第22話 ランプの輝く夜(2)
「気が付いたみたいだね」
「……はい。今思えば、母はわたしには隠そうとしていなかった。でもまさか、国を……失っていたなんて」
桃色の瞳を伏せて、思い返す。
歌うようなあの声も、せがめばいつだって抱きしめてくれた腕も。
一度だって、怒られたことがなかった。
だれのことも憎んだことのない、おっとりとした優しい人だった。
温かく柔らかいあの心がどれほどえぐり取られたのかと想像すると、アリアの胸も締め付けられるように傷んだ。
「イリオンが滅んだのは、ユスティティアさまが十九歳の頃のこと。でもそれより前から、実質的にユスティフの属国化していて、リオンダーリは幼い姫君をユスティフの宮廷に人質に出していたんだ。――そうでなければ、敵国を想起させるような名前を、継承者につけるわけがないからね」
「お母さんが、宮廷に……。だから国境伯夫妻が二人とも、お母さんのことを知っていたのね」
エミリエンヌは特に母と親しそうだった。
あの気難しい彼女が、アリアの顔を見た途端、追い出すのを諦めるほど。
「お父さまがわたしを引き取った理由の一つが、これでわかったわ」
「お父さま?」
ニュクスが不快げに片眉を上げた。
険のある美形に苛立ちが滲むと、ちょっと同席を遠慮したいような凶相になる。
「プランケットがそう呼ばせているんですか?」
「ううん。わたしが呼んでいるの。少しでも馴染みたくて。……わたしの家族は、もういないから」
「……」
ニュクスの眉が、今度は不憫そうに寄せられた。
一方、家族と口にした瞬間、アリアの脳裏をまたたくものがあった。
弾かれたように、隣の少年の瞳を見上げる。
夕刻の迫る空に似た、紫にもピンクにも近い、鮮やかな紅い瞳。
「イリオンの人たちはどうしているんですか?」
「……聞いてどうするんです」
「まだ歴史は習っていなくて、下町で聞いたことしか知らないから、間違っていたらごめんなさい。イリオンが滅ぼされて、みんなユスティフ中に散り散りになったって聞いたわ。――わたしたちと同じ人たちなんでしょう? 先輩と師匠を入れても三人しか会ったことはないけど……困っているなら、助けたいの」
「あなたは首を突っ込まなくてよろしい」
言葉に被せるように鋭い語気で返されて驚いた。
紅色の瞳は、怒りとも焦りともつかない迫力を湛えて、アリアを見据えた。
「ぼくがあなたを連れてきたのは、イリオンの生き残りに関わらせるためじゃない。リオンダーリの血筋が、ユスティフの貴族ごときに、よりによって魔術式なんぞで脅かされるのが我慢ならなかっただけです。魔法を使える者に、魔術式など効きはしない。あなたはここで魔法を覚え、自分の身を守る力を身に着けなさい。――ゆめゆめ、余計なことに首を突っ込んだりせず」
図らずも、ニュクスがアリアを彼いわく慌てて連れてきた理由というものがわかった。
ネメシスは「まあまあ」と笑いながら宥めた。
「アリアが気にするのも最もなことだよ。いずれ必ず知ることなのだから、今知ってもいいじゃないか」
「ネメシス!」
「何から話そうか。まず、イリオンが滅びた原因はなんて聞いているかな?」
アリアは記憶の糸を辿った。
自分には関係がないと思って、あまりよく聞いていなかったが――
「たしか、古代の怪物を目覚めさせようとして、一夜で滅んだって。ユスティフがその混乱を鎮圧したんだとか……」
「あははは! そう伝わっているよね。で、それは嘘なんだ」
「ど、どこから?」
「まず、古代の怪物からかな」
「あ、やっぱり。そんなのいるわけないですよね」
常識的な訂正が入ってほっとしたのもつかの間。
「いや。イリオンは怪物だらけの島だったよ。だいたい血筋的には古代からいたし」
「……え!?」
「きみのその赤い瞳。なぜ半獣と呼ばれるか、知っている?」
アリアは首を振った。
「イリオンは半神の国。地上に残った精霊や魔物が、人間と交わってできた子孫がわたしたちだ。半分は半分でも、獣じゃない。――神だ」
金の瞳にランプの灯りが揺らめいて、炎が燃えているように見えた。
「全ての赤い目を持つ民に、人ならざる者の血は混ざっていたけど、特に貴族は濃かった。怪物の姿に戻れたり、超常の力を使えたり、そういう者が多くいた。つまり、古代の怪物はわざわざ目覚めさせなくても、毎日そこらへんを闊歩していたんだよ」
「……古代の怪物だらけの、島……」
ネメシスから語られる、母と自分の故郷という島国の話は想像もできないものだったが、不思議と恐ろしさは感じられなかった。
どんな場所だったのだろう、と想像する。
地図を見たことがないから南にあるのか西にあるのか東にあるのかわからないが、暖かな潮の匂い、皮膚をあぶる苛烈な日差し、途切れることのない波音が、一瞬、見てきたように脳裏をよぎった。
「神の血は代を重ねても強く、貴族たちは、そのままでは人の理性を保てない運命を課せられていた。リオンダーリの持つ音寵――狂気を調律する歌声だけが、わたしたちを人の世に繋ぎ止めてくれたんだよ」
音寵。
狂気を調律する歌声。
初めて耳にする能力だが、母はそれを持っていたらしい。
それよりも。
「……わたしたち?」とアリアが聞き返すと、金の瞳が懐かしいものを見るような眼差しで頷いた。
「わたしとニュクスは、ピュティア家――大蛇を祖とする貴族家の出身だよ」
「えっ!? 師匠と先輩、貴族だったんですか!? そ、そうとは知らずすみません……」
「なっなぜ席を譲ろうとするんです……!? 自分だって王家の裔だと聞いたばかりでしょう……!」
染み付いた庶民感覚から、立ったままのニュクスにソファーを譲ろうとしたら、珍獣を見るような目で「いいから座っていなさい」と叱られてしまった。
「よその国は王家と貴族連中で争いが絶えないが、わたしたちは、歌で狂気を癒やしてくれるリオンダーリを、心から慕っていたよ。太陽に愛された獅子が休む場所になろうと、夜の帳と自らを呼んでいた」
「気味が悪かったでしょうが、だからぼくたちはあなたにこういう態度なんです」
「昼間のことは理解できました。……いいの。これまで自分から媚を売らずに親切にしてもらった経験があんまりなかっただけだから」
アリアは思案するように瞳を落とした。
音寵を奏でる母はもういない。だとしたら……
「各地に出現した迷宮。あれは狂気に呑まれたオルフェンが作り出したものだ」
「……!」
迷宮。
二十年前、突如ユスティフ国内に出現した謎の空間。
外界では見たことのないさまざまな資源が採れる上、迷宮の主は珍しい魔物として、ハンティングされて高値で市場に売りに出される。
命を落とすことも多いがそれ以上に実入りのある職業として、各地から冒険者たちが集っては、パーティーを組んで突入している。
――その華々しい戦果として討伐された魔物が、自分の国の民だったなんて。
「……ふつうの民衆は?」
「奴隷として連行されたのは……マシな部類だね」
ネメシスは自分の瞳を指さした。
「わたしのこの目。もともとニュクスと同じ、紅紫色なんだ。イリオンの赤目は俗に宝石眼とも呼ばれていてね。特に血が濃い者は、感情が高ぶると黄金色に色が変わると言われている。――捕らえてみないとわからないところが、貴族の趣味として人気があった。イリオンの首都、イリオリストスが陥落して数年で、多くがユスティフの人狩りの対象とされ、命を落とした」
「……」
アリアは、ただ静かに顔を覆った。
自分の瞳が燃えるような熱を持っているように感じたが、怒りと悲しみで吐き出しそうで、それどころではなかった。
「きみの家に出入りしているオーレル少将。……彼の指揮のもと、ユスティフ軍はイリオンを攻め滅ぼした」
「ネメシス!」
今度こそはっきりと怒気をこめてニュクスが諌めたが、アリアは「些事よ」と顔を上げた。
「オーレル先生は軍人だもの。命令に従っただけだわ。責めるべきは、命じた者よ」
「……アリア。瞳が金眼になっています」
夜闇を背景に、雑然とした室内を映しこむ大きなアーチ窓。
そちらを見ればたしかに、ランプの灯りに満たされた中、灯火よりもはるかに強く輝く二対の黄金があった。
――そうか。本当に、同じ血を持っているんだ。
この呼吸すらしづらいほどの、焼け付くような怒りを身の裡に抱えたまま、ネメシスはずっと生きてきたらしい。
「ネメシス師匠。師匠はずっと、怒っているんですね」
「……そうだよ」
初めて金の瞳がそらされて、自嘲げな笑みを口の端に載せた。
これまでどうやって、何をして生きてきたのかはわからない。だが――
「きっと二人きりでずっと、戦ってきたんですね。母の代わりにお礼を言います。……ありがとう」
金と紅の瞳が、虚をつかれたように見開かれた。
ニュクスはなにか振り払うように頭を振って、ぎゅっと眉根を寄せた。
「やめなさい……! あなたに押し付けるために連れてきたわけじゃないと言ったでしょう」
「押し付けられたって、大したことはできないわ。王家の音寵なんて力、感じたこともないし、お母さんのようには歌えない。――でも、わたしと同じ赤い目の人たちを忘れて生きていくことなんてできない」
「バカじゃないですか?」
はっきりと冷たい怒りを込めて、ロードライトガーネットがアリアを睨みつけた。
「もうイリオンなんて国は地図から消え失せました。民は散り散りになり、従う貴族も軒並み滅んで跡形もない。そうだというのに、他人に吹き込まれたとおりに信じ込んで、さっそく王家の末裔気取りですか? 全く、とんだ見込み違いというほかありません。こんな愚かな子どもなら、連れてくるのではなかった。……さっさと、帰ったらどうです」
鋭い舌鋒だったが、この少年がわざと傷つけようと言葉を選んでいることはアリアにはわかった。
どう傷つけられようとも、退く理由がないことも。
「迷宮の魔物や、奴隷として連行された人が生きている限り、イリオンは滅びていないわ。……夢みたいな願いだとしても、全員、助けたいの」
――赤い目を持つ全ての人を、自分の家族だと思ってしまうのは、バカげているだろうか。
最後の言葉は、さすがに口に出せなかった。
「愚かな!」
冷たい一瞥を残して、黒いローブがひるがえる。
「魔法の習得には協力します。――ですが、イリオンの残党に関わることなら反対です。ぼくは阻止しますから」
言うが早いか、ニュクスは靴底をカツカツと鳴らして吹き抜けの階段を上って行ってしまい、自室らしき部屋のドアを荒々しくバタンと閉める音が響いた。
「……」
アリアとネメシスは顔を見合わせて、「すみません」「ごめんね」と謝りあった。
「今日はもう遅い。魔法は日を改めて教えるから、明日またおいで」
「はい! 同じ時間でもいいですか?」
「構わないよ。それと」
ネメシスは、まぶしいものでも見るように瞳を細めて、穏やかにほほえんだ。
「ありがとう。報われた気がした」
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