第21話 ランプの輝く夜(1)
靴は履いているし、ランタンも手に持っている。
切符の使い方は極めて簡単だ。
帰りがけにニュクスが教えてくれた。
いつも歌う時と同じように息を吸って、船乗りの歌の旋律に乗せてこう歌うだけ。
「導け 地の露へ」
窓を締めた私室内にも関わらず、足元に旋風が起き、夜着のワンピースが風を孕んだ。
見下ろすと金色の術式が円形に広がっていて、薄暗い室内でそこだけが昼間のように輝いていた。
アリアは息を止めて、耳をふさいだ。これからどんな空間を抜けるのかはさっき体験している。
束の間の無。
またたくよりも短い永遠――を経て、青い草花の匂いが鼻腔に満ちた。
夜の虫の声、カエルの鳴き声が、こころよい波のように鼓膜を打った。
地の露という名にふさわしく、あたり一面が夜露に濡れて、白いモスリンの裾に透明な沁みを作っていく。
やっぱり重力が戻る瞬間は、どっと身体が重くなる。
少しふらついて、ランタンの灯りも大きく揺れたが、何とか消さずに済んだ。
(昼間は何も悪いことはしてこなかったけれど……一人でのこのこ来るなんて、ことによったら、殺されてしまっても、おかしくないわね)
バカなことだとわかっていても、どうしても知りたかった。
自分の知らない自分の話――母の話。
フレデリクもエミリエンヌも教えてくれない。
鍵はたった一つ。今日会ったばかりの怪しすぎる二人組だけ。
「……」
歩を進める足が止まりそうになり、自分を鼓舞するために、思い出の底から旋律を探し集めて、夜風に乗せて歌い始めた。
ランタンの灯り 煤のにじんだ淡い炎
騒がしい思い出と いまも胸に残る優しい歌
霧の立ち込めるこの夜には誰もいない
雲が影を落とし 何も見えなくても
歌はいつか 夜明けを見出すだろう
すぐそばで地面を擦る音が立ち、驚いて目をやると、息を切らせた様子のニュクスが立っていた。
いつもならずっと遠くから聞こえるはずの足音は、なぜか一切聞こえなかった。
(転移してきたのかしら?)
「こんな夜更けに来るなんて!」
神経質そうに眉を寄せて怒られ、アリアは(たしかに!)と額を打った。
時刻は夜二十一時過ぎ。
大人の夜会でもないのに、人を訪ねるには遅すぎる時間だ。
「ごめんなさい! もう寝るところでした?」
「そうではありません!」
謝ったというのに、険しくしかめられた眉は、ますますぎゅっと寄せられた。
「危険を予知しなさいと言っているんです。このあたりは獣も出ますし、吸血虫もいます。足元だってぬかるんでいるのに、暗い中一人で来るなんて! ぼくが気づかないかもしれないのに、転んでケガでもしたらどうするんですか?」
(えっ)
アリアは目を瞬かせた。
(や、優しい……!)
「……夜遅くに来て、ご迷惑なのでは……?」
「ああ、いいんですよそんなことは。我々はどちらかというと夜型で、この時間ならまだまだ動いてますから」
「……」
(……この人、面倒見がよさそうだわ……)
昼間からうすうす感じていたが、この少年は見た目の印象以上に世話焼きで、優しい性質かもしれなかった。
今だって、どうにかしてアリアの来訪に気づいて迎えに来てくれたのだろう。
ニュクスはアリアの持つランタンに目を止めると、懐から短杖を出して先端に灯りを灯した。
ランタンだけよりずっと明るく、森の小道が照らし出される。
「どうしてわたしが来たってわかったんですか?」
「ああ……」
灯りに照らされた横顔が、ほんのわずかに口元をほころばせた。
初めて目にする、少年の笑みだった。
「歌が聞こえたので」
「!?」
誰に聞かせるつもりもなかった歌が聴かれていたと知って、アリアは恥ずかしさで顔を赤くした。
(そ、そんな大声だった……!? けっこうお邸とは離れてるから、聞こえてないと思ってた……!)
ニュクスもまた、聞こえすぎる耳を持つようだ。
サフランイエローの扉を少年が開けると、天井からいくつも吊るされた色とりどりのランプが、淡い光を放っていた。
ユスティフのものではない、異国の文化。
黄金を溶かしたような眩い美しさに、思わず息を呑む。
「どうぞ」と示されるままに先に入ると、アリアはニュクスに振り向いてニッコリした。
「お迎えに来てくれてありがとうございます、先輩」
「……先輩?」
「お邪魔します!」
怪訝な問いかけを残したまま上がり込むと、ネメシスはメガネをかけて安楽椅子に腰掛け、巻物を紐解いているところだった。
「いらっしゃい」
巻物から金の瞳を持ち上げて微笑んだ。
やっぱり詐欺師じみた、空恐ろしい笑みをしている。
「こんばんは、師匠!」
「師匠?」
ネメシスはメガネをずらして、おかしそうに聞き返した。
「魔法を教えてくださるんでしょう? 下町では工房の親方のことをこう呼んでいました」
「それはわかりました。では、なぜぼくを先輩と?」
ネメシスとの会話に、ニュクスがズイッと割り込んでくる。
「先に工房にいる人のことは先輩って呼んでいたもの」
「……ぼくはネメシスのもとで学んでいるわけではありませんが」
「そうなの!? だめ?」
「……いいですけど」
不承不承……という感じだが、ニュクスが頷いたので、アリアはニッコリした。
「これからよろしくお願いします!」
「ああ! よろしくね」
ネメシスの手が差し出され、アリアはぶんと握手した。
剣を持たされたり渡したりするややこしい挨拶よりも、ずっとやりやすい。
大きな手は冷たく、乾いていた。
「さて、この時間に来たということは、魔法を学びに来たわけじゃなさそうだね」
ネメシスは安楽椅子の向かい、一人がけのソファーにアリアを案内し、手ずからお茶を淹れてくれた。
ポットではなく、透明な蒸留器のようなものとビーカーから注いでいた。どう見ても実験器具である。
見渡せばこの部屋、入ってすぐの応接間だろうに、妙なものが所狭しと置かれている。
いくつも積み上げられた古めかしい巻物、冊子、ガラスや金属の実験器具、壁にはられているのは人体解剖図、天井からつる下がっているのは羽の生えた猫のような怪物のおもちゃ。
応接間でこうなら、他の部屋も推して知るべしである。
「はい。眠っているはずのこの時間が、一番長く自由になれますから。長い話になるんでしょう?」
「ふむ。何から聞きたいかな?」
長い指で頬杖をついて、笑みをたたえたままネメシスがアリアを見つめた。
「……お母さんは、どんな人だったんですか?」
「イリオンの姫だったよ。今は亡き海上の島国、陽の当たる国イリオン。王家リオンダーリの音寵の継承者だった」
「……」
特にもったいぶることなく、普通の会話と同じように話された内容が、二度ほどまばたきをしてもうまく飲み込めずに、アリアはテーブルを見つめたままひとまずお茶を飲んだ。
「……まさかとは思いますが、わたしにもその……王家の血……が、流れているんですか?」
「もちろん。ユスティティアさまの生き写しだって自分で思うだろう? そうなんだよ」
まだ飲み込めない。
二度、三度とお茶を飲んだ。
カップを持つ手が震えている。お茶の味はさっぱりわからない。
「……で、でも、お母さんは、ベツィルクって汚い下町で、パン屋で働いて暮らしていたんです。週に一回、酒場で歌って。家も、崩れ落ちそうな集合住宅の狭い一部屋で。お、お金だってなかったし、ごろつきに絡まれたりする中を必死で生きてる――ふつうの人でした。たしかにちょっと変なところもあったけど、いやたくさん、あった……けど」
喉を潤しているはずなのに、話せば話すほど、乾いて張り付くようだった。
変なところと思って済ませていただけのいろんなことを、思い出してきて。
――お姫さまのお辞儀よ、と言って教えてくれたのは、貴族令嬢しか知らないカーテシーだった。
訛りのない言葉遣いも、正確な敬語も、文字の読み書きも、計算も、譜面の読み方も、教えてくれた全てが、下町の婦人が普通に生きていては知り得ないことだった。




