第43話 この身に流れるもの
「いらっしゃい! アリアくん、一日ぶりだ……ね……――ぶっ、あははははは!」
色とりどりのランプが輝く部屋。安楽椅子で巻物を手にしていたネメシスは、アリアをおぶったニュクスを目にすると、腹を抱えて笑い転げた。
「くくっ! そうしていると兄妹みたいだ……と言いたいところだけど、全く似てないからなあ。アリアくんは春風の天使みたいだし、ニュクスは地獄から這い上がってきた獄卒みたいだ」
「ありがとうございます!」
「地獄の王みたいな顔の人に言われたくはないです」
ソファーの上におろしてもらい、アリアはさっそく「師匠!」と身を乗り出した。
がんばったので――悲願を達成したので、ぜひ褒めてほしいのだ。
「わたし、エリュシオンの調べが聞こえました! それで魔法を使えたし、不死鳥もやっつけたんですよ!」
「うんうん。死にかけた……ということだね」
「えっ」
「は?」
バレたくないことが一瞬にして露呈し、アリアは笑顔のまま硬直した。
「リオンダーリはね、そうなんだよ。ぼくらと違って始祖が神ではなく人間だからか、外洋を超える回路の形成には時間がかかるのが通例なんだ。例外として、絶体絶命の瀕死状態に陥ると、あっちのほうからリオンダーリに手を伸ばしてくる。エリュシオンもリオンダーリを愛しているから、まあ贔屓だね」
「……」
「あー、本当ならあと数年は呼吸と発声を訓練して、イリオンの歌や呪文もたくさん教えてと思っていたんだけどなあ」と妙に残念そうなネメシスの横から、ニュクスのジリジリとした視線が突き刺さってくる。
「そ……そんな長期スパンならそうと言ってくれれば! わ、わたし、ぜんぜん何も聞き取れないし、てっきり才能がないのかと思って……!」
「まさか! リオンダーリの並レベルにはあるとも! 安心おし」
「は? どこのだれが並レベルだと? 聞き捨てなりません。訂正してください」
「うわ、ちょ、室内で火向けるのやめて。はは! ニュクスはほんと、アリアくんのこととなると、すぐ表情が変わって面白いなあ」
右手の先に炎をかざしたニュクスと、ニコニコしたまま身をかがめて避けたネメシスを眺めながら、アリアは安堵の息を吐いた。
「そうだったんですね。もう、早くそう言ってくれればいいのに。このまま何も聞こえずに、時間ばかり過ぎていったらって、焦っていたの。……いつか二人がわたしのことを見捨てちゃうんじゃないかって」
「「それはない」」
異口同音に返事をされて、ピンクの瞳はまばたきをした。
ピュティアの兄弟もまた、弟は胡乱げに、兄は愉快そうにお互いを見やった。
「ばかな子だね」
ネメシスから、優しいデコピンが飛んできた。
「わたしたちが、きみを見損なうことなどあるものか。――ご覧。この家には貴族であったときの栄華の一つも残ってはいない。だが、何にも引き替えにできない唯一の宝が、我々の手元にある」
蛇のような金の瞳に自らを映し出され、アリアは息をするのをひととき忘れた。
「その果報を忘れたことはない。――わたしもニュクスも、いつだってきみの幸福を何より切望しているんだよ、アリア」
髪を撫でる大きな手はインクの匂いがして、サラリと乾いてあたたかかった。
「……」
アリアはその手を両手で掴んで、目をつぶった。
(こんなに大きな愛で包んでくれる人が、他にいる? この広い世界で、血の繋がったお母さん以外のだれが、こんなふうに愛してくれるというの? ……きっと)
心臓が早鐘を打ち、手にじんわりと汗が滲んだが、開いた瞳はまっすぐにネメシスを見上げた。
「師匠。……師匠は、わたしのお父さんですか?」
その瞬間。
頭を撫でる手が止まり、笑みは表情から抜け落ちた。
室内に静寂が落ちた。
「アリア。それは」
いつになく緊張した様子の声が、ニュクスからかけられた。
アリアはネメシスの表情を見て、聞いていいことではなかったのだと悟った。
だが、もう口から出してしまったことは取り返しがつかない。
「……ごめんなさい」
反射的に謝罪を口にしたが、――その途端、なぜか無性に涙がこぼれそうになってしまって、アリアは二人から顔を背けた。
「! アリア」
ガタッと椅子を蹴る音がしたかと思うと、左手を乾いた冷たい手に握られた。
床に片膝をついたニュクスが、それ以上どうしたらいいのかわからないような、途方に暮れた表情で、ソファーの上のアリアの手を握りしめていた。
「……アリアくん」
ネメシスもまた片膝をついて、下からアリアを見上げた。
「隠しごとをせず、嘘をつかないと誓ったのに、誓いを破りかけてすまなかった。許してほしい。――わたしがきみの孤独を癒せる立場であればどんなによかったかと、今でも後悔しているよ」
「……つまり」
師匠はお父さんじゃないですね――と継いだ自分の声は、喉の上の方だけで出したようにか細かった。
アリアの頬を涙が一筋伝っていった。
それを大きな手が「泣かないで」と言いながら、――自分も泣きそうな表情をして、優しく拭った。
「いかに常人離れしたユスティティアさまといえど、一人できみを為したわけじゃない。きみの父親は存在している、この世界に、――いまも」
血の繋がる父が生きている。
今まで一度も、嘘も隠しごともしなかったネメシスがそう告げるのだから、それは本当なのだろう。
「でも……」と、唇を噛みながら、アリアはしゃくりあげた。
「師匠じゃないなら、やだ。師匠がお父さんが、よかったの……」
言葉にできない思いのひとつひとつが、涙になって零れていった。
――何ひとつ媚びを売らなくても、愛想を振りまかなくても、見返りがなくても。
最初から惜しみなく心を砕いてくれたのは、愛をくれたのは、今は亡き母と、この奇妙な二人だけ。
決して揺らぐことのない、温かな黄金。
アリアが求めて止まないもの。
もう永遠に失ってしまったはずのそれを、再び与えてくれた。
「……うっ……ひっく……」
しゃくり上げるというには控えめな震えに伴って、ふっくらとした頬を涙がこぼれ落ちていく。
ネメシスもニュクスも、呼吸を忘れてその涙に見入った。
これまでに大きな傷を負ってきた。
到底、一生かけても癒せぬような深い傷を。
だがその痛みさえ、今この瞬間に捧げるためのものだったように錯覚して、熱くなった目頭をニュクスは咳払いでごまかし、ネメシスは痛みをこらえるような笑みを口の端に乗せた。
「ゴホッ……ネメシス。アリアもこう言っていることだし、さっさと父親を消して後釜に収まったらどうですか?」
「いやー、できるならとっくにやってるよ。なにせ、相手が相手だからね」
物騒すぎる会話である。
「……」
鼻をすすって、アリアはネメシスをじっと見つめた。
金の瞳は、困ったように細められながらアリアを見つめ返した。
「きみの父親――名をレクス・ユスティフ・マグヌス・アンブローズという。このユスティフの皇帝にして……二十年前、わたしたちの祖国を地図から消した男だ」
「……」
涙は、完全に引っ込んだ。
朝焼け色の瞳をまじまじと開いて、アリアはネメシスとニュクスを順番に見比べた。
「……皇帝?」
「うん。皇帝」
「……わたしのお父さん……が。ユスティフの皇帝で……」
チカリと炎がまたたいた。
「イリオンを滅ぼしたの?」
怒りか、絶望か。
昼中の太陽のように明るい金目を受けて、ネメシスはまぶしげにほほえみ、ニュクスは「アリア」とため息をついた。
「ネメシスのいうことだからと、何でもすぐ鵜呑みにするのは悪いクセですよ」
「じゃあ、嘘?」
「……いいえ。たしかにきみの父親は、皇帝ですよ。そしてネメシスの言うように、……ぼくらの仇でもある」
「でも、」と続ける声音は、いつもよりかすれていて、握られたままの手が、いっそう強く握りしめられた。
「きみの身体にやつの血が半分流れていることなど、イリオリストスの浜辺の一粒の砂、それ以下の些事に過ぎない。きみはぼくらの――ぼくの、宝だ。他の何者も、いかなる至宝も、代わりになどなり得ない。これだけは忘れないで」
赤紫の瞳は、本当にその通り、他の何も映さずに、一心にアリアだけを映していた。
金の瞳もまた、同じ輝きをたたえてじっと見つめていることに気が付き、ふとアリアは「……ふふっ」と破顔した。
「あはは」
「どうして笑うんです」
「ううん。先輩と師匠がいれば、血の繋がったお父さんなんていなくてもいいやって思って。……不思議。あんなに執着してたのに。二人がいてくれれば、それでいいって思ったんです」
手を伸ばしてネメシスの手を握り、ニュクスの手を握り返して、アリアは目を閉じて祈った。
どうかどこにも行かないで。ずっと地の露にいて。
――それを声に出せなかったのは、彼らがずっと身を投じている戦いがあることを、これまでの言葉の端々から悟っていたからだった。
蛇の末裔の子らの、結ばれていないほうの腕がそれぞれ伸ばされて、アリアの頭と背中を優しくぽん、ぽんと叩く様を、無数のランプのまたたきが照らしていた。
その晩は半死半生の身ということもあって、早々にお開きとなった。
帰り道も当たり前のようにニュクスが膝をつくので、厚意に甘えておぶってもらうことにした。
この少年は後輩に甘えられるのをかなり喜んでいる節がある。
本人は気づかれていないと思っているが、アリアとネメシスから見ればわかりやすく喜んでいる。
この夜も短い道中で、「ユ、ユスティティアさまはぼくの姉のようなものでしたから……、ぼくのことは、叔父と思ってくださって構いませんよ」と、照れながらこんなことを言い出した。
「……。叔父……?」
アリアの脳内に、脳天気な笑い声が蘇ってきた。
――完ッ全に肉食!
――まあまあ、無事だったからよかったじゃないか! アッハハハ……
「……違うわ」
「?」
「先輩は叔父なんかじゃないわ」
「えっ……」
ショックを受けたニュクスをよそに、アリアはふるふると首を振った。
叔父とはもっとこう、どうしようもない感じのものである。




