!)


 親しくなったのは子どもたちだけではなく、双方の母親も同様であった。


 修練後、アリアの部屋がある二階に行くには必ず両翼造りの階段を上がらねばならないのだが、階段の真正面、玄関から入ってすぐの落ち着かないスペースに、なぜかいつも、うるわしの貴婦人がふたりそろって仲良く待ち構えているのだ。


「お邪魔しておりますわ~、アリアさま!」


「ご、ごきげんようガブリエル夫人!」


「ええごきげんよう。今日も愛くるしいですわねえ。もう授業は終わりましたの? 水浴びも?」


「ウッ! は、はい」


「まあまあそれはなにより! じゃ、サロンにいらしてくれるわよね? さあさあさあ」


 リスナール子爵夫人ガブリエルは、夫に従順で大人しい妻──というこれまでの印象とは打って変わって、明るくよく笑う貴婦人になった。


 押しが強くて可愛いものが大好きという彼女の本性は、エミリエンヌにとって好ましいものであり、領都の一貴族という立ち位置から、気難しい国境伯夫人の茶飲み友だちにまで出世した。


 木曜日になると、珍しく午前中からいそいそと友だちを迎える支度を始めるエミリエンヌを見るのは、アリアにとってニヤニヤしてしまうほど嬉しかった。


 子爵夫人の来訪は喜ばしい。それは間違いない。


 間違いないのだが……来るたびにアリアで()()()()をする癖は、何とかしてほしかった。


「ガブリエル。今日のテーマは承知していて?」


「もちろんです、エミリーさま。『真夏のレモネードの妖精~ローズマリーとバイオリンを添えて~』でしたわね。一週間をかけて準備してまいりましたわ。さあ、刮目してご覧あそばせ!」


「よろしくてよ。では、見せてもらおうじゃないの!」


「……」


 プランケット邸における養い子の着せ替えごっこは、遊びであって遊びではない。


 大人げない貴婦人たちの、一騎打ちであった。


 いったいどこから湧き出てくるのか、謎にポエティックなテーマに沿って双方の夫人たちが争ったあげく、盛りに盛りまくられ、最終的にはシロップ漬けに生クリームとジャムとチョコレートと蜂蜜をてんこもりにしたような姿になれ果てる。


『笑みを崩すな』と厳命されているために、(今日もすっごいのが出来上がったわね……)という思いが疲れ果てた眼差しだけに滲んでいるアリアのことを、オーギュストとフランシスは申し訳なさいっぱいの気持ちで見守るしかないのだった。


「お許しください、マイレディ……。うちの母、初めて同好の士を見つけて舞い上がってて……」


「ごめん、ほんとごめん。ぼくの身代わりに、まさか領主一家の娘をご指名するなんて……」


「いいの、謝らないで。ダメージの半分はうちのお母さまからだから……」


 もともとスイート100%で構成されていたアリアのクローゼットは、貴婦人ふたりの手によって、順調に200%にまで増量している。


 クリステルには好みを誤解され、「遅くなってしまったけど、お誕生日おめでとう! 大好きなアリアへ」と嬉しいメッセージカードとともに、フリルとレースに彩られたウサギ模様のリボンバレッタが贈られた。


「嬉しい! 一生大事にする!」と満面の笑みで受け取ってしまったので――他に選択肢があるだろうか?――、もう趣味を訂正する機会はない。




 さて。


 長旅の準備に取り掛かろうとカトリーヌがきびすを返す前に、か細い声が上がった。


「嫌です」


 ティータイムのあいだ、ほとんど口を開くことのないセレスティーネからであった。


「わたくしは残って皇太子殿下のお相手をします。皇帝一族ですもの、貴族としての務めを果たさねばなりませんわ。バカンスにはお母さまと……その子だけで行ってください」


 氷色の瞳が一瞬、アリアを映してすぐにそらされた。


「別にあなたが残る必要はなくてよ。相手ならそこのフレデリクが務めるわ」


「もちろん。きみが気にすることなんてないよ。元はと言えば無理なお話なんだから」


「わたくしは行きません。殿下がお見えになるのに旅行だなんて、不敬ですわ」


「あー……。セレス、きみの言うことは最もなんだけど、あちらが今回来訪するのも、思惑があってのことなんだよ。まあ何かって言うと、アリアを確かめに来るんだけど」


「!?」


 驚愕に見開いた朝焼けの瞳がフレデリクを見た。


「それは時期尚早だとぼくらは判断した。だからエミリーはここを離れるんだ。きみの忠誠心は感心だが、それは妹の身の安全や命より優先すべきものかな」


(身の安全!? いっ命!? つまり、あちらもわたしの素性を把握しているということ? 何を、どこまで……!?)


 ここに来てはじめて、皇帝の血をひくとは命の危険があるということなのだということに、アリアは思い至った。


 セレスティーネは物憂げに眉を寄せるだけで、黙って紅茶を口にすることで返答をした。


 義妹の命など屁でもないという態度であるが、アリアからしてみれば(でしょうな)というところなので、今さら傷つくこともない。


 なにせ、この半年の間に前科三犯である。


「……よくてよ。あなたがそうなら構わないわ。残りなさい」


 エミリエンヌは扇を手に、パラリと顔の前に広げた。


 扇で顔を隠す。


 これが彼女なりの防衛手段であるということは、一緒に過ごしているアリアにはわかった。


 ――だがどうしてだろうか?


 アリアはずっと、セレスティーネに対するエミリエンヌの態度に違和感を覚えていた。


(同じことをわたしが言ったとしたら、こっちが折れるまで詰めるに決まってる。お母さまの脳内辞書、たぶん遠慮の二文字ないもの。……それなのにお姉さまにはどうして、一歩ひいているのかしら?)


 しばらく黙っていたフレデリクはため息を吐いた。


「……わかった。モーリス、厩舎に伝達を頼むよ」


 かくして国境伯夫人エミリエンヌと、その次女を乗せた馬車は、夜半のうちに領都を後にして南部に向けてひた走った。





 +++++++





「ねえメラニー、わたし聞いちゃったんだけど……! ここのお屋敷って、悪霊が出るらしいよ」


「悪霊?」


 ふだんは管理人しかいない別荘地。


 労働力としてメラニーと一緒に選出されたのは、新人メイドのミシェルだった。


 他にも連れてこられたメイドの中にはアンナもいたが、さすがの恋多き女、さっそく新たな出会いがあったらしく、仕事が終わった夜のこの時間にはメイド部屋にいない。


 枕を抱きしめたミシェルのひそひそ話に、メラニーはやや据わった目を向けた。


「台所の子が言ってたの! 池の向こうに離れがあるでしょ? 一人でそこに入ると、鏡のなかの悪霊に取り憑かれて出られなくなっちゃうんだって!」


「ミシェル、いくつだっけ?」


「え? 十六だけど? あっ、子供っぽいってバカにしたでしょ!? も~! いいもん、メラニーが閉じ込められても助けてあげないから!」


「離れに近づかなければいいんでしょ。用なんてないから大丈夫だよ。とにかく、そういうことお嬢さまに言っちゃダメだからね。案外、あの子怖がりなんだから」


「そうなの? 奥さまや旦那さまに反論するのも平然としてるのに、お化けが怖いの?」


 翠の瞳はきょとんと瞬くと、ふにゃっと破顔した。


「え~あざとカワイ~」


「でしょ~?」


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