第32話 夜露の森
「おかえりー。首尾はどうだった?」
フラゴナール邸からの帰宅後。
能天気な声に迎えられたニュクスは、帽子をハンガーにかけながら顔をしかめた。
自分の目を通して大抵のことを覗いていただろうに、わざわざ聞いてくるところ、やはり性格が悪い。
(元はこんなではなかったはずだが、……どこを間違えたのだろう?)
「見ていればわかったでしょう。……醜悪な女でしたよ」
臓腑が、煮えくり返りそうだった。
ニュクスの小さな姫が、謂れのない罪で糾弾された時。
投げつけられたポシェットを受け止めようと、自分の傷を顧みることなく膝をついた時。
その女はあたかも、胸がすく光景を目にしたかのようにすがすがしい笑みを浮かべていた。
一人だけの話ではなかった。
寄子の次男も、その他の者も、みな同じだった。
子どもも大人も貴族も使用人も、その眼差しに侮蔑と愉悦を滲ませて、誰も守るもののいない幼い少女を嘲笑っていた。
醜い本性をあらわにするか、良識めかした仮面の下に隠していただけの差しかない。
(貴様らは、二十年前からまるで変わっていない)
──誇り高き魂を貶めるためなら手段を選ばない、人の皮を被った俗悪な獣ども。
「ハエの分際で、よくも賢しらな真似を……! 必ずこの手で、奈落に落としてやる……!」
「おや」
吐き捨てた罵倒を聞きつけて、ネメシスは眼鏡の奥の目を丸くして巻物から顔を上げた。
「アリアくんと出会ってから、お前もずいぶん表情豊かになってきたね」
「なっ!? ……ゴホン!」
我に返った弟はバツが悪そうに咳払いしながら、「うっとおしい勘違いはやめなさい……!」と、しかめっ面を作ってごまかした。
「いや、よく我慢できたものだと感心しているよ。あの瞬間着火型のお前がね~?」
「うるさいですよ!」
「まあ、それもそうか。手を出してしまっていたら、きっと嫌われていただろう」
「べっ……別に! そんなことは気にしていませんが……!」
冷たく聞こえるように、ツンと顔を背けて答える。
「……度を越した、お人好しです。言うに事欠いて、親告罪か尋ねるとは! あのように性根のねじ曲がった者、鞭打ちのすえ山に捨てた方が、後顧の憂いもないというのに」
「リオンダーリだからね」
金の瞳は、眩しいものがその場にあるように細められた。
「慈悲深く、裏切りも誹りも恐れぬ心ゆえ、彼らは太陽に愛された。……見果てぬほどに気高く、底抜けのお人好したる、愛しい我らが王。だからわたしたちが、無用な火の粉を払う夜の帳とならなくてはね」
「……」
実はニュクスは、庭にいる者全員に火をつけてやろうと思っていた。
変わり者の騒々しい後輩の、いつだって遠慮なく前を見ていた瞳は、耐え切れず下を向いていた。
淡い桃色に染まっていた頬からは血の気が失せ、常ならばくるくると身軽に動き回る足は、立ち上がるのも億劫だと言わんばかりに、ぺたんと地面についていた。
──もしこれで折れたなら?
好都合だ。
ニュクスが彼女に望む、平凡で幸福な道を歩ませることがたやすくなる。
だがやつらの手でという点だけは、我慢ならなかった。
もう自分たちから奪われていいものなど、何一つとしてないのだから。
ポケットの中で数式を描き、あとは歌うだけで発動するばかりにし、少年は扉を開けた。
このカラリとした陽気では、豪勢な衣装はさぞよく燃えるだろうと思われた。
しかし、朝焼けの瞳が弾かれたように自分を映した途端。
『……!』
怒りよりも強く湧き上がる感情があり、この小さな女の子を真正面から見ることすら、できなくなった。
アリアはニュクスが知る限り、一度も自分の瞳を隠そうとしたことはない。
──そのような人に、自分の黒く変えた虹彩を見られたくなかった。
(いつぶりだっただろうか……。誰かに対して、恥を覚えたのは)
フラゴナール邸には、茶会の前日から潜り込んでいた。
家長が魔術式の研究者というのは好都合で、自分の表の経歴を伝えるだけで、拍子抜けなほど簡単に招き入れてくれた。
一家は、腐敗したユスティフの貴族にしては極めて珍しく、善良な人々だった。
研究一筋のちょっと浮世離れした主人、良識のある奥方、聞き分けがよく両親を慕う娘。
だがそんなことは、暗示をかけるにあたって何の支障にもならない。
ニュクスにとっては、ユスティフの支配階級など敵にほかならないからだ。
『はじめまして、ダミアン・フラゴナール。ぼくはウィペル・ネフシュタン。……半年前からお前の邸に通い、お前の研究を手伝っています。お前はぼくに信頼を置き、邸内のどこにでも出入りしてよいと許可を与えました』
歌えない者など、魔法使いにとっては魔術式の大家も路傍の庶民も、等しく赤子である。
うつろな目で頷いたダミアンは、ニュクスが目前で指を鳴らすと、ハッと瞬きをした。
『! ……いけない、ぼーっとしていたようだ。ウィペルくん、アシュタロテ碑文の翻訳をお願いできるかい? 写しが今朝届いてね、来月の学会で使おうと思ってるんだ』
『はい、教授』
フラゴナール邸への潜入は、このようにしてたやすく行われた。
彼らが善人であるということは承知していたので、後遺症が残らないような施術はしていたが、暗示にかけるということ自体、人の尊厳を奪うことである。
(……絶対に、怒るだろうな)
よし、黙っていよう。
コーヒーを淹れて一息つきながら、ニュクスは頷いた。
「リオンダーリの今代の王は、許しの君主のようだ。いささか最後の姫としては優しすぎるが……人を把握する能力、恩人であっても一歩も引かない果敢さ、何より、いかに周囲に馬鹿にされようとも揺らがない自尊心。少し優先順位を教え込めばきっと、千年の歴史にも稀な優れた王になってみせるだろう」
「くだらないことばかり言っていると舌を抜きますよ」
ネメシスの夢物語に冷たい返事を投げながらも、ニュクスはかの少女が見せた眩しい熱を、思い返さずにいられなかった。
『悪評があっても、……それが死ぬまで拭えずに蔑まれても、人は生きていけます。毎日の小さな幸せを数え、誇りを持って生きることは、誰にも奪ったりできないもの』
それは彼女が、これまで悪罵を受けても立ち続けていたことの証左だった。
母と二人、幼い時分に失ってからはたった一人。
(あの子は……そのように、生きてきた。誰も守らずとも、否定され続けても、ずっと)
陽光のような熱が眩しくて、目が潰れそうだった。
──あの国では、いつだって肌が焦げるほどに日差しが強く、どこにいても潮の匂いが鼻腔を満たしていた。
(きっと……彼らも、同じように赤い目で生きただろう。虹彩を変じる歌を知っていたとしても、この色を露わにすることで、どれだけの困苦が待ち受けていようとも)
出し抜けの羞恥に炙られた胸は、冷え切った体に熱い血潮を巡らせ、倦み疲れた少年に忘れていたことを思い出させていた。
たしかに知っていたはずの誇りを、いつの間にか置き去りにしてしまっていたのだということを。
「……そろそろ時間だ。迎えに行ってきます」
「いってら~」
どこか沈んだ様子の弟を見送って、ネメシスは首を傾げた。
いずれにせよいい傾向である。
あまりに大きい絶望を呑み込んで以来、この孤独な少年は長いこと、怒りも悲しみも表情に出すことはなかった。
音のない室内に、時計の秒針の音だけが響いていた。
──バタバタバタッ
「こんばんは師匠!」
「いらっしゃいアリアくん」
この小さな少女が現れると、とたんに地の露の家は賑やかになる。
授業で使う羊皮紙を広げながらふと目を上げると、いつもならさっさと定位置のスツールに腰かけるニュクスがいまだ戸口に佇んだまま、口元を押さえて、あらぬほうに視線を向けていた。
(……ん?)
よくよく目を凝らした賢者は、両目の黄金をまたたかせた。
「……ニュクス、なにかいいことがあった?」
「は?」
一瞬にして不機嫌そうな表情にかき消されてしまったが──たしかに少年の口元には、隠しきれない笑みが浮かんでいた。
「……」
ネメシスは努めて冷静さを装って、インク壺と書物を引っ張り出した。
ここでつつくことはしない。証拠隠滅されたら、掘り返すのが面倒だ。
授業の準備をしているフリをしながら、魔法陣の近くに設置しているヒキガエル型監視装置に、こっそりと視点を切り替える。
(ほんの少し前には落ち込んでいたのに帰ってきたら元気になっているなんて、全くニュクスらしくない。……ふっふっふ、面白い。十中八九、我が弟子の陽気なオーラに当てられたに違いない。まったく、本当に人たらしな子なんだから)
ウキウキと、ちょっとだけ時間を遡ってみる。
「……ははっ」
「師匠?」
「なんでもない」
ごく小さな笑い声だったが、リオンダーリの耳は誤魔化されなかった。
同じ蛇の半身を持つ弟も聞きつけて、ページをめくろうとする指先が一瞬止まった。
何事もなかったかのように、澄ました顔で古書に目を落としている。
(これはあえて消さずに、残しておいてくれたな)
──血がつながっていなくても家族みたいだと、涙声が漏らしたのが聞こえた。
どんなに小さくても、聞き漏らしはしない。
「……ニュクスに、感謝しなくてはね。他人さまの家に出張してまで、アリアくんを助けてくれた」
その恩恵は、この身まで届いた。
「はいっ! ほんとにありがとうございました、先輩! ……でもどうして、フラゴナールさんちにいたんですか?」
「き、企業秘密です」
「よし、お礼にわたしがケーキを焼いてあげよう。ニュクス、にんじんと生姜どっちがいい?」
「わあ! 師匠、ケーキ作れるんですか!?」
「いやはじめて。でも錬金術みたいなものだろう? 簡単簡単」
「いりません! 錬成にもたまに失敗するくせに何を大口叩いてるんですか! さっさと授業を始めたらどうです! この子の寝る時間に障りがあるでしょうがッ」
長い長い回り道を、夜露の森が聞いていた。




