第24話 ジャクリーヌ先生
「ねえ先生。イリオンってどんな国だったか、ご存知ですか?」
いつもの午前中。
お手製のくまのぬいぐるみを膝に載せ、隣国アフラゴーラの初級単語を従順に書写していた国境伯邸の次女に愛らしくそう尋ねられ、ジャクリーヌは彼女にしては珍しく、言葉に詰まった。
「えーと、そうね。なんて説明したらいいかしら……」
罪過の国。
自らが制御しきれない怪物を目覚めさせ、一夜で滅んだ千年王国。
イリオンについての説明は、何を読んでもおよそそのようなものだった。
滅亡した時期もジャクリーヌが生まれたころのことなので詳しくは知らないが、大人たちは進んで説明しようとせず、学校の授業でも、隣国が滅びたにしては他人ごとのような説明を暗記しただけだった。
滅亡と時を同じくして、王国であったユスティフが帝国に名称を変えた。
当代の王は強い野心家で、イリオンを併合したことを理由に、自らを皇帝と称した。
以来、近隣への征服戦争を繰り返し続けている。
アリアの瞳は、赤の混じった瞳であった。
朝焼けのような、金の光冠が輝く瞳。
「……だれかになにか言われたの?」
「いいえ! ただ気になって。悪の国って言われているでしょ? ほんとにそんなに悪いことをしたのかしらと思って」
「そうね……」
本を置いて、ジャクリーヌは口元に手を当てた。
「事実は、イリオンという国がもうないということだけ。古代の怪物を復活させて大陸を乗っ取ろうとしたからというのは、誰かが書いたことに過ぎないわ。証拠があるかもしれないし、ないかもしれない。ただ、そういうことになっているの」
イリオンの衰亡にまつわる言説は、ほんの二十年前のことだというのに、先史時代のおとぎ話のようなどこか荒唐無稽な響きを持っている。
事実を愛するジャクリーヌにとって、たとえ歴史の教科書に載っていることといえど、そのまま説明するのはプライドに反した。
自分のルーツがその国にあるこの子に対してなら、なおのこと。
「……アリア。十三歳になって学園に通うようになったら、あなたの目のことで、何かひどい言葉を言ってくる人がいるかもしれないわ。でもそんな愚か者の言葉、一欠片も気にすることはないのよ。あなた自身が、自分に恥じないことをしない限り、いつだって真っ直ぐ立っていていいの。――それに先生は、あなたの桃色の目、とっても綺麗で大好きよ」
大人しく耳を傾けていたアリアのふっくらした頬が、とたんに真っ赤になった。
「ありがとうございます! わたしも、先生が大好き!」
感激したように大きな瞳をうるませて、満面の笑みでそう言われて、ジャクリーヌは「うぐうっ!」と胸を抑えた。
「だ、大丈夫ですか?」
「ええ……問題ないわ。ちょっと、煩悩が浄化されただけだから……ふう」
「……」
アリアは(……本当に浄化されているのかしら……)と日頃の彼女の様子から甚だ疑問に思ったが、口に出すのはやめておいた。
――プランケットが孤児院からみなしごを養女として引き取ると聞いた時。
ジャクリーヌは、無茶をすると思ったものだ。
大貴族の令嬢の家庭教師が、貧乏男爵家の三女に回ってきた理由はこれか、とも。
しかし予想に全く反して、これまでに会ったどの貴族の子どもも比較にならないほど、このみなしごの少女は利発で素直で屈託がなく、人の心の機微に敏感だった。
貴族としてふるまうためのマナーは、一度教えれば次の日にはほとんど身につけていた。
ジャクリーヌのいない間も、何度も練習した結果に違いなかった。
気の強い兄弟――姉と兄と妹と弟の全部――を持つ中間子として、家庭内で気を使ってきた自分だからこそ、よくわかった。
幼い身で、どれほどこの屋敷内の全ての者に心を砕いているか。
それでいて簡単には折れない、芯の強さを眩しく思っていた。
だから何があってもこの子の味方でいることを、年若い教師はすでに心に決めている。
「さあ、書き取りが終わったら、先生にカノンを聴かせてちょうだい」
「はい!」
アリアは指示を受けて、いそいそと片付けを始めた。
少女は小さな手で、非常に能く鍵盤を操った。
彼女が本腰を入れて練習した曲は、ジャクリーヌでもちょっと歯が立たないほど巧みだ。
この子がカントループに入学するまで、あと五年。
卒業生であるジャクリーヌは、そこがどんな場所だかよく知っていた。
――それとなく音楽学校への道を示してもみたが、国境伯からは拒否されてしまった。
帝国特権校カントループ。
貴族や富裕な階級の子弟が集う私立校の中でも、最も歴史が古く権威ある学舎。
中等教育機関でありながら、国内有数の施設と人材を擁しており、国の上層部のほぼ全員が卒業生であることから、卒業後は強いコネクションと出世が約束される。
帝国内の特権階級はべらぼうに高い寄附金を支払ってでも、自分の子どもを入れようと躍起になる場所である。
ジャクリーヌの家は男爵家といえど貧しかったので、奨学金を獲得したジャクリーヌ以外、みな他の私立校に通った。
入学試験の成績は首席だった。
壇上で新入生代表として挨拶をするジャクリーヌを、その時点ではほとんどの生徒が好意的に見ていた。西南部の辺境から、才女が出たらしいと。
しかし学期が始まってしばらくして、ジャクリーヌの持ち物が全て中古であることに気付かれ、ダンスレッスンで着たドレスが型落ちであることを知られてから、途端、それまで親しくしていた友人たちが離れて行った。
その後の排斥のことは、詳しく思い出したくもない。
結局、ジャクリーヌは同じ境遇の新たな友人に出会うまで三年間、一人で食事をし、誰とも雑談などできなかった。
成績だけは落としてたまるものかと、毎晩歯を食いしばって予習と復習に励んだ。
首席の座から滑り落ちることは一度もなかったが、それでも在学中に流された悪評のせいで卒業後にまともな就職口は残されておらず、失意のうちに、首都を後にしたのだった。
貧乏人が身の丈に合わない学舎に通うことを、他のカントループ生は受け入れなかったのだ。
アリアは国境伯家という出自を持ち、才能豊かで、コミュニケーション能力に長け、数年経てばユスティフでも指折りの美女に育つだろうと思われた。
だからこそ、赤い目という格好の火種が恐ろしいのだ。
貧乏なのに成績優秀というだけで、あれほど苛烈な排斥を受けたのだから。
(何としても、誰にも文句をつけられない完璧なレディに仕上げてみせるわ。……わたしのような経験をさせないためにも)
ジャクリーヌは目を閉じて、よく統制された、それでいて奔放に明るいカノンに耳を傾けた。
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このやべえ学園カントループは、第3部での登場となります。




