第42話 月光の差し込む部屋で
半日休んだとはいえ、いまだ重い身体をふかふかのベッドによいしょと乗せて、アリアは窓の外の星々を見上げた。
思うのは、黒いローブを身に纏い、森の奥に暮らす風変わりな二人のこと。
(昨日の晩、なにも言わずに行かなかったから心配してるかも。……でも、この足じゃあ、しばらく行けないわね)
足は大小さまざまな擦過傷や打撲痕に加え、爪が剥がれたり捻挫したりと、薬を塗ってもらってもジクジクと傷んだ。
靴を履いての歩行はドクターストップだ。
スリッパでなら屋敷内の移動くらいはできると思うのだが、力自慢の従僕たちがここぞとばかりに甘やかそうと代わる代わる運んでくれている。
その時、闇に沈んだ室内に紫色の光が満ちた。
「……?」
ベッドから身を起こしたアリアの視界に飛び込んだのは、バカでかいコウモリ──いや、黒尽くめのローブを羽織り腕組みをして傲然とこちらを睨みつけた、この上なく不機嫌そうな様子の、ニュクス・ピュティアであった。
「で。一から説明して頂けますね?」
「うわあああびっくりした!」
部屋の主が悲鳴を上げてもどこ吹く風で、眉間にシワを寄せた端正な顔はビクともしない。
(どうして先輩がここに!? 目的は何!? 突撃深夜のお宅訪問!? ていうか説明しろって言うけど、あの顔、すでに何もかも把握していそうなんですけど!?)
怖い。
早く帰ってもらいたい。
だが今後もこんな調子で寝室に入ってこられてはたまったものではないので、ダメ元で「あの~、先輩」と常識を諭してみることにした。
「ここレディのベッドルームですよ? プライバシーとかって知ってます?」
「緊急時には後回しにされるアレですね。もちろん承知してますよ」
「そっかぁ……」
スン、とわずかに鼻から息を吸う音が届いた。
ツカツカツカと大股で歩み寄る、その形相があまりに恐ろしかったので、アリアは夏掛けのブランケットを握りしめて後ずさった。
「どこです?」
「えっ」
「ひどい怪我をしたのでしょう。さっさと患部を診せてください。ああ、もしかして当ててみろということですか? ピュティアの鼻を舐めてるようですね」
「ヒエッ! 舐めてないです! 足です!」
バサッ
ニュクスはなんのためらいもなくブランケットを剥ぎ取ると、短杖の先に灯りを付けて検分しはじめた。
「子どもとはいえ淑女の足なのに……」とアリアは口元をモゴモゴさせたが、零れた灯りに照らされたロードライトの瞳が真剣で、それが宝石のようだと思った。
(この人は、わたしの怪我にいつも血相を変えてくれる……)
苛立ったときの剣幕は居たたまれなくなるくらい怖いが、それも自分を案じてのものだと思うと、心地よい熱に感じられた。
「……また無茶をして」
包帯をほどき、グチャグチャのつま先を目にしてきつく眉根を寄せると、ニュクスはすみやかに癒しの歌を歌った。
「は、生えた! 爪が生えた! 先輩ありが……どうしよう急に治ったら化け物だと思われるわ!?」
「不死鳥を放ったのは、きみの義姉とやらの手先です」
たちどころに治癒したつま先を目にしても眉根はきつく寄せられたままで、硬く張り詰めた声が告げた。
「イリオンの末裔でありながら、リオンダーリに弓を引くなど……身の程知らずの、愚か者が」
その地を這うような低い罵倒がリクハルトのことを指しているのだということに、彼の侍従の赤い瞳を思い出して気がついた。
(やっぱり、あの男もわたしと同じ血を継いでいたのね。まあ、あのあんぽんたんがわたしたちの仲間だなんて、断固認めないけど!)
そしてやはり、アリアの説明などなくとも、この魔法使いは状況を詳らかに把握していた。
「また水鏡を使ったんですか?」
「いえ。プランケット邸すべてに監視魔法を張り巡らせているのでそれを使用しました。どの部屋で何が起ころうとも、全て記録しています」
「やめて!?」
超ド級のプライバシー侵害、堂々と開陳。
アリアは治ったばかりの足を抱えて突っ伏した。
(こ、この人……! ずっと思ってたけど、過保護! 過保護すぎるわ!)
いつも甘いネメシスと違い、ニュクスのふだんの態度は柔らかいとは言い難いものである。
だいたいいつも不機嫌そうだし、しょっちゅうズケズケ怒る。
そういう時の顔には、『この言うことを聞かないバカ娘が!』という憤りが、ペンで書いたかのように現れている。
だが、嫌われているかもしれないと思ったことは、一度としてなかった。
アリアを守るためならば、いつだって、彼はどんな労苦も厭わないから。
「……」
膝に突っ伏した頬が赤く染まる。しまりのない笑みがバレバレになってしまわないよう、ぎゅっと唇を噛む。
ニュクスがぶっきらぼうに浴びせてくる何もかもが、アリアが求めてやまない黄金色をしていた。
(まあ、全室丸見えくらい……別にいっか。減るものじゃないしね)
──結果。
プランケット邸全室からプライバシーが死滅するという、正気の沙汰ではない状況に帰結した。
「きみとぼくたちの間に連絡など不要です。昨夜だって、親族が来るということも晩餐に出席するということも、昼間の時点で承知していましたから。だからふたりとも、あのタイミングで厄介な仕事をしていたんですが……」
短杖を握ったままの左手がわなわなと震え、血管が浮かぶ。
「ぼくたちの監視が緩んだその隙に、害を為すとは……! あの忌々しいハエどもが!」
隈をこさえた切れ長の眼が凄むと、ちょっと同席を遠慮したいくらいには凶悪な人相になる。
だがそれは自分の敵に向けられたものだと承知しているので、アリアは「ハエ?」と首を傾げた。
「イリオンで罵倒によく使われた動物がハエなんですよ」
「へえ~豆知識」
「やはりここにはハエが多すぎる。きみの義姉とその手先もそうだし……」
「他にいますか?」
「……」
何気ない質問だったが、ニュクスはなぜかグッと押し黙って、そのまま無言で脛の大きなアザを癒した。
掠れた風のような歌が熱を持った痛みを連れ去る代わりに、しんしんと音もなく降る雪に似た心地よさが沁みていく。
「……騎士の誓いを、されていましたね」
癒えた傷から顔を上げないまま、ポツリとニュクスがこぼした。
「あ、そこも見えてたんですね。はい。かなり度肝を抜かれました」
「よかったですね」
「……」
俯いた顔が見えなかったので、下から覗き込むと、──果たしていつも飄々とした顔は、唇を尖らせて、完全に拗ねたしかめっ面をしていた。
「ぷはっ!」
アリアは思わず噴き出した。
「なっなんで笑うんです!?」
「だって……あはははは! 鏡を見せてあげたいわ! 全然ちっとも、よかったと思ってないお顔……! 先輩、嘘が下手なのね!」
「うっ嘘!? ぼっぼくは! 別に、嘘なんて何も……!」
「心配しないで! わたしの一番のヒーローは先輩だもの!」
「……!?」
月明かりだけの部屋でもわかるほど、ニュクスの頬にパッと朱が走った。
「なっなななななっ、なっ……!」
すぐに腕で顔を覆ったが、赤くなった耳がガッツリ見えている。
「こっこれだからリオンダーリは! 厄介な!」
「これ?」
尋常ではない照れっぷりに、そっぽを向いた顔を覗き込むと、真っ赤になった顔でギン! と睨みつけられた。
「人たらしだというんです! まったく、誰彼かまわずそうして絆すから、千年前から変なものに好かれてばかりいるというのに、まるで学習しない……!」
「心外だわ、誰彼構わずなんて」
笑い混じりに頬を膨らませた。
「ヒーローなんてこっ恥ずかしいセリフ、誰にでも言うわけないでしょ! こうしていつも助けに来てくれて、世界一頼りになる先輩だからそう思うの!」
「だっ、だから! そういうところだと言ってるでしょうが!」
ニュクスは完全に治癒した足に向かって、乱暴にブランケットを放った。
いつも読んでいる古書のほうがよほど丁重に扱ってもらっている。
荒い息を吐きながら、いまだ紅潮したままの顔が横を向いた。
「……ぼくは今回、きみを助けに行けなかったのに」
ポツリとこぼれた苦しそうな呟きで、どうしてこの少年がこんなにも不機嫌なのか、やっとアリアは得心がいった。
『きみが生まれたときから、ぼくがきみを守ることは決まっていました。しかしそれは与えられた義務ではない。ぼくの意思だ』
世にも稀な魔法使いがそう語ったとき。
ふだん淡々としたロードライトガーネットはキラキラと瞬き、誇りと眩しい愛が滲んでいた。
今夜の夕刻色の瞳は、役目を他人に奪われた悔しさと誓いを果たせなかった不甲斐なさに歪んで、床の木目をじっと見つめている。
(……そんなに、背負ってくれなくていいのに)
唇を噛み締めた少年の立ち姿から、黄金色をした飴玉がいくつもコロコロ零れるようだった。
ほろ苦くも、温かいこそばゆさを努めて隠し、アリアは思い切り胸を張った。
「はいっ! 今回、先輩の出る幕はありませんでした! エリュシオンの調べも聞こえたし、なんと魔法も使えるようになって、一人で不死鳥もやっつけました!」
ブイッ!
ピカピカと輝く満面の笑みと、ピースサイン。
いかなる自責の念であってもひとたまりもない明るさを直視させられて、ニュクスもぽかんと毒気を抜かれた。
余裕綽々という表情で自慢げにしているが、実際にはほとんど九死に一生を得たレベルだったことは黙っておく。
「……はああぁあ~~~~」
ドッと気が抜けたように頭を落とした少年は、長い長い溜息を吐きながらベッドに腰かけた。
そうしてうなだれたまま、アリアを見つめた。
眩しくて仕方ないものが目前にあるように細められた、紅紫色の瞳。
「……何が聴こえますか、きみの調べは」
「えっと、竪琴と、波の音……何重にも反響したような、自分の声がします」
「そうですか。ぼくには……砂地を抜ける風の音がします」
「人それぞれなの!?」
「ネメシスのも尋ねてみるとよいでしょう。それと……そこの禽獣のエサは何を?」
禽獣とは、枕元に丸くなっている不死鳥の雛のことだろう。
「今はわたしのごはんを半分こしてあげています」と答えると、ニュクスはアリアに向けるものとは全く違う、底冷えするような醒めた目で不死鳥を見下ろした。
「自分で狩ってこい」
「!」
雛はショックを受けたように縦に長く伸び、うるうるとアリアを見上げた。
『こんなにかわいいのに狩りなんてさせるの? ひどい……! ひどいと思うよね?』などという言語にならない訴えが頭に流れ込んできて、アリアは「ああ~!」とこめかみを抑えた。
「い、いいですいいです! 森の動物が食べられたら悲しいし! この子がすごくよく食べるせいで、わたしのごはんも今日はやたらと多くなってたから、食べる量なら心配いりません」
「甘やかすとつけ上がりますよ。不死鳥なんて生まれてすぐ独り立ちできる種族なんですから。そいつが小さいのはかわいこぶっているだけです」
「キュィ~」
不満げな鳴き声を聞き流し――気味が悪いことにこの鳥、人語を解すらしい――、ニュクスは「ではぼくはこれで」と立ち上がった。
「えっ授業は?」
アリアにとっては当然の問いだったが、ニュクスは不満げに眉を寄せた。
「自分の身体の具合もわからないんですか? いまきみは、初めてエリュシオンと疎通した身でありながら、魔力効率の悪い呪文で無理やり大きな力を使ったせいで、殻が破けて穴が空いている状態です。修復するまでは生命力がただ漏れで、ちょっと動くだけで死ぬような思いをすることになる」
「その穴って、師匠か先輩のどっちかが、ふさいだりできないんですか?」
「……」
まじまじとアリアを凝視する端正な顔には、『こいつ正気か?』というセリフが雄弁に描かれていた。
「……ぼくだからいいですが、よそで言ったらいけませんよ」
少年は頭痛をこらえるように、深いシワが寄った眉間を親指で押した。
「魔力を修復するには、術者と被術者の魔力の循環が必要になります。いまの状況で言えば、きみの殻のヒビをふさぐため、ぼくの魔力を流し込むことにあたる」
「はい」
「いろいろな手はありますが、一番簡単なのは身体的な接触です。だが皮膚同士では互いの基礎防御が邪魔をして混じり合わない。何が言いたいかというと、つまり……皮膚ではない場所、……たとえば、唇同士の接触が必要なんです」
非常に言いづらそうにしながらも最後まできちんと説明してくれたニュクスの前で、途中から察したアリアは気まずさに頭を抱えていた。
「……簡単じゃないやつは?」
「術者のホムンクルスを作り、それを被術者の体内に転移させるとか」
「あ、やっぱりいいです」
第二案は恐ろしすぎて最後まで聞くのもいやであった。
かといって第一案を実行する気もない。乙女のファーストキスだというのに、医者のリハビリを受けるような気分で捨てられてたまるものか。
「先輩、お願いします!」
パン! と、アリアは胸の前で手を合わせた。
「わたし、師匠にどうしても聞かなきゃいけないことがあるんです! 大変図々しいお願いで恐れ入りますが、おんぶで運搬していただけませんか!?」
「……」
ニュクスは二度ほどまばたきをしたが、ややあって息をこぼすように小さく笑うと、アリアのそばで膝をついた。
「どうぞ」
「い……いいの!?」
「こんなことならいくらでも」
「いや相当いかれたお願いだったと思うけど……ありがとうございます、先輩!」
引きずるように重たい身体だったが、少年の背に乗って地面を離れると、ふわりと軽くなったような気がした。
ニュクスのローブからは、胸がスッとする薬草の香りがしていた。
アリアを背負っても軽々と立ち上がる様子で、見た目よりも力があるのだとわかる。
「導け 地の露へ」
砂地を渡る風に似た声が歌うと、床に紫の魔法陣が浮かび上がり、生ぬるい風が髪をあおった。
(わたしの呪文と違う……)
「そういえば術符を持っているのだから、唱えればすぐにここへと逃げられたのに」
「……ああッ!」
夜露に濡れる地に足をつけた時に、ふと思い出したように言われた内容があまりにもっともであるので、アリアはしばらくショックを受けていた。




