第37話 オーギュストとフランシス(4)
邸から、自分たちを呼ぶ声がアリアの耳に届いた。
月が中天に上る時刻になってやっと、子どもたちの不在に気が付いたのだろう。
「遅すぎるわよ~……」
「何か言った?」
「んーん」
「アリアさま、もらいますよ」
「あ」
アリアとフランシスとオーギュストは、地面にマス目を書いて、順番に石を置いていく陣取り合戦で遊んでいた。
カードもチェス盤も持ち出せず、長い夜に絶望しかけていたフランシスを見かねて、(貴族のお坊ちゃまのお気に召すかしら……?)とやや心配しながら教えた下町時代の遊びであったが、予想に反してオーギュストもフランシスも夢中になって遊んでくれた。
オーギュストは三つ年上だけあって、兄らしく適度に手を抜いて悪手を取ってくれるので、年下も機嫌よく陣取り合戦に興じることができている。
ランタンの明かりはおぼつかず、時折消えそうにまたたくので、暗いマス目に置かれた小石は目を凝らさないと見えないが、それもまたこの夏の夜を特別で神秘的なもののように見せていた。
だがこの兄弟、全く目を合わさない。
それどころか会話もしない。
「やった、獲った! アリア、獲ったよ!」
「やられた! アリアさま、渡してもらえますか」
「……ええ、はいどうぞ、石三つ。フランのものよ」
「あっアリア! おっきいカエルがいるよ!」
「あれはヒキガエルですね、アリアさま」
「……」
(ど~~~しよっかな~~~)
アリアは無言で空を仰いだ。
細い下弦の月は切った爪のような形をしていた。
「……二人とも、ずっとお話しないで生きていくつもり?」
さっさと本題に入るに限る。
アリアの論理はシンプルであった。
「「……」」
二対それぞれの緑の瞳は、一瞬お互いを見つめ、すぐに弾かれたようにそらした。
「……ぼくは話すことなんてない」
「オーギュストさまは?」
「……おれは」
つんとそっぽを向いてしまったフランシスのことは放っておいて、アリアはじっとオーギュストを見つめた。
この二人、フランシスは強く拒絶しているが、オーギュストはどちらかというと――
「おれは……フラン、お前と昔みたいな兄弟に戻りたいよ」
ぽつりとこぼすように告げられた言葉に、フランシスが大きく目を見開いた。
「な、何それ……? あっ、アリアの前だからでしょ? あんたはいつだって、人からどう見られるかしか気にしてないもん!」
「フラン」
「今さら……! 今さら兄貴ぶったって、遅いんだよ!」
ポコッ! とフランシスはどんぐりを投げつけた。
簡単に避けられたに違いないが、オーギュストは目をつぶっただけで避けなかった。
「ぼくは……ぼくはずっと……! ずっと……!」
ランタンの灯りも届かない暗闇の中、フランシスの顔は見えないが、声は熱く震えていた。
ずっと、の先をとうとう継げないまま、震える喉は大きく息を吐き、
「――寝るッ!」
と宣言するが速いか、ブランケットを頭から被って地面に丸くなった。
「……」
オーギュストはモスグリーンの瞳を揺らしたまま、何も言わず、毛布に引きこもった弟の丸い姿をじっと見つめていた。
アリアはその横顔をそっと観察した。
勉強も剣も有望だという子爵家の嫡男。
生真面目で精悍な線の横顔には、年に似合わない、疲れたような影がある。
よく似た陰影を持つ少年を、アリアは知っていた。
彼もまた、自分以外のだれかを守ろうとして、口に出さずに苦労ばかりしている。
「オーギュストさま。怪我しませんでした?」
「……えっ、あ、ああ。平気です。どんぐりですから」
「うふふ、でも投げつけられたら痛いですよね。ふわふわ食べます?」
「……いただきます」
ふわふわというのは、ギルベルトがくれたお土産のお菓子である。
ピンクやレモンイエローの可愛らしい色合いをしていて、つまむとふかふかのすべすべ、口に入れると果物の甘酸っぱい味がしてしゅわっと溶けるおいしいもの――しかし誰も「ギモーヴ」という正式名を知らないため、「ふわふわ」と名付けられてしまっていた。
オーギュストはフランボワーズのギモーヴを口にして、張り詰めていた横顔をやや緩めた。
ブランケットからは、早くも寝息が聞こえ始めていた。
「アリアさま。……お耳汚しかと思いますが、おれの話を聞いていただけますか?」
「はい。もちろんです」
アリアもレモンのギモーヴを頬張って顔をほころばせつつ、頷いた。
ずっと待っていたのだ。
この張り詰めた少年の、水の在処を教えてくれることを。
「おれは……」
ぽつぽつと小雨が降るように、少年は少しずつ語り始めた。
オーギュスト・リスナールは、リスナール子爵家が長らく待ち望んだ嫡子だった。
ガブリエル夫人はドミニク子爵と結婚してから長年子ができなかったので、親戚からずいぶん詰られたといまだによく嘆くのだという。
「その上、男だったものですから、それは期待をかけて育てられました」
初めて剣を持たされたのは三つの頃のこと。
軍閥での昇進を狙うドミニクは、中央にパイプを作るため、幼い息子の指南役として大金を払って退役将官を招いた。
訓練は厳しく、幼い子どもが熱を出しても、怪我をしても、休ませてはくれなかった。
剣の稽古がない日は初等教育の教師が派遣され、教鞭を片手に、こちらも厳しくオーギュストを指導した。
「一度……母に、休みたいと言ったことがあるんです。剣も勉強も、一日でいいから全部忘れて、家族でピクニックに行ってみたかった。――母は半狂乱になりました。お前のために何もかも揃えてやったというのに、親心を踏みにじるのかと、泣いていました。だからおれはそれ以来、休みたいと口にしたことは一度もありません」
厳しい教師から褒められた時だけ、親族から将来有望な若君だと称賛された時だけ、両親もオーギュストを誇らしげに眺めた。その時は確かに喜びを感じられたが、また翌日には、終わりなき努力を強いられる日々が続いていった。
「息が……吸っても吸っても、足りないようでした。何もかもが、虚しくて……」
硬質な声が、わずかに震えていた。
魔法瓶からアールグレイを注いで手渡すと、「ありがとうございます……」と掠れる声で述べ、ぐいっと飲み干す。
長く息を吐き、深い緑の瞳で、こんもりとした毛布を優しく見やった。
「……満たされた気持ちになれたのは、弟といる時だけでした。おれのことを純粋に慕って、心配してくれたのは、こいつだけだった」
闇の中の焚火のような、まぶしい眼差しだと思った。
「……どうして、いまはこんな感じに?」
「それは……どこまで聞いてますか?」
「夫人に女の子の服を無理やり着せられていて、オーギュストさまからは、遊びに連れて行ってもらえなかった、ってことくらい」
「ああ」
オーギュストは呆れたように笑って、ちょっとだけ眉をしかめた。
「弟がバカにされるとわかってる場所に、連れていけるはずないでしょう。これでもおれは兄なんだから」
(やっぱり、そうよね)
二人の息子が語るガブリエル夫人の姿は、かなり支配的だ。
きっとオーギュストから言ったところで、フランシスが男の子の服を与えられることはなかっただろうし、かといってドレスを着た男の子を、少年たちの集団が同じ仲間だと認めてくれるかというと、かなり厳しい。
距離を取らせる以外、守るすべはなかっただろう。
「でも、両親の目が届かない子供部屋の中では、色んな遊びをしましたよ。チェスも、ダーツも、海賊ロジャーごっこ、剣闘士ごっこも……楽しかったな。……あいつの態度が変わったのは、セレスティーネさまからの手紙が届いてからです。しばらくふさぎ込んでいたかと思えば……おれのことを、両親に媚びを売る犬だと……人からの評価が全ての人間だと、罵った」
「あら~……」
苛烈な悪罵である。
急に変わったというのであれば、そうした言葉はセレスティーネが吹き込んだものだろう。
アリアは申し訳なくて目線を落とした。
「フランは……自分がいらない子だって言っていたわ。オーギュストさまも、きっとそうなんだって思ってるの。女の子の服を着てる自分を、恥ずかしい弟だって思ってるんじゃないかって、ずっと気に病んできたみたい」
「バカな! なんてことを!」
深い緑の目が驚愕に見開かれる。
「そりゃたしかに……嬉しかったですよ。先生や両親に褒められるのは。でもそれだけで、耐えてこれたわけじゃない。おれが……おれがこれまで耐えてこれたのは、自分が折れたら次は弟だと思っていたからだ。弟をこんな目に遭わせないために、今おれがここにいるんだと思えば、どれだけ辛い訓練でも、歯を食いしばって耐えることができた。……それなのに」
オーギュストは短い髪をくしゃくしゃとかきまぜ、かがり火を見つめた。
横顔に浮かぶのは、後悔と愛。
「あいつがそんな風に悩んでいたなんて、気づいてやれなかった……! おれは、フランの、たった一人の兄なのに……! 死んでしまいたい気分だ……!」
「オーギュストさま」
「!」
アリアはオーギュストの唇に指先を当てるとほほえみ、それ以上の言葉を制した。
後ろのブランケットのかたまりに目をやる。
「フラン。起きてきたら?」
「……」
狸寝入りであることは最初からわかっていた。何せ特別製の耳だ。
時折息を詰めていたのも、喉から漏れそうな嗚咽をこらえていたのも、全て、この耳には聞こえていた。
――ズビッ。
大きく洟をすする音がして、くぐもった涙声がした。
「……兄さん」
暑いだろうに、頭からすっぽり毛布にこもったままだ。
「……なんだ」
対するオーギュストもまた、後ろに目をやることもなく、ただランタンの灯りを見つめていた。
「ぼくのこと……恥ずかしくないの? 女の服を着て、剣も振れなくて、頭もよくないよ……」
「何言ってるんだ。――自慢の弟だよ。どこに連れていったって、恥ずかしくなんかない」
あちらとこちらを向いたまま、お互いの顔を見もせずに、――しかし声はたしかに、届いていた。
ペリドットの瞳がいっぱいに泣きぬれていることも、モスグリーンの瞳がやさしく細められていることも、お互い見なくてもわかっていた。
「ごめん……」
呟いた声はとても小さかったが、兄の耳には届いた。
「いいよ」と答えた声もまた、笑い混じりの吐息のようで、ほとんど聞き取れないほど小さかった。
(よ、よかったわ~~~~)
ピカピカとまたたく星のような二人がまぶしくて、アリアは強く瞬きをしながらズッと洟をすすった。
まるで関係ないのに自分まで涙ぐんでしまっている。
「……えっ!? ア、アリア泣いてる!?」
あれだけ頑として出てこなかった頭が、鼻水の音を聞きつけると勢いよく飛び出してきた。
「なんっ……何で!? ぼくや父上にどれだけいやなことを言われても泣いたりしなかったキミが、何でいま!?」
フランシスの勢いに隠れてはいるが、オーギュストも目を見開いて驚いていた。
この少女は、先日のお茶会でもこのたびの晩餐でも、執拗に悪意を叩きつけられたというのに平然として、可憐な笑みを崩さなかったから。
アリアは、うっかり泣いたことがバレた気恥ずかしさに少し赤面しつつ、照れたように笑った。
「……なんだか、眩しかったの。わたしもあなたたちみたいな兄弟がほしかったなって思って」
「……」
頬を染めて笑う様子は見惚れるほど愛らしかったが、二人ともこの少女が義姉とどのような関係なのか、理解しているがゆえに言葉を継げなかった。
――だが、二度とない夜だった。
両親に初めて反抗した。
主家の邸の厨房から食べ物を盗んで、こんな時間まで森の中で、下町の子たちと同じ遊びを楽しんだ。
今だって、帰る気なんてちっともない。
不安で一睡もできていない両親が探しに来てくれるまで、自分たちから音を上げるつもりなどない。
昨日までであれば、絶対に信じないほどの悪童ぶりだ。
でもきっとこうしなければ、自分たちのかけ違えを正すことはできなかった。
二度とない夜だった。
この夜を贈ってくれた彼女に、何を返せるだろうか?
二つの頭が同じことを考えたその時、アリアの耳は鋭い風切音を聞いていた。
――まるで巨大な鳥が、こちらに向かっているよう。
ふと頭上を見上げると、真昼のように煌々と輝く巨大な不死鳥が、食欲に目をたぎらせて子どもたちを見下ろしていた。




