第38話 オーギュストとフランシス(5)
「あれってさ、ギルベルトさまの不死鳥?」
「あー……うん。そう……なんじゃないか?」
「檻に入ってたよね? ……脱走?」
頭上に現れた巨大な怪鳥を、ぽかんと見上げたのもつかの間。
「ギャア――――!」
雄叫びを上げながら急降下してくる不死鳥を目にし、三人の脳内には、脳天気なギルベルトの笑顔が蘇った。
――完ッ全に肉食! 現地では討伐対象なんだ!
――アッハハハハ……
「……ちゃんと鍵閉めておきなさいよぉ~~~!」
少年少女たちは半泣きで森の奥へ駆け出した。
++++++
夜の森は、走るのには全く向いていなかった。
張り出した根は足を何度も掬い、足元に気を取られれば枝葉が顔を打ち、灌木の茂みは棘で服や肌を引き裂いた。
手に持ったランタンは振り回されて今にも消えそうだ。
「ハァッ……ハッ、ハァッ……ハァッ」
誰のものとも知れない荒い息ばかりがこだましていたが、アリアの耳には風切羽の鳴る音が、付かず離れずついてきているのが聞こえていた。
(どうしようどうしよう……! 考えろ考えろ、怯えてる場合じゃないのよ!)
遠くに見える邸の明かりを横目で見た。
(あそこまで三人で走る? ――ううん、見通しがよすぎる。絶対に追いつかれて、誰か一人、持っていかれちゃうわ。障害物が多い森の中だから、まだあっちも飛びかかって来られないのよ……!)
捕食者は悠々と低空飛行し、獲物が疲労して足を止めるのを待ち構えている。
こちらは子ども三人で、そう長く逃げることはできない。ジリ貧である。
逃げ始めて、どのくらい経っただろうか。
「! ――兄さん、アリア、ここ!」
フランシスが見つけた小さな風穴に飛び込んで、三人は早鐘を打つ胸を何とか抑え込んだ。
「はぁっ、はっ、はっ、フラン、よくやった……」
「えへへ……!」
フランシスは得意げに笑ってみせたが、疲労の色が濃かった。もともと体力があるほうではない。
アリアもまた、靴ずれをした足先を丸めていた。
子供用でローヒールとはいえ、革のパンプスは闇夜のデコボコ道を逃避行するには全く不向きであった。
オーギュストは、顔色の悪い二人を眺めて、静かに膝をついた。
「アリアさま、フラン。おれが邸まで行って、助けを呼んできます」
「「ダメ!」」
小さな手が二つ、決してはなさないとばかりに、年上の少年のシャツを強くつかんだ。
動きづらいジャケットはここに至るまでの間に、破れて捨てられてしまっている。
「邸までの道には何の遮蔽物もないんですよ!? 上空から滑空して来られたらひとたまりもないです!」
「どうしてそう格好つけなわけ!? 剣を持っているならまだしも丸腰のくせに! いいからここでぼくらとじっとしてて!」
「うっ……ちょっと声を押さえて」
「ピィィ―――!」
獲物を見失った不死鳥が、森の上を旋回する音がした。アリアたちを探している。
「あいつ、メラメラ燃えて派手に目立ってるでしょ!? きっと大人たちが気づいて助けに来てくれるよ!」
「だが……襲われてもうどれくらい経つ? おれたちがここにいるってことも気づかれてない。お屋敷から影になって見えていないんじゃないか?」
「……」
たしかに夏の木々は背が高く葉が生い茂り、少し角度がズレればこれだけ輝く不死鳥も隠れてしまえるだろう。
その時。
カチッと石を鳴らすような音が、かすかに届いた。
ボウッ
不死鳥の口から火が放たれ、背の高いオークの先端に燃え移る。
「!?」
(嘘でしょ!? あの鳥、火吹けるの!? そ、そ、それより……!)
「アナグマさんのおうちが……! ビ、ビーバーさんが……!」
「ビーバーさん!? ビーバーさんもいるなんて初耳なんだけど!?」
「小出しにしようと思ってたの! 帰り際に言えばまた来てくれる可能性が上がるでしょ!? ああ……!」
「いやそんな小狡い手を使わなくても来るけど!?」
「い、今その話はいいだろ! このままじゃ森が火事になってしまう……どうする!?」
敵は火と煙で獲物をあぶり出す魂胆のようだ。
一刻の猶予もなかった。
ふと、アリアの胃の腑をせり上がってくるものがあった。
「うっ……」
「どうしました」
「吐きそう」
「「え!?」」
フランシスが抜かりなくサッと距離を取った。
オーギュストは、受け止める桶もバケツも何もない状況で、あわあわと手を出したり引っ込めたりしている。
レディたるもの、殿方の目前で中身を出すなんて大事故、絶対に避けたい。
だが狭い洞窟の中、頭上には人食いの怪鳥が旋回している状況で、花を摘みに行けるような別室などなかった。
致し方ない。さっさと吐くか。
一瞬にして果断なる決断を下したアリアは、ちょっとだけ奥の方に頭を移動した。
「ぼえっ」
――どすっ。
「……」
果たして細い喉から出てきたのは、こんがりと焼けた巨大な骨付き肉だった。
「……あの、違うわ」
二対の緑の瞳が信じられないものを見る目で、アリアと骨付き肉を五度見した。
「……え、でも」
「特殊能力なの」
「と――え? 骨付き肉を……?」
「口から生み出す能力……?」
もうこの際それでいい。
というかアリア自身も何一つわかっていない。
だが少なくとも、この自分の顔よりもでかい骨付き肉を丸呑みにした記憶は一切ない。
「前は……なぜか軍手が出てきたわ。でもそのおかげで閉じ込められた納屋から脱出できたの。全く意味はわからないけど、絶体絶命のとき、必要なものが出てくる仕組みになっている……のかもしれないわ」
「……口からですか?」
「うん。口から」
これまでおとぎ話の姫君を見るような眼差しだったオーギュストが、珍獣を目撃した顔になったが、それは見なかったことにして、アリアは骨付き肉の骨部分を握りしめるとぐっと持ち上げた。重い。
(火を吹くということはきっと、獲物もこんがり焼けているのがお好みのはず。それなら……)
「オーギュストさま、フラン。二人で全速力で邸まで走って、お父さまとギルベルト叔父さまを連れてきて。わたしが囮になるわ」
「だっ……」
「ダメに決まっているだろう!」
思いのほか、強い怒気をぶつけられて驚いた。
これまで自罰的に張り詰めているか、穏やかに澄んでいるばかりだった深い緑の瞳は、努力に裏打ちされたプライドを滲ませて確かに怒っていた。
「バカにしているのか……!? おれはこう見えても騎士です! 男だし、あなたより年上で――それなのに年下の令嬢を見捨てて自分が先に逃げるなんてこと、死んでもできない!」
「バカになんてしてるわけないでしょ、おバカさんね!」
「おバっ……!?」
対する朝焼けの瞳も、一歩も退く気はない。
「可能性の高い方に賭けるの! 救援を呼びに行く人が倒れたら全滅じゃない! でも何も遮るものがない場所を駆け抜けなきゃいけない。だから一番足が速くて、強いあなたが行くのよ!」
「じゃあ! ぼくもきみと残って囮をっ」
「オーギュスト一人で行かせて、彼がやられたら? もちろんそうならないように囮もがんばるけれど! フラン、あなたはオーギュストが無事に邸に滑り込むまで、彼を守るの。そしてもし彼が走れなくなったら、あなたが二人目の走者になるのよ」
思いがけず大役を担わされて、フランシスは顔をこわばらせたが、一度首を振って飲み込むと「その役、きみじゃだめなの?」と再度食い下がった。
「きみを残して行くなんていやだ! もしきみが食べられちゃったら、ぼくも……! ぼくだって……!」
じわりと揺らいだ黄緑の瞳に少し笑うと、アリアはパンプスから足を引き抜いて見せた。
じっとりと血の滲んだ白い絹の靴下のつま先を目にして、兄弟は息を呑んだ。
「長い距離はもう……走れないの。でも森の中にいれば、木が邪魔をして一瞬で死ぬことはないわ。わたしはわたしにできることをするから、あなたたちはあなたたちの役目を果たして」
否やを許さぬとばかりに、炎の色をした瞳は傲然と見据えて離さなかったが、それでいて小首を傾げて可憐に笑ってみせた。
「犠牲になる気なんてさらさらないのよ。――だから、早く助けに来てね」
まるでおとぎ話の姫君のようだと、少年たちは思った。
美しくてたおやかで――自分を手に入れたければ波濤万里の財宝を献上せよと無理難題を吹っかけてくるタイプの、尊大で気高い姫。
頬は汚れてドレスも穴だらけで、手に持っているのは自分が吐き出した巨大な骨付き肉だというのに。
「……必ず」
気づけばオーギュストもフランシスも、頷かされていた。
火打ち石が再び打ち鳴らされ、にわかに真昼のような明るさに照らし出された。
肌の焼けるような熱風も遅れて降りてくる。
「熱ッ! はいこれ! ちょうどいい感じの棒!」
「棒!? 火を吹いてくる鳥に棒!?」
「意味ある!?」
「二本あったから! ――じゃあね!」
手頃な棒を押し付けると、アリアは骨付き肉とともに洞穴の外に飛び出した。
猛禽類は目が良い。
たちまち獲物を――それもうまそうな調理済みの肉を持った、体よく群れからはぐれた個体を見つけ、不死鳥は旋回した。
「やっぱり、よく焼けたのがお好みなのね! おいで!」
アリアは身を翻して、森の奥の方へ駆けた。宛てはある。――一応。
「走れ!」
オーギュストに手を引かれ、フランシスはもつれながらも駆け出した。
柔らかそうなプラチナブロンドの頭は森の奥の方へ、ややヨタヨタとおぼつかない足取りで駆けていき、その後を、黄金色に燃える捕食者が追っていくのが見えた。
「よそ見をするな!」
厳しい怒気を浴びせかけられて、驚いたフランシスは声もなく兄を見上げた。
こんなふうに怒られるのは初めてだ。
モスグリーンの瞳には、後悔と――見たことのない炎が瞬いていた。
「あの方が稼いでくださった時間だ! 死ぬ気で走れ! ――お前も男だろ!?」
「!」
ペリドットの瞳にじわりと膜が張り、二度の忙しないまばたきのあとには、同じく火が瞬いていた。
「当たり前じゃん……!」
靴の中の血で摩擦を失い、ズルリと滑った。
地面につんのめって、顔を強かに木の根にぶつけてちょっと鼻血が出る。もう足先の感覚はない。
「いっ……。!」
急降下の風切音を耳にして、アリアは地に伏したまま横に転がった。
頬を切るような風圧とともに、先程までいた場所に鋭い鉤爪が突き刺さっている。
「……でっか」
とうとう目前に姿を表した不死鳥の身の丈は、大人を縦に二人重ねたほどの高さ。
虹彩は爛々と黄金に光輝き、幹のように太い首には火輪が燃え、筋骨隆々とした脚部は一蹴りで人間など仕留めてしまえるだろうと思われた。




