第23話 ランプの輝く夜(3)
「――いやあ、驚いたね。お前があんなに怒るところ、初めて見たかもしれない」
音もなく扉を開け、いつの間にやら壁にもたれていたネメシスを、ニュクスは机に向かったまま振り返らなかった。
「機嫌が悪いと知っていて話しかけにくるのはやめてください。性格が悪いですよ」
本をめくる手も止める気はない。
つい先日手に入れたこの博物誌は五世紀の初版本で、非常に貴重なものだ。
すでに読んだことはあるがそれは写本を繰り返したもののため、初版は内容が異なる部分があるかもしれないと、ニュクスはとても楽しみにしていた。
「きつい言い方をしたものだね。あれであの子が心折れて、二度と来なくなったら?」と尋ねる声は、答えを知っているように軽薄だ。
少年は苛立ちながら「そうした方がいいと思ったから言ったんです。いい加減、出ていってもらえませんか? 邪魔です」と冷たく返した。
「明日からも、あの子はここに来るそうだ。魔法を習うために」
パタン……と本を閉じる手つきは丁寧だったが、夕刻の瞳は、噛みつきそうな怒りを滲ませて自らの兄を睨み上げた。
対する兄のほうは笑みを浮かべたまま、飄々と受け止めている。
「もうたくさんです。王家だからといって、犠牲になる人間を見るのは。……まして、何も知らずに貧しく生きてきた子どもを、よくも利用できますね」
「彼女こそ黄金の獅子を継いでいる。さっきの振る舞いを見ただろう? あんまり真っ直ぐだから驚いたよ。あの容貌でなければ、ユスティティアさまの娘とは思えない。どちらの血を継いでもあんな性格にはなるまいに、いったい何をどう育てたのやら……」
首を振る様子は心底不思議そうで、ニュクスも目をそらしながら、「あの方はあの方で、苦労をされたのだから……」と庇ってみたが、あまりフォローになっていないことには気づいていた。
ニュクスも驚くほど、芯の強い少女だった。
イリオンの民が人狩りで命を落としたと聞いた時。
ネメシスがいたずらに帝国の軍人への憎しみをあおろうとした時。
両の目にまたたいた怒りは、半神であればみな、膝を付きたくなるような気高さがあった。
イリオンの貴族、夜の帳が慕う、黄金の日差しの輝きだ。
何の痛みも知らなそうな幼い少女だというのに、この肩になら重荷を任せてしまえるのではないかと、ニュクスでさえ錯覚しそうになってしまった。
(ぼくもどうかしてしまったのか? まだ八歳だぞ。……守って、やらなくては)
――むせかえるような花の香りに満ちていた。
燦燦とした日差しが噴水のしぶきに降り注ぎ、青いハチドリが咲き乱れる花の蜜を吸っていた。
外は地獄が広がっているというのにこの温室の中は時が止まったように穏やかで、外洋の果てにあるという神々の楽園はきっとこのようだろうとぼんやり考えたことを覚えている。
忘れがたい思い出が光とともに脳裏を流れ落ち、ニュクスは頭を振った。
守るべき王家の末裔は敵の掌中にある。
市井にいて万が一にも人狩りに遭うよりは、権力のある貴族家に匿われていたほうがましだから黙認しているが、本音を言えば、吐き気が止まないほど耐え難かった。
プランケットといえば、イリオン陥落の主力となった家門だ。
いったい何人の民を殺し、帝国に連れ去ったのか、考えると領ごと焼き滅ぼしたくなる。
敵は強大で、いまだ牙一つ届かない。
自分の身体は諸事情があって子どものままだ。
願いは身を焼くほど切実なのに、どれだけ絶望を呑み込んでも何一つ、うまくいかなかった。
「あの子はお前が止めようとも、この炎へ飛び込んでくるだろう。だって見ただろう? わたしの話でしか知らないイリオンの民草のことを聞いて、金眼に変わるほど激怒してみせた。もう赤い目を持つ者はみな、彼女の民だ」
「思い込みの激しい年頃です。貧しくて学がないから、聞いたことを全て鵜呑みにしているだけだ。どこにでもいる頭の悪い娘に過ぎません」
「そう見えるかい?」
「他に何があります」
「誇り高き獅子の足を止められるオルフェンなど、いないんだよニュクス」
「……」
ニュクスは返事をせずに、不快げに眉を寄せて顔を背けた。
「明日からの授業にはお前も同席しなさい」
「言われなくても。ネメシス、お前が余計なことをせぬように、見張るつもりです」
「よろしく頼んだよ。おやすみ、いい夢をごらん。弟よ」
扉が閉じられるのを横目で確かめて、ニュクスは長い長い溜息をついた。
(彼女の歌には、音寵の兆しがある。……いまだ開花していないが、たしかに)
だがニュクスは、どうかそんなものは目覚めないでくれと願わずにいられなかった。
ただ歌い笑い、地に足を付けて日々の糧を稼ぎ、やがては愛する伴侶と出会い添い遂げるような、そんなどこにでもある平凡な生涯を送って欲しい。
彼女の母ができなかった分、その娘にはせめて。
我々の敵に対峙しようとしたら、待っているのは破滅だけなのだから。
――藤の花が満開だった。
棚から淡い紫の真珠が零れ落ちるように咲き乱れるなか、母の腕に抱かれた柔らかな命は、ニュクスに向かって小さな手を差し出し、朝焼け色の瞳で笑ったのだ。
動くのが不思議なほど小さな手だったが、思いのほか強く人差指の先を握りしめられて、ニュクスは棒のように立ち尽くした。
胸が詰まって言葉が出なかった。
最悪にねじくれた運命のもと、産まれ落ちてきてしまったみどりごだった。
生を受ける前から、過酷な試練が約束されているはずだった。
だがどこからどう見ても、新しい命は光り輝いていて、まだ温かくて優しいものしか知らないガラス玉のような目には、ただ晴れた空だけが映り込み、のんきに笑ってよだれを拭いてもらっていた。
ふだんはあんなに雄弁な兄もまた、この時だけは何も語らず、ただまぶしそうに目を細めて――やはりとんでもなく複雑そうな顔をして、いつまでも赤子を眺めていたというのに。
「お前はそれも、忘れてしまったのか……」
呟きは風のない部屋のなか、閉じられた本の表紙に落ちた。
ネメシスもニュクスも、赤ちゃん時代のアリアに会ったことがあります




