第31話 星々の下で
「はあぁあ~~~……疲れた。頭がガンガンするわ……」
「奥さま、頭痛薬を」
さて、フラゴナール邸から国境伯邸までの帰り道、四輪馬車でのことである。
二人がけの座席にエミリエンヌがぐでっと横たわり、アリアとカトリーヌは隣り合って座っていた。
(お母さまにとっては、久しぶりの外出になるものね……)
他家の前では傲然としたふるまいを崩さなかったが、実際は疲労困憊のようであった。
「まったく……あの子があんなことを仕出かすなんて。修道院にでもしばらく入れておこうかしら? しつけ直してもらいたいものだわ」
「お母さま……」
アリアは、表情だけは気づかわしげに、エミリエンヌを眺めた。
「そもそもしつけらしいこと、されていましたか? 少なくともわたしが来てからは見ていませんが……」
「……」
エミリエンヌが据わった目で睨み――反論は特にないらしい――、カトリーヌも「ア、アリアお嬢さま……。怖いもの知らず過ぎるわ……」と呆れた声で頭を抑えた。
「まあ、カトリーヌから聞いてはいたけれど、あそこまで本気であなたを潰そうとしているとは思わなかったわ。いったい、何がそこまで不満なのかしら? ちゃんとお小遣いも渡しているし、ドレスもアクセサリーも惜しみなく与えているというのに」
「ええ~……」
フレデリクと同レベルの認識である。
この夫婦、実の娘に対して人間らしい愛情を見せたことがあるのだろうか。
「ちゃんとハグとかキス、していますか? おしゃべりに付き合ったり、好きなものを教え合ったりとか……」
「時間の無駄としか思えないわ」
「……」
バッサリ切り捨てるさまに絶望しかけたが、ふとエメラルドの瞳がなにかに気づいたように瞬いた。
「……いえ、昔はしていたわね。変な侍従が来るよりも前――あの怪我より前には、もっと色んな話をしていた。生意気でわがままで、おしゃべりな娘だったわ」
「怪我?」
「二年くらい前だったわね。別荘で、セレスが階段から落ちたことがあったのよ。三日間目を覚まさなくて、起きたと思ったら急に性格が変わっていたの。今みたいな、何を考えているのかわからない性格にね。それまでは何かあればわたくしの後をついて回っていたというのに、途端に母親に興味を失ったみたい」
(事故で……急に性格が?)
眉根を寄せて考え込んだアリアに、カトリーヌも「わたしも覚えています。奥さまにそっくりの性格でしたわ」と頷いた。
「そりゃお小さかったから、奥さまよりは元気がよろしかったですけれど、その日のドレスやおやつがお気に召さない時の不機嫌さときたら……ふくふくのおみ足を組んで、ツンと顔をそらして『お前、今すぐ新しいのを持ってこないとクビよ!』ってお怒りになるご様子! 奥さまの子だわと感慨深かったですわ」
「カトリーヌ? もしかしてケンカを売っていて?」
「わたし、お母さまの小さい頃のお話、聞いてみたいです!」
「ええ、いいですわよ。まず弟君のギルベルトさまがいたずらでエミリーさまの枕元にバッタを置いたことがあったのだけれど」
「うんうん」
「その時のエミリーさまの報復ときたら、もうすっごくて……! 厨房の包丁を手に持って、泣きわめくギルベルトさまを追いかけてお屋敷中を走る走る!」
「わあ~!」
「仕方がなかったのよ。手近にちょうどよい棒も鞭も見当たらなかったんだもの」
「ご近所中にギルベルトさまの泣き声が響き渡って……おかげでギルベルトさまはルフトシェン家の泣き妖怪、エミリーさまは牛刀の乙女という不名誉なあだ名がついたものですわ」
「本当に失礼な話よ。二度とあの馬鹿が舐めた真似をしないように、姉として徹底的に叩き潰しただけだというのに」
「素敵です! お母さま!」
三者三様に気の強い女たちを乗せた馬車は市街を横切り、緑陰の木立を抜けると、まもなく国境伯邸へ帰り着いた。
何かしら報復があるかと身構えていたが、就寝の時間になってもセレスティーネとリクハルトから接触されることはなかった。
「導け 地の露へ」
ネメシスから教えを受けても、いまだアリアの耳にはエリュシオンの調べが届くことはなく、相変わらず移動には魔術式を使っていた。
調べを聞き取るのは、魔法使いにとって初歩中の初歩。
(そんなこともできないわたしにはきっと、王家の音寵とかいう力はないわ)
ネメシスもニュクスも、何一つ急かすことなく辛抱強く授業に付き合ってくれている。
(けど、……こんなのが王家の末裔なのかって、ほんとは失望してるんじゃないかしら……)
アリアは言葉に出せない不安を、じっと抱えていた。
母を知る兄弟。
亡き母と同じ色をしたぬくもりを、この世界で唯一アリアに注いでくれる二人。
(あの人たちはたしかに……お母さんの忘れ形見のわたしを、かわいがってくれているわ。それでも……このまま成果を上げることができなければ、きっと見捨てられてしまうでしょうね)
見返りを求めない愛情など、みなしごの生きる世界に、存在するはずがないのだから。
もう慣れたはずの事実をいつもどおり言い聞かせただけだというのに、がらんどうになったサフランイエローの扉の館を想像すると、胸のなかを冷たい風が吹き抜けていくようだった。
夜露に濡れた夏草の中に降り立つと、今日も手元に灯りをともして本を読む人影があった。
「先輩!」
アリアの姿を認めたニュクスは本を閉じ、「行きますよ」と歩き出した。
「あのっ! 今日はありがとうございました!」
「いえ。……手当はしたんですか?」
「へ?」
「足ですよ。ポシェットを拾おうとした時、擦りむいていたでしょう」
すっかり忘れていたという顔の後輩に、少年は呆れたような息を吐くと膝をついて、短杖の先の灯りでネグリジェの裾から伸びた足を検分し始めた。
そこに至るまでに、何のためらいもない。
「……あの~先輩。わたしがレディだってこと忘れていませんか?」
「レディは持ち物を受け止めようと地面に滑り込まないものです。……瘡蓋になっているじゃないですか。どうして、あんなことをしたんです」
不機嫌そうに見上げられ――虹彩はいつものロードライトに戻っていた――、アリアは「だ、だって……」と少し、口ごもった。
「……プランケットのお母さまが、買ってくれたものだったんです。も、もちろん! ちょっとくらい汚れてもメラニーたちが綺麗にしてくれたはずだって、わかってるけど……! ……ありがたかったの、すごく。だから、大事にしたかったんです」
「……」
ニュクスの眉間にさらに深い皺が刻まれて、逡巡するように、わずかな間だけ目線が地に落ちた。
「……きみがいた孤児院のある町には、強い守りの魔法がかけられていました」
――この魔法使いから『きみ』と呼ばれるのは、初めてのことだった。
「ブランシュという町が、ユスティティアさまと暮らしたというベツィルクから遠く離れていたので、不思議に思って調べに行ったんです。幾重にも重ねられた、守護の魔法の名残がありました」
「……それ、お母さんが?」
「そうです。しかし保って一年ほどの、時間制限付きの魔法でした。……あの方も限界だったのでしょう」
胸の奥に、懐かしい痛みとぬくもりが湧き出てきた。
鼻の奥がツンとなったアリアは、強くまばたきをして熱くなった目をごまかした。
「プランケットとユスティティアさまの間に約束が交わされ、フレデリク・プランケットが迎えに行くことが予め決まっていた可能性もあります。しかし、プランケット邸には守護の魔法はかかっていない。ただ人間の権力が邸を守るだけだ。我々がいれば、きみの安全は保証される。少なくとも立場を勘違いしたユスティフのクソガキに危害を加えられることはありません。――共に住むため、いつでも身一つで来ていいんですよ、アリア」
夜闇の迫る夕刻の瞳は、どこまでも優しくアリアを映しこんでいた。
(どうして……)
この人は、こんなに心を砕いてくれるのだろう。
何も返せていないのに、ずっと見ていてくれるのだろう。
「……先輩って、もしかしてわたしのお兄さんだったりしますか?」
「……」
突拍子もない問いかけ。
ニュクスは一瞬固まったのち、──実に珍しいことに、「……ふはっ!」と声を漏らして笑った。
「わ、笑ってる……! ということは、違うのね……。たしかに、全然似てないものね……」
「ふっ、ふふ……! ──落ち込まないで、アリア」
あからさまに肩を落とした後輩とは裏腹に、少年の乏しい表情筋は、この上なく嬉しそうな笑みを滲ませていた。
アリアのふっくらとした頬に、歳の割に大きな手が、そっと触れる。
「血の繋がりなど、些末なことに過ぎません。きみはぼくにとって……代わりの効かない宝です。全てを失ったぼくに最後、たった一つだけ残された輝くもの」
「……へっ!?」
予想だにしていなかった大きすぎる愛を教えられて、思わずアリアは顔を真っ赤にした。
一方のニュクスはどこ吹く風で、眩しそうな笑みを残したまま、膝小僧の傷痕に左手をかざした。
「大いなる医師よ
薬師の蛇の主人よ
紡ぎ合わせよ
戻らぬ光が 時の隙間に
漏れてしまう前に」
夕方に吹き抜ける優しい風に似た、穏やかな歌。
左手が外されると、小さな瘡蓋は跡形もなく消えていた。
(初めて見た……。先輩が、魔法を使ってるところ)
眼鏡の奥の目が、再びアリアを映し込む。
杖先の灯りが赤紫の宝石に映り込んで、まるでかがり火のように瞬いていた。
「一つだけ……きみに、知っておいてほしいことがあります」
端正な顔に浮かぶのは、めったに見せることのない柔らかな笑み。
愛情と誇りが、雄弁に滲む双眸。
「きみが生まれたときから、ぼくがきみを守ることは決まっていました。しかしそれは与えられた義務ではない。ぼくの意思だ」
「……!」
まっすぐで揺るがない眼差しは、母がくれた日々とそっくりの、眩い輝きをしている。
遠く隔たれてしまってもいまなおアリアを引っ張り上げてしゃんと立たせてくれている、黄金の盤石な縄。
「ど、ど、どうして……」
「ふふっ……どうしてでしょうね? 運命の三女神の思し召しは、人間の思案の範囲外です。ただぼくは、きみを見つけた瞬間に自分の運命を悟り、喜んで受け取った。そしてその意思を、生涯捨てるつもりはない。それだけのこと」
「……」
じわじわと、瞳に熱が上ってきた。
胸が日差しでできた縄で締め付けられているように苦しく、心地よかった。
小さな腕が伸ばされる。
アリアは膝をついたままのニュクスに、思いっきり抱きついた。
「! ……えっ!? う、あ……!?」
「先輩……ありがとう」
紅紫の瞳はこれ以上ないほどに見開かれ、耳まで朱くなりガチガチに硬直したが、──少女の涙声を聞くと、少年はぎこちない動きで遠慮がちに、ぽん……ぽん……と背中を叩いた。
「わたし……これまで生きてきて、こんな風にだれかに助けてもらったこと、はじめてだったの」
「……はい」
「血がつながっていなくても……なんだか、家族みたいだわ。……おかしいかしら?」
「ふふっ、いいえ。……いいえ、アリア」
あやすように背中を叩く手と小さな笑い声が、優しく鼓膜をくすぐる。
「それを聞いたら、ネメシスも喜ぶでしょう。今回だって、彼が行こうとするのを止めるのに骨が折れたんですから」
「……ぐすっ。もう、二人とも過保護なんだから」
金の瞳を思い出すと、――ハッキリ聞いてしまいたいような、否定されるのが怖いから聞きたくないような、複雑な気持ちが胸に湧く。
いずれにせよこの風変りな兄弟が、父にも、兄にも似た眼差しで自分を見ていてくれていることだけは、確かだった。
(充分。今はこれで、充分幸せ。……いつか、心が決まったら)
ニュクスのボルテージ、さらに上げときました!(2023/4/24改稿)




