第184話 迷宮の律
「行こう、みんな」
剣帯にサーベルを固定しながら促したのは、いつかのようにボアネルジェスだった。
「親御さんたち。きっと大丈夫ですよ」
柘榴の目をした少年は大人たちを振り向いてニッコリした。
ここにはいない、彼の友人を思わせる笑み。
「アリアが探しに行ったんなら、すぐにあの耳で見つけ出します。何が襲ってきたって、いつものあの調子で蹴散らしますよ。ああ見えてあいつ、すげえ強いから」
「だからおれたちはあいつを支えてやらないとな」と振り向いたボアネルジェスの言葉に、辺境踏破隊の子どもたちは頷いたが、飛び込もうとする彼らを低い声が制した。
「やめておきなさい」
左肩を押さえていまだ生者らしいとは言えない顔色をしたニュクスは、ひたすらの凶相で頭上の建造物を見上げていた。
「じゃあどうするつもりだ!」
異を唱えたのはティルダだった。
魔法使いのローブから大剣を引き抜いて鞘に収めると、灰色の髪を揺らして詰め寄る。
「ぼさっとしている暇なんかないだろ!? アリアさまはお強い。あの魂の強度に上限なんてない。……けれど肉体は決して、無敵じゃないんだ……!」
胸を焼く焦燥で、ガーネットが泣きそうに歪んだ。
「……」
ニュクスは黙って目を伏せて、承知しているの意を示した。
「まずは、迷宮が何なのか説明しましょう」
紅紫の視線の先で、燃え落ちた木の枝がひとりでに持ち上がる。
手を動かせない魔法使いに変わって、無骨なペンが地面に絵を彫り始めた。
「迷宮とは、苗床になったオルフェンの身体そのもの。入り口と出口は二箇所しかありません。口と、排泄器」
枝が描き出した図形は、下がすぼまった歪な円錐。
切り分けられた階層は七つ。
第一階層「眼窩」アイン、第二階層「心臓」レブ、第三階層「脊髄」クシュトハ、第四階層「胃」ケバフ、第五階層「肉」バーサール、第六階層「血」ネフェシュ、第七階層「子宮」シウォル。
「口は第一階層のどこかに出現しますが、どこにあるのかは内側からはわかりません。そして接続場所は、頻回に移動する。同時に入らなくては同じ場所に転移しないため、今から飛び込んでもあの子のいる場所に辿り着けるとは限りません。排泄器の場所は動きませんが……あれは最下層、主人のいる部屋にあります。つまり、入ってしまった者と再び巡り合うことは困難を極め、全員揃って外界に脱出することに至っては、ほぼ不可能と言える」
荒い息の下で紐解かれる迷宮の詳細は、暗澹たるものだった。
言葉を失った人々に対し、「ぼくは、あの中のことをよく知りません」と紅紫が思案するように伏せられた。
「だがどんな場所かはわかる。あれはぼくたちオルフェンの怒り……自分たちから王を奪い誇りを踏みにじり、魂を獣に貶めた世界を砕こうとする、全力の激怒の発露。底にいる主人を倒せる者でなければ、帰ることはできません」
再び頭上を見据えた双眸は、今まさに打ち砕くべきものが目前にあるかのように燃えていた。
「なら、アリアさまでは無理だ! 尚のことわたしたちが行かなくては……!」
「お前でも勝てません!」
焦燥に駆られて言い募ったティルダは、間髪入れずに確言された敗北に顔を強張らせた。
「誤解しないでください、ティルダ。お前が力不足などということでは決してない。これは、そんな話ではないんです。砦が百も千もいれば話は別ですが、無理なものは無理なんです」
ニュクスは同胞たちを見た。
「お前たちは、自分が人間ではないのだという自覚はありますか?」
彼には珍しく淡い笑みを浮かべた出し抜けの問いに、いくつもの赤目は面食らってパチパチと瞬きをした。
「ぼくたちイリオスは、神代の獣たちと人間が交わって生まれたもの。人と獣と神の狭間に位置する、人であって人ではない存在です。その中でも夜の帷は、限りなく獣に近い本性を持つ。お前たちがこの国で浴びてきた『半獣』という蔑称が真に示すのは、ぼくたちのことです。神なる獣を相手に人の身で戦おうとするのなら……少なくとも千。磔刑のネーヴェにおいては、フラゴナール夫人の言う通り二千余りの命を費やさなくては、歯が立たないはずです。喰われるとわかっていてお前たちを向かわせるほど、血も涙もないと思わないでください。……オルフェンと一対一で戦えるのは、オルフェンだけ」
目を落とした少年の横顔を誰もが眺め、そして左耳と左腕のあった場所を見た。
根こそぎ毟り取られたそれらは、壮絶な出血の跡を残して綺麗さっぱり消え失せている。
「考えてみれば想定できたことなのですが、ぬかりました」
ニュクスが淡々とした顔で肩を持ち上げると、中身を失った左手の袖が夜風にあおられて虚しくなびいた。
「オルフェンは出生時、獣の姿で生まれてきます。長じて人の言葉を覚えるうちに、人の身に変わることを知る。迷宮は、人と成る前のオルフェンを剥き出しにする場所。ぼくらにとっては、ある意味で胎内とも呼べる。耳が奪われたのも腕が奪われたのも、クスシヘビが生まれ落ちる時にそれらを持たないからでしょう」
「しかし……閣下は、音寵がなくても発狂しない祝福をお持ちなんじゃあありませんか?」
恐る恐る尋ねたインゴルフに、「気づいていましたか、鋭いですね」と肯定が返される。
「そ、そりゃあ~」
察しのよさを褒められることなど滅多にない脳筋は頭を掻いた。
「でなけりゃ、他のオルフェンが軒並み獣となったのに、ひとり平気でいられる理由がねえ」
「その通り。ぼくの祝福は『動かざる理性』です。これがなければ迷宮の底で人を喰らう羽目になったか、激痛に耐えきれず自死の大罪を犯していたことでしょう」
少年は軽く頷き、陰惨な結末をあっさりと語った。
「この祝福は、至福者の島からの音色には耐え抜く。けれど、迷宮の律に勝てるかは別問題です。身体を取られたところを見ると……おそらく勝てません」
淡々として見えた横顔は、よくよく見れば残された右手で硬くこぶしを握りしめていた。
アリアがいない場所ではほとんど崩れることのない無表情に、焼け付く焦燥が滲み出る。
「誰よりも飛び込みたいのは、このぼくです。今すぐ救いに行きたい。あの子が怖い思いをしているかもしれないと思うと、気が狂いそうになる。こんな律など課せられていなければ、とっくにシウォルまで降下して迷宮の主人をぶっ飛ばしています。だが……あそこに入れば今度こそ人間としてのニュクス・ピュティアは死に、一頭のヘビが生まれる。歌がなければもう……戻れない」
唇を噛んで地面を見たニュクスは、すぐに顔を上げて一同を見渡した。
「ですが、心配はいりません」
血の気のない顔に浮かぶのは、常ならぬ笑み。
「ぼくは天才ですし、ぼくの兄も天才です。ピュティア家の兄弟は人類史稀に見る大魔法使いだと名高かったものです。今はそこでブナの木をしていますけど」
言葉を探して、紅紫は虚空を彷徨った。
気を抜けば落としそうになる笑顔を、努めて貼り付ける。
「必ず手段を見つけます。アリアはもちろんフラゴナール家とリスナール家の子らも無事、救い出してみせます。だれも犠牲にせず、何も取りこぼさず……あの子ならきっと、やってのけるはずだ」
それは誰が見ても、精一杯の虚勢であった。
王が消息不明となった状況で、たったひとりだけ残されてしまった貴族たる少年が、王の真似をして民を奮い立たせているのだった。
だが慣れない口上とぎこちない笑顔では、粉砕困難な難題を煙に巻くことはできず、絶望を際立たされた二国の民は気が遠くなりそうになった。
(……失敗した)
自分の猿真似がうまくいかなかったことをニュクスも悟り、脳内で頭を抱えた。
ピアスの骨伝導に反応があったのは、その時。
大変日を空けてしまい申し訳ありません!
応募用に短めの長編の作業をしていました
迷宮は第七階層までありますが、ぶち抜いて進んでいきますので覚えなくても大丈夫です^^
※迷宮の必要兵力を下限修正しました
こんな強かったら生身でもイリオン陥落戦楽勝だっただろうという当然の事実に気がついて…