第39話 アリアドネ
――あらあら、そんなにお口を開けて。あなたの喉は特別製なんだから、何か出て来ちゃうかもしれないわよ。
懐かしく慕わしい声がそう告げたのは、夢うつつの娘への単なるからかいだったか、それとも謎めいた仕掛けの示唆だったか。
どちらにしてもこの喉が呼び寄せたものであるならそれは自分の運命だと、アリアは心に決めていた。
あの二人を親元に返さないなんて、絶対にありえない。
必ず揃って屋敷に先に返すことは最初から決めていた。
野生動物は二匹の塊より、一匹になった方を確実に狙ってくることもわかっていた。
だからといって自分が死ぬ気でもない。
だってまだ、教えてもらってないことが山ほどあるのだ。
(あの人に……師匠に! まだわたしのお父さんかどうか、聞けてないわ!)
――どんなに細い糸でも、手繰り寄せてみせる。
「!」
風切音を聞き届けて思わず身をかがめると、先ほどまで立っていた場所に、凶悪な鉄兜のようなクチバシが突き刺さっていた。
(は、は、早~!)
先ほどからこの鳥の攻撃、全く視界に捉えられていない。
何がどこから来るかわからないまま、耳を頼りに当てずっぽうに避けているに過ぎないので、致命傷を受けていないのはただ運がいいだけだ。
「お――お食べ!」
渾身の力で、骨付き肉をあらぬ方に投げると同時に、アリアは身をひるがえして、ほとんど転がるようにして暗い森の中を駆け下りた。
目的地は下――もっと下だ。
不死鳥は放り投げられたエサを少し嗅ぎ、ペロリと一舐めで飲み込むと、右足の蹴爪で地面を蹴った。
――ドッ
重い疾走音は、アリアの耳でなくても聞こえただろう。
(走れるの~~~~~~!?)
四足動物の舐めるような速さほどではないが、頑健な趾は木の根も岩も灌木も物ともせず、重戦車のように辺りの枝葉をへし折りながら次第にスピードを上げていった。
背を向けて駆ける獲物に一目散。
(あと少し……もう近くまで来てるはず……!)
耳を頼りに、ふんばりの利かない足でほとんど転がり落ちるように、先へ先へ逃げ続けた。
「!」
不意に、目前に崖が現れた。
――飛び降りられる高さか、迂回したほうがいいか。
逡巡したその時、カチッと火打石の鳴らされる音がした。
(避けられない!)
真後ろの追跡者から火炎放射を受けてはひとたまりもない。
左右どちらに飛びのいても、炎の射程範囲である。
選択肢は一つしかなかった。
「……お願いしまぁぁぁぁす!」
アリアはド直球に、神とも知れぬ何かに祈りながら、崖から飛び降りた。
一瞬の浮遊感ののち、しぶきが視界を覆った。
肌を覆う冷たい感覚。泡沫の立てる音。
森の中で一番低い場所――ほとりにはビーバーのダムが築かれているこの窪地には、森中から流れ込んだ小川が泉を作り出していた。
――炎の鳥ならきっと水は苦手だろうと当て込んで、ひたすら水場を目指して逃げていたのだ。
実際、不死鳥は崖上から首を伸ばして泉を見下ろすと、手を出しあぐねたように苛立って火を吹いた。
辺りの木々がどんどん火柱を上げていく。
(ごめんなさいアナグマさんたち……! でも、このまま水に浸かっておけば……!)
そう安堵したのもつかの間。
「あれ? あれ? ……あれ!? し、沈んでく……!?」
着衣で泳いだ経験などないアリアは知らなかった。
幾重にも絹を重ねたドレスで水に飛び込むと、どうなるのか。
「……ッ!」
いくら掻いても浮上できず、思いのほか深い泉の底に、どんどん引きずり込まれていく。
暗い水の底から、火が燃え移って明るく火の粉の舞う木々が見えた。
耳に届くのは泡沫の立ち上る音ばかり。
むなしく水を掻く白い手。肺から瞬く間に酸素が失われていく。
――ここで死ぬ。
疑いようもない予感が全身を貫き、生まれてはじめて、絶叫しそうな恐怖に支配された。
「この愚弟! そもそもお前があんな化け物を見せびらかしに持ってくるからこんなことが起きるのよ!」
「でも、ぼくはちゃんと鍵をかけていたよ? 荷物を荒らされた形跡があったし、誰かが鍵を開けたんだよ」
「そんなことはどうでもよくてよ! ぼさっとしている暇があったら速やかにあの化け物を捕まえてきなさい! この役立たずのでくのぼう!」
妻の怒号を遠い心地で聞きながら、フレデリク・プランケットは珍しく眉根を寄せて考え込んでいた。
真っ先にしたことは、人を襲う魔物が屋敷の外に逃げたおそれがあることを領都内の夜警に伝達することだ。
領主の親族が持ち込んだ魔物で領民に死傷者が出たとなっては、民から苛烈な突き上げが来るだろうし、中央もこれ幸いとばかりにプランケットの影響力を削ぎ落としにかかってくるだろう。
まだ魔物が邸内にいる場合を考えて、モーリスを筆頭に近隣も捜索させているが、それは邸外の二の次であるし、子どもたちの捜索はさらにその下であった。
仕方がない。
割ける人員が限られている以上、優先すべき事項に当たらせるのは領主として当然の責務だ。
だが……
『お父さま!』
ここにはいないプラチナブロンドを思い出すと、なぜか目頭が眩しく感じられた。
春風のような丸く穏やかな振る舞いの下に、苛烈な夏の日差しの性根を隠した娘。
毎日お茶を共にし始めたのは、動向の監視も含めた政治的な判断からだった。
その計算高く強かな根性に気づくと、面白いという感情を抱き、やがて見ていると快いという感覚に変わった。
持てる力のすべてを使って人の顔色を伺い、媚びを売り愛想を振りまいているのに、卑屈さのかけらもない。
赤い目であることも、孤児であることも、媚びへつらいも何もかも、自分の武器として生きていこうとしているのだ。
(引き取った当初は、例のお方に似ているとばかり思っていたが……今は不思議と、自分に似ているところが目につく)
魔物に食い荒らされた子どもの肢体と、養女がオーバーラップして、フレデリクはアイスブルーの瞳を強くつむった。手のひらに冷たい汗がじんわりと滲む。
喰われた子は幼子で、人の心がないと言われた自分も、痛ましさに視線を背けたものだった。
己の引き取った娘もまだあれほど小さかったということを、ようやく思い出した。
「国境伯さま!」
玄関に集まっていた大人たちは、勢いよく駆けて来る少年たちを目にして安堵の息をついた。
「ギュスト! フラン!」
半狂乱だったガブリエル夫人は、二人を抱きしめようと駆け寄ったが、兄弟はどちらも足を止めずに母を避け、真っ直ぐにフレデリクを見据えた。
「不死鳥に襲われました! ――アリアさまがまだ森にいます! 早く来てください!」
息を呑むような悲鳴が自分の妻から上がったものだと、一拍遅れてフレデリクは気がついた。
「南か?」
「はい! アリアさまが囮になって引き付けてくださっています。――早く!」
「ダメよ! 絶対にダメ!」
ひび割れた悲鳴が上がった。
再び森へと駆け出そうとした二人の息子の腕を、ガブリエル夫人がきつく掴んでいた。
「行かせないわ! 食べられちゃったらどうするの!? 領主さまに任せてあなたたちは部屋に」
「黙れ!」
「!?」
噛みつくように怒鳴ったのはオーギュストのほうだった。
従順で聞き分けのいい姿しか知らない大人たちは、両親も含めてぽかんと口を開けた。
「離してよ」
甘えん坊のはずのフランシスも、張り詰めたような表情で自分と兄を掴む母の腕を外した。
「アリアは、自分の足がボロボロで走れないから、自分が囮になってぼくたちをここに向かわせた。……自分が一番危ないってわかってたのに」
「わたしはわたしにできることをすると、あの方は言った。だからおれたちは再び戻る。――あなた方は? ここで突っ立っているだけか?」
二対それぞれの色をした緑の瞳は、同じ晩にグランド・ホールを飛び出していったとは思えないほど様変わりし、決して退かない炎を灯していた。
(……あの子の火だ)
「モーリス、夜警を呼べ。ギルベルト、短杖は持っているな? 一緒に来い。――きみたちも」
「はい!」
フレデリクは大股で駆け出した。
――と、その時。
真横を疾風のように追い抜いていく人影があった。
「えっ」
二度見したが、あのブルネットは間違いない。
国境伯夫人エミリエンヌが、高いヒールをものともせず、庭園の土を抉り散らしながら、全速力で疾走していた。
(は、走れたのか?)
面食らいつつも、案内役が追い抜かれては意味がないと少年たちは速度を上げ、それに伴ってフレデリクたちも足に力を込めた。
「――アリアアアア!」
そんな悲痛な声が、彼女の喉から出るとはゆめにも思わなかった。
思わず息を飲んだ時、森の奥が真昼のように明るくなった。
口から大きな泡がぼこっと漏れて、水面に上がっていくのを、アリアは為すすべなく眺めていた。もう水を搔く力すら出てこない。
何とかなると思っていた。どうあったって死ぬことはないと思っていたのだ。
子どもだから――自分はきっと特別だから。
(まだ……死にたくない!)
声にならない声で叫ぶと――
この世ならざる海の果てで、驚いた鳥が飛び立った。
夜明けの空に、彗星が翠の尾を引いて、いくつもいくつも落ちる。
イチジクの木の下で機械仕掛けの人形のゼンマイを回すと、長らくさび付いていた歯車が動き出し、時を刻み始めた。
――耳に届いていたのは泡沫だけではなかった。
潮の音が聞こえていた。気がつけば長い間。
いくたびも繰り返される旋律、少しかすれた竪琴の響き。彼方から幾重にも反響して出どころのわからない歌。
それは自分の声だった。
(……そうか)
エリュシオンの調べとは、遠く隔てられた自分の半身が歌う声だった。
――やっと見つけた!
まどろみの中のハミングに似た歌は、そう呼びかけた。
――アリアドネ、汝みずからを知れ
『アリアドネ……なんじみずからをしれ』
水の中、声を出さずに歌を追うと、闇の中に白い二本の糸が現れた。
息はもう、かすかに残ったものしかない。
それでも二本の糸は螺旋を描き、天を目指して上っていった。
――掴んだ。
『アネベイノ――上れ』
単純な語しか、まだ話せない。
だが喉から歌が奏でられた途端、大きな手が掬い上げたように、泉の水は空中に浮かび上がった。
小さな手が下弦の月を差せば、燃える森の木々を超えて、空を仰ぐ不死鳥を超えて、高く、高く上がった。
「ピープトー――落ちろ」
指先が地面を指した。
水の塊は空中で弛緩すると、バケツをひっくり返したように地上に降り注いだ。
「ギャアアーーーーー!」
爆発のような水蒸気が上がり、不死鳥の断末魔が轟いた。
アリアもまた、目を閉じて窪地に倒れ込んだ。
身体に大きな穴が空いてしまったように、重たかった。




