第26話 お茶会に行こう
地の露での授業は、毎夜行われた。
睡眠不足はよくないとニュクスは渋ったが――すでに何度か間違えてお母さんと呼びそうになった。それくらい世話焼きである――貴族のお嬢さまのタイムスケジュールではもともと体力が余っていたアリアのこと。
多少夜更かしをしても、昼下がりに半刻昼寝をすれば百パーセントチャージされた。
半泣きのアリアを見かねたニュクスによる発音記号の手解きのもと、四晩を要して古代イリオン語の発音は何とか覚えることができた。
ネメシスからは、歌の呼吸や発声の方法を教えられている最中だ。
「違う、違う! まだ喉が開いているよ。それじゃオペラだ」
「ぐぬぬう……!」
授業は、うまくいくことばかりではなかった。
特に魔法を歌う声の出し方は、それまでアリアが慣れ親しんできた歌の発声とは全く違っていて、喉を閉じようとすれば思うように声が出ず、うまく歌おうとすれば開いてしまい、師匠の歌とは到底似ても似つかなかった。
ここでも半泣きだった。
「どうして!? このわたしが歌えなかった歌なんてないのに!」
練習で熱を持った喉にネメシスが淹れてくれた冷たいお茶を流し込みながら、アリアはテーブルに突っ伏した。
「ほら、飴も舐めなさい。庭で採れたミントの飴だよ」
「うぐぅっ、ぐすっ、ふぐう……! お、おいしいですぅ……!」
思うように歌えないことがこんなに悔しいなんて初めて知った。
自分は歌に対して、思ったより高いプライドを持っていたらしい。
発声と同時進行で、エリュシオンの調べを聴き取る訓練も行われた。
これは「何が正解かわからないんだけどね」とネメシス自身も迷っていたが、ひとまずは師の歌を注意深く聴くことで、アリアの耳も調べを掴み取れるか試行することになった。
――賢者が歌い出すと、金色の巨大な魔法陣が広がった。
大きな手が開いた本が輝き、風もないのにページがめくれて燐光のような蝶が無数に飛び立っていく。
蝶は天井の梁に止まると砕け散り、小さな流星となって落ちていった。
床の代わりにインクのような夜の海が広がり、潮の匂いが鼻腔に満ち、海水が足首にかかってアリアは慌てて椅子の上に足を乗せた。
ニュクスもスツールの上で膝を抱え、迷惑そうに眉を寄せて本を読んでいた。
いつの間やら頭上からは天井も消え失せ、深い濃紺の夜空には、見たこともないほどの星が瞬いている。
この超常を可能にしているのが、海の彼方から流れてくる調べだという。
ネメシスの歌が、遠い調べと調和を奏でることで為されている。
「……う~~~ん。……ううう~~~~~ん……」
「あはっ、まだ聞こえない?」
「はい……」
「精進、精進」
寄せては返す波の中、金の瞳がほがらかに細められた。
ネメシスはガン決まりの目に反して、とても辛抱強く優しい先生だったし、ニュクスは片時も書物を離さないが、いつもアリアの授業に同席してくれた。
この風変りな同胞の兄弟に、お小遣いを工面して授業の謝礼を渡そうとしても、異口同音に「いらない」と断られてしまった。
ネメシスからはものすごく手加減したデコピンまでついてきたので、アリアは全く痛くないおでこを一応押さえつつ反論した。
「そりゃ、正当な対価というにはとうてい足りないでしょうけど……! わたしにだって筋というものがあるんです。ちょっとくらい受け取ってくれたっていいじゃないですか!」
「まったく、あの方からどうやってこんな子が生まれたんだろうね?」
ネメシスは、弟子の頬をむぎゅっと挟みながら不思議そうに首を傾げた。
手が大きいので片手である。
「ひひょう~!」
「あはははは! もっちもちだ!」
「ネメシス……」
さすがにニュクスも本から顔を上げたが、彼もこのにぎやかな後輩をレディ扱いするわけではないため、ただ呆れた視線を送っただけだった。
国境伯夫人エミリエンヌよりお茶会に行くことを告げられたのは、そんな日々のさなかだった。
「場所は?」
「友だちができるといいね」
相変わらずやや不機嫌そうなニュクスと、いつも楽しそうなネメシスからはそれぞれの反応が返ってきた。
「場所はフラゴナール邸。グウェナエル市、オードール区メルセポニー通りの十五番。主催者はフラゴナール伯爵夫人で、エミリエンヌ国境伯夫人とは学生時代のご学友だったそう。……ちなみに出席者全員の名前と爵位と家族構成と評判も覚えてますけど、情報いります?」
「よ、よくそんなもの覚えられますね」
「先輩にだけは言われたくないです」
ニュクスからは不気味なものを見る目で見られたが、どれほど分厚く難解であっても読んだ書物は何もかも覚えてしまうこの少年に、そんな目で見られる筋合いはない。
「あなたのその……義理の姉とやらも来るんですか?」
言葉にも目つきにも、敵意をまるで隠そうともしていない。
セレスティーネとのあれやこれやを話したことは一度もないが、どうもプランケット邸内部のことは彼らには筒抜けのようであった。
二人とも口にはしていないが、プランケット自体に対して敵意があるらしいことも、アリアは薄々気がついている。
「お姉さま? たぶん」
「……」
ニュクスは丁寧な手つきで本を閉じると、足元の木箱から何やらゴソゴソと取り出した。
「これをどうぞ」
それは、小さな木彫りの人形だった。
作り手の温かみすら伝わるような素朴な作りだが、全体的に煤とも血ともつかない汚れがついている上、特に目と口の周りは黒ずんで虚無の穴のようで、オオオオ……と謎の圧を発している。
正直、絶対に受け取りたくないレベルに気味が悪い。
(!? なっ何コレ!? 呪いの人形!?)
アリアは伸ばした手を反射的に引っ込めた。
人からの好意は何でもありがたく頂戴し、三倍返しするこの少女にしては、極めて珍しいことである。
「最近解呪したものの副産物ですが、一度だけならあらゆる外傷を防ぐことができます。殺意を込めた刺突とか時限式の爆弾とか、何でも。念のため、持ってお行きなさい」
「あの、わたしが行くのはお茶会ですよ? 戦地って聞こえました?」
「あはは! ニュクスは心配性だからね。さて、アリアくん。ここにお立ち」
「? はい」
楽しげに笑い声を上げたネメシスに手招きされるまま、安楽椅子に腰掛ける師の目の前に立つ。
「わたしからは簡単なおまじないをかけてあげるよ。貴族に引き取られたかわいい弟子の、初めての社交界デビューだからね」
「!」
(もしかして、お友だちができるおまじない……!? さすが師匠! わたしがほしいもの、こんなによくわかってくれて……!)
「呪詛が八倍になって呪った者に返る守護だよ」
「やめてくださいなんてものかけようとするんですか!?」
アリアは反復横跳びで慌ててネメシスの魔法を避けた。
そんなものをかけられたら、「お前の母ちゃんデーベーソ!」とでも言われた日には、無関係の見知らぬ母親のヘソが巨大化してしまう。気の毒すぎる。
(こ、この人たち……お茶会を何だと思っているのかしら……!? 貴族のご婦人とその子どもが集まって、茶をしばくだけの場なのに……!)
だが、アリアにとってもまた、義理の家族以外の貴族と出会う初めての場であることは確かだった。
(大丈夫。大丈夫。ジャクリーヌ先生だって太鼓判を押してくれた。――きっと、うまくやれるわ)
拭いきれない不安を抱えながらも、予定の日は近づいてきていた。
++++++++
「――完ッ璧です! もうどこからどう見ても天使! これはもう完全にお花の妖精!」
「はあ~いい仕事したわ~」
早めの昼食を済ませ、身支度にたっぷり二時間。
メラニーの他、数人のメイドが気合を入れてアリアを飾り付けてくれた結果。
鏡の前には、目が潰れんばかりの美少女がいた。
エミリエンヌが用意したのは、白いレース地に紫と淡い黄色の小花が刺繍されたデイドレス。
色味だけなら初夏らしく爽やかだが、レースとフリルがたっぷり施されており、おそろいのボンネもまた、これでもかとレースに縁取られている。
ふだんはまっすぐなプラチナブロンドはドレスに負けないようふわふわと巻かれた上で、愛くるしく左右にアップされ、レースのリボンが結ばれていた。
(な、生クリームの妖精……!?)
「……す、すごい気合が入ってるのね」
「当たり前じゃないですかお嬢さま!」
いそいそとショートグローブをはめながら――当然これもレースにリボンである――メラニーがキッと見上げてきた。
彼女の大きな猫目にこう近くで睨まれると、圧が強い。
「今日はお嬢さまのお披露目の日! まあ当然? 着飾らなくてもどのお家のご令嬢より可愛いですけども? 見てください、この金のかかった衣装を! これでプランケットのお家がお嬢さまを大事にしてるって見せつけるんですよ!」
「なめてかかったやつらを、逆に金と権力でびびらせてやるって寸法です!」
「ミシェル、口調。家政婦長に言い付けるわよ」
テキパキと靴を並べながらサラにたしなめられ、ミシェルは震え上がった。
(ミセスマルゴ、メイドにそんなに厳しいのかしら……)
「ねーえ、バッグはどれがいいと思う?」
「えっ、これ……全部奥さまの趣味? か、かわいらしいものばかりね……」
アンナがクローゼットから出してきた色とりどりの小さなポシェットを見て、サラの顔が引き攣った。
彼女にとっては、すでに糖分過多な状態に、さらに上からシロップをかけるようなものなのだろう。
だが、お口をさっぱりさせるような小物が一つでも揃えられていると思ったら大間違いである。
何せ自分が着たいかわいいものが似合わなかったエミリエンヌの積年の恨みを、シプリアンにぶつけてアリアで晴らそうとした結果である。
ならば存分に晴らしてもらいたいと思うのが、義娘心というものだ。
「……その一番右の、ちょうちょのポシェットをよこしてくれる?」
「おっお嬢さま……!」
サラが信じられないものを見る目でおののいたが、アリアは歴戦の猛者の面構えでパステルイエローのちょうちょを肩から下げた。
「かわいいですお嬢さま!」
「早く奥さまに見せに行きましょう!」
「待って待って、靴もパステルカラーにしましょうよ。――ねっほら! かわいい!」
ついでにさらに甘さを足されたが、ことここに至っては些事である。
(というか八歳児だし、多少アホみたいにフリフリでも百人中百人が大目に見るわ)とアリアは冷静に考えていた。
玄関ホールで待ち構えていた国境伯夫人エミリエンヌは、現われた生クリームの妖精を見て、胸を抑えて身体を折り曲げた。
「ウッ……!」
「お母さま!?」
「いい仕事するじゃない、あの熊男……!」
ジャクリーヌ先生みたいな理由で苦しんでいただけだった。




