第40話 夜明けの大団円(前)
帝国ユスティフの東南部、グウェナエル領。
温暖で夏は乾燥するエヴァンタイユ海性気候に属する地域だが、ある夏の夜明け、領都の一角に、熱帯地方のような激しいスコールが降り注いだ。
木々に燃え移った火もたちまち消え失せ、おびただしい水蒸気となって立ち上った。
その日、絹の衣服を泥に汚して駆けつけた人々は、嘘のような奇跡を目にした。
白み始めた東の空、ごくわずかに差し込んだ朝日の下。
年端も行かない小さな女の子が、指先一つで巨大な不死鳥の息の根を止める様を。
視界を遮るほどの水蒸気のなか、少女は力尽きたのか、水の枯れた溜め池の中央で倒れ込んだ。
助けに行かねばとぬかるみに足を突っ込んだところで、その場にいた者の耳に、「キュィィ……」という頼りなさげな幼鳥の鳴き声が届いた。
――おぼつかなくも、羽ばたきを重ねるごとに次第に力強く空気を打ち始める羽音も。
それの運び方は、やや乱暴だった。
アリアは地面に落とされて、「ふべっ……」とうめき声を上げて目を覚ました。
「アリア!」
涙で霞んだ視界に真っ先に目に飛び込んだのは、こちらを一心に見つめるエメラルドグリーンの瞳。
いつものように笑ってはいない養父の顔、頬に涙の跡をいくつもつけたリスナールの兄弟の姿。
それから、自分の腕と体の間に挟まって寝息を立てている炎の小鳥だった。
「!? なんっ……!」
つい一瞬前まで自分を食べようと執拗に付け狙ってきた捕食者がこんなに近くにいることに、アリアは驚愕した。
反射的に吹っ飛ばそうと腕に力がこもったが、そのサイズが明らかに小さいのと、どう見ても気持ちよさそうに眠っているため暴力的な手段に出ていいものか迷い、最終的に(……なにこれ!?)という顔で自分を覗き込む人間たちを見上げるしかなかった。
「いや~すごいものを見たなあ!」と能天気な声を上げたのはギルベルト。
「不死鳥が死ぬのをこの目で見られるなんて! まさに伝説通り、瞬間的に蘇るんだね! ……痛い痛い痛い姉さん痛いって。ヒールで足抉るのやめて」
「……あの、叔父さま? なんか小さくなってここに収まっているんですが」
「ああそれね! 不死鳥って基本老衰で死んだという伝承しかなくて、倒した人間なんて聞いたことないから推測でしかないけどさ。不死鳥にとっては前の個体の死こそ、新しい個体の誕生になる。その雛にとって、きみは自分を生まれさせてくれた者。言うなれば、親鳥に見えているんじゃない?」
「……」
アリアは複雑な形相でわきの下に挟まっている雛鳥を見下ろした。
さっきまでこっちのことを食べ物としか認識していなかったくせに、現金すぎでは……?
炎は皮膚にも衣服にも直に触れているはずだがほの暖かいだけで、先ほどのような肌が焼けるような陽炎は感じなかった。
まどろんでいた金の瞳が、チラリとこちらを見上げた。
――まさか捨てたりしないよね? ちゃんと保護してくれるよね?
「!?」
人の言葉ではないが、なにごとかの主張が確かに伝わってきて、さすがにぎょっとしたアリアは身を起こして額を抑えた。
「あ、頭が……」
「何てこと……! 全部お前のせいよギルベルト! 死んで詫びなさい!」
「まあまあ! 結果、無事だったんだしよかったよね!」
「そういうことは被害者が言うものなのよ!」
よほど頭にきたらしくキィィと地団太まで踏んでいるエミリエンヌを見上げていると、不意に、大きな手にふわりと抱き上げられた。
「……本当に、無事でよかった」
「……」
フレデリク・プランケットに抱き上げられたのだと気づくまで、二秒程度の時間を要した。
小汚い泥まみれの養女を持ち上げるなど、人間らしいふるまいをしてみせるタイプだとは思わなかったので驚いたのだ。
だが状況を把握するが早いか、アリアはフレデリクの氷色の瞳を見上げてニッコリした。
何を言えばいいか正解のわかる場面は楽だ――と思った。
「助けに来てくださってありがとうございます! お父さま、お母さま!」
――しかしフレデリクもエミリエンヌも、一瞬息を詰めて、苦しげに目線を落としてしまった。
予想だにしていない反応に、アリアもまた面食らった。
わかるのは、なにか間違えたらしいということだけ。
(あの顔、どういう意味だったんだろ……?)
あんまり二人が沈鬱な顔をするものだから、抱かれて邸に戻るまでの道中、指一本も動かしたくないほど重い身体を持て余しながら考えた。
(もしかして……戻ってきてはいけなかったのかしら。……いやいやでも、すごく心配してくれたようだったけど! ……わたしがそう思いたいだけなのかしら)
腹の上には不死鳥の雛が相変わらずわが物顔で寝ころんでいる。
濡れそぼった衣服を嫌がりそうなものだが、どういう魔法か、ちゃっかり自分の丸くなる部分だけカラリと乾かしていた。
沈んだ様子の白い横顔を、後ろから歩く兄弟はじっと見つめていた。
玄関ポーチには子爵夫妻を筆頭に、セレスティーネとリクハルトを除いた屋敷中の者が集まっていた。
「――おっ、お嬢さま!」
びしょ濡れの全身、ズタボロのドレス、力なくだらりと垂れた四肢と疲れ果てた表情の小さな主人を目にして、メラニーは悲鳴を上げた。
「は、早くお風呂に!」
「お湯は沸いてるわよ!」
「待って、お医者が先? お風呂が先?」
「どっちにしてもお召替えをしないと……!」
にわかに騒がしく動き始めたメイドたちに、フレデリクがアリアを引き渡そうとした時。
「領主さま!」
声を上げたのは、フランシスだった。
きつく握った手には冷たい汗が滲み、声は上ずって震えていたが、ペリドットの大きな瞳は、自分の両親のはるか上の存在をしっかりと見据えていた。
「何か……アリアに言うことはないんですか?」
「お前――誰にものを言っているのかわかっているのか!?」
「よしなさい、ドミニク」
激高して振り上げたドミニク・リスナールの拳を止めたのは、フレデリク本人だった。
「フランシス。きみの言いたいことは――さすがのぼくにもわかるけど、見ての通りアリアはこの状態でね。先に処置を済ませてから……」
「それでなかったことにするかもしれないでしょ! 大人はずるいから! 子どもは甘いココアでも飲ませて寝かしつければ全部忘れると思ってる!」
「フラン」
オーギュストがたしなめたが、それは単に「口調を改めろ」という意味合いでしかなく、それ以上弟を止めはせず、自らもまた領主をひたと見上げた。
「どれだけご心配されていようと、心を砕いていようと、言わなくては伝わらないんですよ」
兄弟の思いは一つだけだった。
「死ぬ気で生きて帰ってきたのに、領主さまも奥方さまも、ちっとも喜んだ顔を見せてない! これじゃあ……アリアがかわいそうです!」
フランシスの叫びは、空気を震わせてしんと地面に落ちた。
アリアは息をするのも忘れて、だれの顔を見たらいいのかも判断できず、ただ瞬きをした。
肌が痛いような沈黙の中、「そうね……」と呟いたのは、エミリエンヌのほうからだった。
エメラルドグリーンの瞳が、アリアを写し込んだ。いつも冷たい切れ長の虹彩に、じわりと滲む色があった。
「……気が、狂うかと思ったわ。暗い森の中で誰にも助けられず、変な鳥にあなたが食べられたかと思うと。原因となった全ての人間を血祭りにあげてやると思った。生きているあなたを目にして、本当に安心したわ。……でも、会わせる顔がないと思ったのよ。だってわたくし、そこのバカがあなたを愚弄している時も、こっちのバカが変な鳥を逃した時も、あなたを守ってやれなかったんだもの」
「……ぉ」
お母さまと呼ぼうとした声は、喉が詰まってしまい、吐息となって言葉にならなかった。
「……そう、会わせる顔がなかったんだ。危ない目に遭わせるつもりで連れてきたわけじゃないのに、きみはこの邸で二度、すでに危険な目に遭っている。今夜は特に、命を失ってもおかしくなかった。……礼なんて言わなくていい。すぐに助けに向かわなかったぼくに、泣いて怒ってくれていいんだよ、アリア」
「……」
いつも流暢に愛想を振りまく唇からは、何も出てこなかった。
血のつながらない親たちの眼差しから確かに、あれほど願ってやまなかった日差しのような熱を、たしかに感じられたから。
胸が詰まって熱かった。
朝焼け色の瞳に涙がにじむ。
「ううん、充分。充分です……。愛してもらえているってわかっただけで、こんなに幸せだもの。ありがとう、――お母さま、お父さま」
頬に涙を零しながらはにかむ様子は、見る者の胸を強く打った。
――あれほど悪罵をぶつけていたドミニク・リスナールさえも、己の胸を抑え、それから二人の息子たちをまじまじと見つめた。
ガブリエル・リスナールも同様だった。
愛していると言ってやったのは、温かい小さな身体を抱きしめてやったのは、いったいいつのことだったかと思い返しながら。




