第25話 十四夜の授業
「それじゃあよい夢を! お嬢さま」
額にキスを落としてくれたメラニーが扉を閉め、階下へ遠ざかっていく足音を聞き届けて、その晩もアリアは身を起こした。
おでこに手を当てて、しばしじっと考える。
この屋敷には、優しい人がたくさんいる。
フレデリクは得体が知れないし、セレスティーネとリクハルトはまあ全然仲良くなれてはいないが、それは置いておくとして。
ジャクリーヌ先生もメラニーも、オリヴィエ料理長も庭師のヘルマンニおじいちゃんも、みな職分以上にずっと、アリアのことを想ってくれている。
エミリエンヌとカトリーヌは相変わらずつんつんしているが、彼女たちなりにかわいがってくれていることは、伝わっていた。
でも、この気持ちをどうしたらいいのかわからなかった。
自分と同じ血が流れる人々が、自分を庇護してくれている人たちの民族に攻め滅ぼされ、獲物のように追われて死んでいった。
数日前、アリアにとびきり優しくしてくれたオーレル少将は、二十年前イリオン陥落戦で指揮を取ったという。
フレデリクがたしかに、紹介のついでに言っていた。
アリアを撫でたあの大きな手は、かつてイリオンの民を殺したのだろうか。
(同じ赤い目のはずなのに……狩られて死んでいった人たちとわたしのこの差は、なんなの?)
カーテンを開くと、十四番目の月夜だった。
真円にほど近いが少しいびつに欠けた月に照らされた、明るい夜だ。
アリアは指をパチンと鳴らして立ち上がった。
考えても答えの出ないことに時間を費やすのは、自分のやり方ではない。
ネグリジェの裾をめくって足を伸ばし、昼間、メラニーにもらったゼラニウムのアロマオイルの希釈液をスプレーする。
甘く爽やかな匂いはたちまち消え失せたが、これが虫よけになるらしい。
ふわふわの袖もまくりあげて、腕にもしっかりふりかけておく。
「先輩すっごく怒っていたから、今日は迎えに来てくれないかもしれないわね。……ちゃんとランタンも持って行こ」
昨日けっこうなひどいことを言われたが、あれはどうしてだか自分を心配しての怒りだということに、寝て起きたあたりで気がついた。
子どもの癇癪ではなかった。
自分ではない何かを守ろうとする人の、寄る辺なくも気高い焦燥。
あんな風に苛烈な、しかし心地よい怒りを浴びたのは初めてのことだった。
それも自分とそう年の変わらない少年からであることに、アリアはどう受け止めたらいいかわからないくらいには驚いていた。
アリア自身、「ほんとに子どもか?」とよく疑われるような子どもであったし、同世代どころか、何なら大人でもちょっと頼りなければ庇護対象に見えてしまうおかしな頭を持っているため――基本的には母のせいである――ニュクスから受けた、言うことを聞かないバカ娘のような扱いは、むしろちょっとこそばゆいくらいだった。
ただ、そんな扱いを受ける理由がわからないので、困惑しているだけだ。
やたら大人びて見える不思議な少年のことを思い出しつつ、ベッドサイドに置かれたランタンに火を灯す。
羊皮紙のノートと羽ペンをさくらんぼ柄のポシェットに詰めて、切符を手にした。
「導け 地の露へ」
金色の術式が広がり、(そういえば先輩の時は紫、これは金色ってことは、かけた人によって色が変わるのかしら?)と考え終わった時には、目的地に足を付けていた。
「夜に来るのはやめなさいと言ったでしょう」
「!」
急に声をかけられてびくっと振り向くと、左手に灯りのついた短杖を掲げたニュクスが、不機嫌そうな顔をして右手の本を閉じたところだった。
今日は黒縁の眼鏡をかけていて、理知的で端正な顔立ちによく似合っていた。
「まさか……待っててくれたんですか!?」
「ネメシスからまた同じ時間に来ると聞いたので。まったく。年上のいうことに従わないと、そのうち痛い目に遭いますよ」
そうは言っても、昼間に姿を消せば大騒ぎになる以上、他に来られる時間がないのだから仕方がない。
小言が始まりそうだったので、アリアは「ありがとうございます!」と満面の笑みで食い気味に礼を言って黙らせた。
「待ってる間、虫に刺されませんでした?」
「ぼくを刺す虫なんているわけないでしょう。む、ゼラニウムの匂い……ああ、虫よけですか?」
気づかれると思わなかったアリアは、自分の腕をくんくんと嗅いだ。
「そんなに匂いますか? 自分じゃわからないわ」
「鼻が利くんですよ。ぼくたちピュティアは蛇の末裔ですから。触覚、嗅覚、聴覚が発達していますが、その代わり目があまりよくない」
ニュクスは少しうっとおしげに、眼鏡のツルを指先でトントン叩いてみせた。
「ふだんはこんなものなくても問題ありませんが、本を読むときばかりは必要なんです」
そういえば昨日、巻物を読んでいたネメシスも眼鏡をかけていたことを思い出す。
(大蛇を祖先としている、ってそういうことなのね。ひょっとして冬眠もするのかしら?)
「お鼻が効くなら、虫よけはきついですか?」
「エッセンシャルオイルくらいなら平気ですよ。……ユスティフ人の香水は、耐えるのに気合いを入れねばなりませんが。肌が荒れないよう希釈しているようですし、涼しくなるまで付けてくるといいでしょう」
館までの短い道中、アリアが尋ねれば、ニュクスはこだわることなく質問に答えてくれた。
転ばないよう、杖先の明かりを長く伸ばして道を照らしながら。
(冷たそうに見せてるけど……やっぱり、細かいところに隠し切れない人の好さがにじみ出てるわ)
「こんばんは師匠!」
扉を開けて飛び込んできたアリアを、ネメシスは「ようこそ弟子よ!」と大きな笑みで迎えてくれた。
「今日もパジャマで来たんだね」
「昼用の服を着たら、夜遊びしてるのがバレちゃうじゃないですか。洗い物だって増えるし」
庶民だった頃のどんな服に比べても豪華といえど、寝巻きで出歩くなんてレディとしてどうかと自分でも思うが、背に腹は変えられない。
ネメシスは昨日と同じビーカーから金色のお茶を注ぎ、自分の椅子の前のソファーをアリアに勧めた。
ニュクスは窓辺のスツールに腰を下ろすと、手に持ったままの本を開いた。
「先輩も一緒ですか?」
「いるだけです」
「やった! よろしくお願いします!」
「……?」
早くも勝手に全幅の信頼をおいているアリアの笑みに、少年は不思議そうに瞬きをした。
ネメシスが善人かどうかは、正直まだ判断がつかない。
なにせ目が怖い。
その金眼は常にブチ切れているゆえと知ったから、なおさらである。
だがこの隈の濃い魔法使いの少年は、明らかにいい人だった。
「さて。さっそく授業を始めようか」
色とりどりのランプがきらめく中、最初の授業が始まった。
「魔法というのはまず何かというと、波のことだ。――波、波紋、波長」
ネメシスの長い指がチョークを操り、黒板に螺旋状のラインを描いた。
「そしてわたしたちが実際に使うレベルでは、歌のことを指す。エリュシオンの調べと完全に調和した歌をうたうことで、一瞬にしてエリュシオンと繋がって権能を振るう。これが魔法だ」
「……」
アリアは真面目な顔で羽ペンを持っていたが、五度ほどゆっくりまばたきをしてから、「魔法→うた」とだけ書き込んだ。
なにもわかっていない。
「はい! 師匠」
「どうぞアリアくん」
「エリュシオンってなんですか?」
「神々の楽園。至福者の島とも呼ばれるところだね。おとぎ話では海流の向こうにあると言われるが、実際には第五元素から成る天界にある」
ネメシスは何重かに重なった真円をチョークで描き、一番外側に「てんかい(うらぬす)」と注釈をつけた。
さすがに読めるので普通に書いてほしい。
「波って?」
「この世の全て。全てのものが発し、全てのものがそれによって形づくられている。波が崩れれば、世界が崩壊する」
「……」
やけに壮大な話にピンと来ていない顔を見て、ネメシスはチョークを置いた。
「じゃあ、わたしの発声にハモるように、高音を乗せてみてくれるかい?」
言うが早いか素早く腹式で息を取り込み、ハイバリトンの音域で歌い始めた。
(! ……はちゃめちゃにいい声!)
ふだん語っている時からわかっていたが、夏空のような力強い声だった。
わずかな千切れ雲すら吹き飛ばすような声。
歌声としては全く聞いたことがないもので、大気ではなく地面から揺らすような厚みがあり、盤石さに満ちていた。
それは単純なメジャー・スケールだった。
ドから始まり、ドに終わるやつである。
(ハモるって!? いい感じに調和したらいいのね!? というかありえないくらいいい声なんだけど、どうやって出してるの……!?)
アリアは一人で歌ったことしかない。戸惑いながら、よく使う和音にあたる第五倍音から声を出してみると。
(……あ)
――揺れる糸のようなものが見えた。
闇の中、白く光る細い糸が二本。
かぼそく震えていた。
これは見たことがあった。調律の狂ったピアノや竪琴を奏でた時だ。
何本もの糸が決して寄り添わず、互いを弾き返すように暴れ回る音。
そういう時は全身がぞわぞわするみたいに気持ちが悪く、調律が済まない限りは決して弾きたくなかった。
(もうちょっと……もうちょっと下に近づけて。あっ違った。これじゃわたしが手前すぎた。もっと奥、もうちょっと奥に……)
移り変わるスケールに合わせて音を変えながら、ネメシスの声に調和するように微調整をしていると、不意に、二本の糸が完璧な振動を始めた。
「!」
弾き合い暴れる糸は、螺旋を描いてどこまでも遠くに伸びていく。
完璧な調和は、心地よい雨に似ていた。
「……師匠。波、見えました」
「うん」
至極簡単な発声をしただけなのに、手がしっとりと湿って、心臓がぽかぽかした。
「これが魔法……」
「いや、違うよ?」
「えっ」
ネメシスの長い指がくいっと曲がり、本棚から一冊の分厚い本が飛んできた。
「!?」
(は、初めて魔法使いらしいところを見たわ……! 心臓が飛び出るかと思った……!)
この人ほんとに魔法が使えたんだ……と今さらすぎることを思いつつ、アリアは驚愕の目でネメシスを見上げた。
「今のは、アリアくんに波を認知してもらうためのデモンストレーション。魔法を使うには、まず魔法の言語を覚える必要があるんだ」
「魔法の言語……」
差し出されるままに本を開くと、まるで見たこともないアルファベットがずらりと並んでいた。
「イリオンの古代アルファベットは二十四文字。大文字小文字もあるからその倍か。明日までに覚えてこられるよね? 発音も一緒に」
「……」
「あ、五ページ目から初等単語の格変化が書いてあるから、それも覚えてきて」
「ほ、ほげ……」
アリアは本を抱きながら、涙目で「がんばります」と答えた。
ジャクリーヌ先生なら、こんな無茶振りは絶対にしない。
窓辺から、長い長い溜息が聞こえてきた。




