第29話 お茶会でのひと騒動(3)ー水鏡の儀ー
眼鏡の奥の鋭い瞳は、普段の紅紫色ではなく髪色と同色の黒に色を変えていたが、間違えようもない。
地の露の先輩──ニュクス・ピュティアは、なぜかフラゴナール邸の屋内から姿を現わすと、大きな水盤と本を手に、何者なのか見つめる子どもたちを興味もなさそうに睥睨した。
(なっ……な、な、何でいるの!? たしかに住所は教えたけれども……! フ、フラゴナールさんちの中にまで、どうやって入り込んだの!?)
アリアは妖怪でも見るような目で、ニュクスを凝視した。
セレスティーネは頭から爪先までジロジロと検分し、「……どなた?」と品よく小首をかしげた。
エルヴェ・フォートレルやフランシスのような華々しい美形ではないが、ニュクスもまた、端正で怜悧な美貌をしている。
「……」
問いかけられた黒ずくめの少年は、──しかし国境伯家長女の問いを、平然と素通りした。
視線を投げることすらせず、テーブルの上を片付け始める。
セレスティーネの眉がしかめられ、リクハルトが噛みつくように吠えた。
「おい貴様! セレスさまのお声が聞こえないのか!?」
「まあネフシュタンさま! 御手が汚れますわ、メイドが片付けますので」
クリステルが素早くメイドに目配せをすると、たちまちティーパーティーのお菓子が広がられていた一卓が片付けられ、ニュクスの手により空の水盤が置かれた。
「こいつ、耳が聞こえないのか!?」
「なんて失礼な! 口を慎みなさい! この方は父の研究を手伝ってくださっている、ウィペル・ネフシュタンさまですのよ! お名前を聞いたことはありませんの? 弱冠十一歳にして反射式フラクタル術式の論文を著した、天才魔術師ですのに!」
ウィペル・ネフシュタン。
どうもニュクスはそのような偽名を名乗り、少なくも数日前からフラゴナール邸に入り込んでいたらしい。
どのような手を使ってか、高名なフラゴナール教授に近づいて、堂々と中庭に出入りできる立場を手に入れている。
全てはただ、たった一度のお茶会のため。
あるかないかわからないひと騒動を、アリアが万が一にも切り抜けられないことがないよう、万策を弄したのだ。
(おっ、おっ、おっ……おバカさんじゃないの!?)
アリアは、愕然と震えた。
(だって、だって……頼んでいないわ! いつものお月謝だって払ってないのに……わたし、何も返せていないのに! こんなお人好しの人、はじめて見たわ!)
どう受け止めたらいいのか、わからなかった。
助けというのは、必死に愛想を振りまいて日頃から恩を打って、何とか振り絞った見返りを提示して、やっと与えられるもの。
それが正しいかは置いておいて、親のいないアリアはそのように心得て生きてきた。
こちらから求めてすらいないのに、差し伸べられる手があること。
自分にそんな贅沢が与えられたことを飲み込みきれないまま、ただ鼻の奥がツンとして、アリアは洟をすすった。
胸の奥でお湯でも沸いたように、熱かった。
「薔薇のアーチの下で、と言いましたね」
「……あっはい」
横顔を向けたままの問いに、アリアは玄関ポーチを振り向いた。
「あのピンク色の薔薇のアーチの下です。お母さまがフラゴナール夫人とお屋敷に入られて、わたしとお姉さまとリクハルトだけになった時のことでした」
「お前のお母さまじゃないだろ! 口を慎め! ……ヒッ!?」
フランシスの威嚇に、ぞっとするような冷たい一瞥を投げつけると、ニュクスは「クリステル令嬢」と呼びかけた。
「あの薔薇を一輪つむことを、お許しいただけますか」
「……許します。お母さまも、真実を知るためならよろこんで手折るはずですわ」
クリステルの空色の瞳は困惑の色を浮かべてはいたが、アリアとセレスティーネを見比べて頷いた。
ニュクスは短杖を取り出すと、かすかに振るった。
「カルペ・ローザ」
最も下を向いていた重たげな薔薇の花がポトリと外れ、瞬く間にニュクスの手の中に収まった。
フレデリクが術式を発動した時とは全く違う。
ただ一言唱えるだけの、まさしく魔法と呼ぶにふさわしい技に、子どもたちの間から感嘆の吐息が上がった。
「これは古い儀式で、水鏡の儀と呼ばれます。古代エレウシス朝期、容疑者が容疑を否認した際に用いられました。現場の物品の記憶を読み取って水に映し出す、極めて公平性の高い魔術……。しかし、それを可能にするためには裁判官への厳しい制約、術式実行者の高い技量を要するがゆえ、時代が下るにつれて廃れていきました」
ニュクスがゆるく杖を振るうと、空の水盤に澄んだ水がこんこんと湧き出してきた。
詳細を耳にしたセレスティーネの顔色が変わり、氷色の瞳に焦りが滲んだ。
「ダ、ダメよ! 絶対にいけないわ! 子どもだけでそんな儀式なんて……きっと怒られますわ! わ、わたくしのことはいいのよ。もういつものことですし、慣れたもの……!」
「では大人がいれば問題ないかね?」
低く、優しげな声。
ゆったりと歩いてくる壮年の男性に、クリステルが「お父さま……!」と驚いたように呟いた。
「ウィペルくん、どこにいるかと思えば。きみがこんな華やかな場に混ざるとは思わなかったよ」
「窃盗の嫌疑が聞こえたので。なかなかないでしょう、水鏡を試す機会なんて」
「ずるいぞ。そういう時は私を呼んでくれなくては」
「教授のことはいつお呼びしようかと思っていましたよ。儀式には裁判官が必要ですから」
夫の姿を認めて、四阿からソランジュ夫人も足早にやってきた。
「まあまああなた! 出ていらっしゃるなんて思いませんでしたわ。どうなさったの?」
他の貴婦人たちも怪訝そうな顔でこちらに注目している。
数人が席を立ち、エミリエンヌも億劫そうに、首を巡らせてこちらを見ていた。
「古式ゆかしい魔術の儀式をやるんだよ。そちらのお嬢さんに窃盗の嫌疑がかけられていてね」
「まあ……」
教授はニュクスに詳細を聞くまでもなく、自分の庭で起きた騒動の内容を把握していた。
夫人にとっては、自分のお茶会で窃盗だなんて気分のいい話ではないだろうに、痛ましげに眉をひそめてアリアを見遣った。
「あ、あ、あなた何なの!? ……わたくしが嘘を言っていると言いたいの!?」
セレスティーネの詰問にもニュクスはどこ吹く風で、「それを決めるのはぼくではない。水盆が映し出す事実です」と相変わらず横顔を向けたまま、そっけなく答えた。
「では、教授」
「うん」
フラゴナール教授は一歩水盆に近づき、自らの額に当てた短杖を水面に向けた。
「これよりエレウシスの水鏡が映し出す過去は、一切の偽証なく真実であること、全ての真実であること、真実のみを語ることを、裁きの女神アストライアに誓う」
風もないのに、水面に波紋が広がる。
ニュクスは杖先で薔薇を沈め、乾いた砂地を渡る風のような声で命じた。
「物語れ ありのままの真実を」
「──やめなさいと言っているのよ!」
金切り声に近いセレスティーネの制止をよそに、水盤には紫の煙がたなびきはじめ、やがて初夏の庭の風景と数人の人影を形作り始めた。
──場面は、エミリエンヌとソランジュが示し合わせて、屋敷の中に消えたところから始まった。
侍従に持たせたハンドバッグからバレッタを取り出し、「あげるわ。いらないから」と言ってアリアに渡すセレスティーネの姿。
二つ結びを跳ねさせて頭を下げ、お礼を言うアリアの姿。
そのまま、いつまでも頭を下げている小さな背中をしばらく映したのち、強い風に吹かれでもしたように、水面下の紫煙は掻き消えていった。
「……」
水盆の映し出した光景は、その場にいる人間から語るべき言葉を奪い去ってしまったようだった。
「……裁判官、いかがでしたか」
「うん」
ニュクスの問いにフラゴナール教授が頷いたところで、「嘘よ!」と甲高い叫び声が上がった。
「全部ッ全部嘘よ! この魔術自体がまやかしよ! わたくしは義妹に虐げられているのよ……!? 誰が見ても、わかるでしょう!? 汚い庶民育ちで、しかも赤い目を持っているのに……! ──アリア・プランケット! 屋敷の中だけじゃなくてよその人まで言いなりにさせるなんて! 殿方と見れば誰でもいいのね! 汚らわしい……!」
「ふむ」
フラゴナール教授の目がおかしそうに──やや嗜虐的に、細められた。
「まやかし、言いなり……。ふふ。もしそうであれば、ぼくの身体はアストライアの裁きの剣によって今ごろ真っ二つになっているはずだよ」
「!」
ソランジュ夫人が真っ青になり、クリステルが「お父さま!?」と悲鳴をあげた。
「当然だろう? 裁判とはいかなる小さなものであれ、虚偽、誤謬があってはならない。あはは、心配は不要だよソランジュ。ぼくはウィペルくんを信用しているからね」
「……だから、この儀式は廃れたのです」
水盆を片付けながら、ニュクスが目で再度問いかけると、フラゴナール教授は頷いた。
「髪飾りはセレスティーネ・プランケットにより、アリア・プランケットへと譲渡されたもの。よって、窃盗の罪には当たらない。──被告人を無罪とする」
一応の設定として、魔術式はラテン語、魔法は古代ギリシャ語を借用しています。
格変化などはちゃめちゃですので、お気づきの点がございましたらご教授いただけますと幸いです。
自転車操業のため見切り発車で投稿しています。




