第182話 夏の金星は二度のぼる
夜間の山中を駆け抜けていってしまったアリアを追いかけた人々も、やがて森の切れ目にたどり着いた。
そうして、背の高い木々の中からさらに大きな身体を出した、山のごとき黒い毛むくじゃらをぽかんと見上げたのだった。
「……なんだ、あれ?」
──ゴバッ!
魔獣の前脚が、崖を砕く。
弾き飛ばされた岩塊が空中に散る。
最近流行りのポップコーンとやらに似ている……とぼんやり考える人々の鼻先に、当たればひとたまりもない岩が墜落し土埃を上げた。
「……わっ、わああーーーー!!」
「逃げろおおお!!」
急拵えの捜索隊は、自分たちの生命の危機だけはしっかりと把握した。
「ティルダ!」
岩塊を叩き割りながら、インゴルフは肩越しに娘を呼んだ。
「閣下を拾って走れ! みなを遠ざけろ! やつは、おれが引き受ける!」
「……!」
目を見開いたティルダの表情に、痛みが走る。
自分の父はたしかに、並みの兵士など百人いても相手にならない豪傑である。
だが神話級の怪物相手に、たったひとりで戦える人間などいないのだ。
「父さん……!」
本日一度も役に立っていないクレイモアの柄を握り、ティルダは掠れた声で呻いた。
血の海に倒れ伏したニュクスは、重いまどろみの中にいた。
──ガランガランと、大きな鐘の音がする。
満開のネモフィラが風に舞う、青い丘。
ニュクスが生まれ育ったエピダウロス島でもっとも高い場所。
(王冠の丘、ステファノスだ……)
この時期のステファノスは天球を映しこんだような空色に染まり、自宅のバルコニーからもその晴れ晴れとした美しさはよく見えた。
自分はいま竪琴といっしょにだれかに抱きかかえられて、丘の上からエピダウロスの街並みを見下ろしている。
刻限は宵、金星が西の空に昇るころ。
太陽が地平線に消えてなお、初夏の長い日の名残りで空は青く澄んだままで、ゆったりと明度を下げていく天の海に対して、地の家々は橙色の灯りをともしはじめた。
ガーデニア匂う風のなか、あたたかな幸福だけが身体をいっぱいに満たしていた。
『起きろ!』
──バリッ!
静かな夕凪に稲妻が駆ける。
(兄上の声……)
聞き慣れた声の、かつて聞いたことがない切羽詰まった響き。
「まさかこのまま逝こうとしているのかい? 自分は死人を叩き起こしておきながら、勝手なことを!」
遠く離れた深い森の中。
押し込められた家から動けないゴーレムは、アザラシ型通信機の対となるイルカのランプをズダダダダ! と連打して、弟目掛けて立て続けに渾身の雷撃を送った。
「いいかニュクス! いくらお前が死にたがろうと! このわたしが地上にある限り、冥府に行けることなどないと心得なさい! あの子を……アリアをひとりにするつもりか! 馬鹿者!!」
バリバリバリッ! とあらぬところから沸いた雷が、少年の身体に落ちた。
「!」
紅紫が開く。
「……」
優しい夢から一転、瀕死の現実。
あまりの格差に、人知を超えて明晰な頭脳もしばしさまよったが、医神の使いとしての身体に染み付いた歌は、本人が状況を把握するよりも早く口をついて出た。
「……係留せよ 内海 渦潮 海の鐘音」
大怪我を負った患者に何十回だって歌ってきた、止血の御業。
「遡れ 音なき海を。ふたたび 波打ち 吹き寄せよ。師は 此方あり……潮位を上げよ!」
止めどなく噴き出していた血は、この世の果てから栓を閉められて、パタリと止んだ。
「……まったく。人に向かって、バカスカと雷を打って……」
血の海の中から、黒いローブが重たげにずるりと起き上がる。
息は荒く、奪われた耳も腕も亡きままで、未だ顔貌の死相は濃い。
「最悪の起こし方です」
だがその瞳はいつもどおり、何も恐れるものなどないと言わんばかりの強さで闇を睨みつけ、傲然と顎を上げた。
『おはようニュクス。お前は寝起きが悪いから、あと十発は必要かと思っていたよ』
地の露にあるゴーレムは満足げに微笑んで、再び安楽椅子に腰を下ろした。
テーブルの上で組んだ手には、じっとりと冷や汗が滲んでいた。
「お前っ、生きて……!」
復活に気づいたティルダが駆け寄ろうとするのを、ニュクスは右手を上げて制した。
よろめきながらも立ち上がり、大量失血のため痙攣する手で、そのまま円を描く。
血に染まった親指が虚空になぞるのは、互いの尾を喰らう双頭の竜。
夜闇に浮き上がるのは黄金の円環。
「目覚めよ 我が血!」
入道雲が沸き立つがごとく、爆発的な炎が起きた。
「……!」
思わず片腕で顔を庇ったティルダは、薄眼を開けた視界で怪物の現出を見た。
火焔を割ってこの世に顕現したのは、一頭の巨大なヘビ。
鱗は光を吸い込む漆黒、双眸は夕日の迫る西の空に似た紅紫。
「に、二体目!?」
「いや! あれは……!」
増えた異形を目を見開いて見つめる人々の顔に浮かんだ恐怖は、陽炎が収まり全貌が明らかになると、たちまちのうちに消え失せた。
そのヘビは、古めかしい紋様の刺繍された黒いローブを羽織り、魔法使いの長杖を携えていた。
杖頭に嵌まるのは、闇を透かせて輝く大きなアイオライト。
衣類を羽織る肩も、杖を持つ腕も持たぬ身だというのに、それが何だと言わんばかりのふてぶてしいまでに堂々とした横顔は、彼らにとって馴染み深いもの。
「ニュクスさまだ……」
誰もが一目でこの怪物の正体を悟り、安堵に目を潤ませた。
リン!
見えざる手で長杖が振るわれる。
杖頭に嵌められた大きなアイオライトが、硬く澄んだ音を鳴らす。
魔獣の尾に弾き飛ばされたインゴルフが崖に叩きつけられようとした瞬間、突如吹き上がった温風が大男の体躯を抱きとめた。
眼を見開いた戦士は、そのまま大きな手で掬われるようにして、そっと娘の横に落とされる。
「閣下……」
ガーネットもまた、よく見知った少年の見知らぬ姿を呆然と見上げた。
『二人とも、持ちこたえてくれてありがとう』
風に似たヘビの言語が語りかける。
『あとは、お前たちの夜の帷が引き受けます』
四本足の竜ザッハークは、人間よりも喰い手のありそうな新たな獲物に飛び掛かった。
小山ほどの大きさもある敵に比べ、大蛇といえどもクスシヘビは小さい。
だが敵を見据える紅紫の瞳には、一片の怯えもなかった。
漲るのは、ただひたすらの怒り。
『邪魔だ四つ足!!』
長杖が半月の軌跡を描いて振るわれる。
濁流のごとき炎が走り、森の木々を舐めた。
いかなる激流でも消化剤でも消せない、幻の火。
「ギャアアアア!」
半身の毛皮に炎が燃え移った獣は絶叫した。
固く編み込まれた火炎を先端から噴き上げた長杖は炎の鞭となり、二度三度、四度五度六度と、容赦なくしなりを上げた。
『最悪だ……! 最っ悪のタイミングだ! 初夏のピクニックだかなんだか知らないが、はた迷惑な時にのこのこ来やがって! 取り込み中だってことも見てわからないか、このド低脳!』
「ギャッ! ギイッ!」
『だれの! せいで! 何が起きたか! 反省文を書いて賢人会議に提出するがいい! 言語を忘れ四つ足で歩き、死した後も人に迷惑をかける……人間界の、いや! 霊長類の恥晒しが!!』
「キュッ! キュウン……!」
「「「……」」」
千年王国の血を引く者はすべて、獣となった夜の帷の言葉を理解できる。
「あの、なんかめちゃくちゃ叱ってるんだが……」
「言ってたよな? 神話級の怪物だって自分で脅してたよな?」
ビシバシと炎の鞭でしばかれて、ザッハークは尻尾を巻いた。
「キャウン……ッ!」
悲しげな鳴き声を上げて、追い払われた野良犬そのものの動きできびすを返し、来た道を戻っていく。
「か、帰ってく……」
「何しに来たんだあいつ」
怪訝な顔をした人々の鼻先に、メリメリと音を立てながら燃え落ちた枝が降ってきた。
「おわーーーっ!」
怪物を追い払った火炎は木々の葉を舐め幹を伝い、その領域を人間たちの立つ大地にまで広げようとしていた。
「水水水っ! 消火!」
「無茶だろ、この山火事を消すのは〜〜〜!」
息つく間もなく降りかかる別の危機に捜索隊は真っ青になったが、──ほどなくして、紙を握り潰すに似た音を立てて火焔は虚空に溶けた。
「き、消えた……?」
煙も灰も跡形もなく、まるで大火が嘘だったかのように、海辺の森に耳が痛いほどの静寂と暗闇が取り戻される。
火炎に舐められた木々の黒変と、それらが発する余熱だけを残して。
「ピュティア家の幻火が消える時は……相手が燃え尽きるか、主人が消すか。ふたつにひとつだ……」
地面に下ろされた体勢で立ち尽くしたインゴルフが呆然と呟いた時、ヘビの頭部が割れた。
──パファッ
仕事を終えたニュクスが、二等分に裂けた頭蓋骨からこぼれ落ちてくる。
カッコつけの気があるこの夜の帷は、平素ならいかなる高所からでも姿勢よく降り立ってみせるというのに、この時は濡れた雑巾のようにべしょりと地面に落ち、それから微動だにしなかった。
「師匠!?」
血相を変えて駆け寄ったダヴィドは、その顔を見て悲鳴を上げた。
「虫の息だ!」
チンピラ仲間も「う、腕がねえ!」「耳もねえよ!」とどよめく。
「あんたっこんな状態で、……おれたちを背に、庇ったのか……!」
ニュクスを抱え起こして、ダヴィドはくしゃりと顔を歪めた。