第181話 すべて奈落にさようなら(2)
「まったく、きみは五歳児ですか? 人の手を振りほどいて、急に駆け出すなんて! 転んで怪我でもしたらどうするんです!」
追いつくやいなや、お説教をしながら問答無用で再度手を繋いだニュクスもまた、アリアの視線につられて顔を上げた。
「……」
双眸に、鏃のような険が滲む。
「先輩……あれ」
「……ええ。そうです」
崖を見上げて鋭く睨むその眼差しが漲らせるのは、同胞のなれの果てへの憐憫よりも、脅威を前にした敵意。
傍らに立ったティルダとインゴルフも、凍り付いたように息を止めた。
巨大な臓器から無数の短いリボンが生えた奇妙な建造物。
──かつて、誇り高いオルフェンだったもの。
「あれが迷宮、磔刑のネーヴェ」
ニュクスは握りしめた小さな手に力を込めた。
「アリア、絶対にこれ以上近寄らないでください。ネーヴェはピュレー型ですが、万が一のことすら起きないように十分距離を取って。ネメシス、ただちにフランシス・リスナールの探知を」
『了解了解。……ん?』
「なんです」
『ニュクス。そこにフランくんはいない。きみたち以外、人間の生体反応はないよ』
「ハア?」
さっそく上がった調査報告に、ゴーレムの主人は不機嫌そうに眉を寄せた。
「何をバカなことを。他の者ならいざ知らず、この子に限って空耳などありえません。どうやらそのオンボロ探知装置、取り換えの時期が来たようですね」
『兄の大事な仕事道具に向かって、失礼な弟だねえ』
しかめっ面でチョーカーから目線を上げた少年は、隣の少女の身体が、緊張に張りつめていることに気が付いた。
「……先輩。ティルダ」
虚空を真っすぐに見据える横顔が、ふたりを呼ぶ。
常ならぬ声の硬さを訝しんだ瞬間、──それの気配は、ヘビと猟犬の感覚器にも届いた。
「……!」
木々を蹴倒して疾駆する、巨大な四足動物。
(何か来る!)
ニュクスが背にアリアを庇い、ティルダがクレイモアの柄に手をかけた時、月光を遮る影があたり一帯に落ちた。
身の丈は実に、小高い丘ほど。
禍々しい黄色い目、銀混じりの黒い体毛、両肩からは無数の大蛇を生やした異形。
息苦しいほどの血腥い獣臭が、頭上から重たく立ち込める。
「ザッハーク……!?」
ニュクスは目を見開いて、異国の響きをした名前を呆然と呟いた。
「何だそれは!」
「東方の怪物です……! 二千五百年前に君主だった男の、成れの果て!」
「おっ男!?」
インゴルフがすっとんきょうにオウム返した。
「人間だっつーんですか、あれが!?」
「元がつきます。人をやめて久しい、呪われた存在。民を喰らい暴虐の限りを尽くし、東の大陸では千年の長きに渡って人々から恐れられてきた……!」
矢継ぎ早に説く紅紫の両目に金の炎が走り、癖のある黒髪が逆立つ。
魔獣は、人間からの恐怖を力とする生物。
その名が知れ渡るほど、恐れる人間が多いほど、強い権能を誇る。
「つまり神話の怪物たちと、同格の強さを持つ!」
「……よりにもよってこのクソ忙しい時に、はた迷惑な客人だ!」
舌打ちをしながらティルダはクレイモアに雷鳴を纏い、インゴルフは背負った大剣を垂直に構えた。
ニュクスもまた左手を空けるべく、アリアの手を離した。
イリオンの魔法使いたちは、短杖も長杖も必要としない。
だが精密なターゲッティングを要する魔法の場合、細長い棒を用いて照準を絞る。
この時のニュクスにとってそれは、自らの指先であった。
魔力火砲を放つのが利き手であることは攻撃精度を高めるために重要な要素であり、つまり強敵を前にした今、アリアと繋ぐ手を右に切り替えようとすることは当然の判断だったのだが──
これ以降、彼は何度も何度も、自らの選択を悔いることになる。
「……」
アリアがその時見ていたのは、偉大なる怪物ではなかった。
東の森に訪れた時から聞こえていた音ともつかぬ奇妙な音は、もはや無視できないほど大きくなっており、発生源を探して首を巡らせて、──彼女は二度ほど、まばたきをした。
その大きな暗がりのことを、始めは、廃鉱山の縦穴だと思った。
闇はどこまで続くかわからぬほどに暗く、吹き込んでいく風の音もまた、深い穴倉に終わりがないことを教えていたから。
(……いや。たしか入口は板が打ち付けてあって、封鎖されていたはず)
それなら何だろう?
訝しんだ視界の端で、闇が動く。
パン生地を薄く延ばすかのように、すでに十二分に大きな輪郭を、さらに広げる。
(違う。鉱山じゃない。……これは)
朝焼け色の瞳が、これ以上ないほどに見開かれた。
(生き物!!)
それは巨大な、あまりにも巨大な、口であった。
神話級の魔獣の出現に全ての赤い目が釘付けになったわずかな隙をついて、迷宮は、その姿をすっかりと作り替えていた。
脳みそ型の筐体は破裂しそうなほど膨れ上がり、ウミウシに似た口はおのれの全てを目いっぱいに広げ、表面を覆っていた繊毛は全てが編み上げられて一本の長い縄となった。
「アリア、きみはぼくの後ろに」
左手に炎の施条銃を構えたニュクスが、敵を見据えたまま、後ろ手に右手を伸ばした時。
──ヒュゴッ!
迷宮の腕は、たっぷり20ヤルク取った距離も物ともせずに夜闇を切り裂いた。
音を置き去りにするその速さは、さながら上空から滑空する猛禽類の狩り。
「……あっ!」
小さな悲鳴と同時に少年の手が空を掴む。半神たちが振り向く。
「!?」
彼らが状況を理解するのに要したのは一秒にも満たなかったが、音速を超える触手は、すでに小さな王をその口中に収めていた。
「離して!」
鋼色をした無数のリボンに絡めとられ、為すすべなくもがく編み上げブーツが、夜にあってなお眩しい白金の髪と朝焼けの瞳が、呆然と見開いて手を伸ばしたまま、圧倒的な闇のなかへ沈められていく。
「──アリアッ!」
ニュクスが迷宮に肉薄したのは、電光石火だった。
その速度は砦たちをも上回っていた。
人間体のオルフェンの身体能力が砦に敵うはずもなかったが、この時ばかりは可も不可も、是も否もなかった。
あらん限りの力で、闇の中に左腕を伸ばす。
そうして魔法使いのローブが迷宮の領域に分け入った瞬間、──熟れたイチジクが、爆ぜた。
一瞬の出来事だった。
だが目を見開いたままのアリアには、指先から赤いしぶきが走り一息に肩まで食らい尽くすさまが、コマ送りのようによく見えた。
ローブの左腕が迷宮からの風にあおられて、あらぬ方向へ舞う。
ニュクスの肩から先が、完全に消失したのである。
「先輩!」
「ッ!」
最後に左耳がバツンと音を立てて血煙に変わると、少年の膝がガクリと折れた。
噴き出した鮮血の勢いは厚いローブをも貫くほどで、夥しい失血を抑えようと、反射的に右手が左を向く。
だが──狂気じみた執念は崩れ落ちかけた膝を立て直し、残された手の行く先を変えた。
奪われていく少女を取り返そうと、闇の中に。
「ぐッ……!」
食いしばった奥歯にヒビが入る。
逆さにしたボトルの栓を開けたがごとく凄まじい速さで、生命が目減りしていく。
五分と持たずに、自分は死ぬ。
そんなことは、少年の激怒の前に些事だった。
(あれは黄金だ)
二十年前の夏至の夜、生まれたてのウサギのようなあどけない命を守ろうと、どれだけの人々が戦ったか。
行っておくれと笑った彼らが、どうやって死んでいったのか。
(ぼくだけは覚えている。あなた方がどれほど、この子を愛したか)
ニュクスの小さな姫は、千年王国が正真正銘その命と引き換えに守り抜いた、最後の黄金だった。
「か、え、せ……!!」
バリバリとけたたましい音を立てて白く明滅する視界であっても、熱く輝くロードライトガーネットは、真っすぐにアリアを見据えていた。
「……!」
右手を虚空に伸ばして今にも迷宮に飛び込もうとするニュクスを、見開いた朝焼けの瞳は呆然と見つめた。
一秒にも満たぬ速さで白金頭の脳裏を滑り落ちていくのは、何度も何度も聞かされた警句。
──夜の帷にとって迷宮は、決して戻っては来られない帰らずの門。
──足を踏み入れること、まかりならず。
それが何を意味しているのか、深く考えたことはなかった。
だが死の危機を前に全生命力をかけて稼働する脳が、今まさに起ころうとしている未来を正確に描き出す。
腕が消失したのは、オルフェンの腕が迷宮に押し入ったから。
耳が消失したのは、オルフェンの耳が迷宮の領域を掠めたから。
つまりニュクスがこのまま飛び込めば、迷宮は次に、彼の上半身を奪うだろう。
(……ダメ!)
背中のライフルを持ち替えながら装填して銃床に頬をつける、瞬きの間に行われた一連の動作の速度は、この時ばかりはどんな熟練の狙撃手も凌駕した。
迷いなく打ち出されたのはネットランチャー。
アラクネの糸で編んだ捕獲網は、片腕を失ってなおもう片腕を伸ばそうとする命知らずを過たず包み込む。
「姫君!」
「先輩を!」
「なっ……!?」
遠ざかる主を追って飛び込もうとしたティルダに与えられたのは、残酷な命だった。
背後にあるのは神話級の魔獣、瀕死の同僚、無力な人々。
目前にあるのは、死地へと取り込まれゆく主人。
選びようもないものを天秤の左右に乗せられて、気が遠くなりかける。
「お願いティルダ! みんなを守って!」
「……!」
ダメ押しで叫ばれた言葉に、ガーネットが泣きそうに歪んだ。
王が下した命令に逆らうことなど、できない。
「ダ、メだ……!」
網に取り込まれて後ろに倒れ込んだニュクスは、歯を食いしばり、ボタボタと脂汗を滴らせながら、それでもなお血の海のなかを這った。
「返せ……! 返せ!」
飛びそうになる意識を叱咤して、失血で爪まで真っ白になった右手で泥を掻く。
「その子を返せ!! キリアコウ!!」
血反吐混じりの怒号に、いかなる力もない。
迷宮は、はしたなく拡がり切ったその口を、つつましやかに閉じた。
ぶおおぉぉ……と遠い海を行く汽笛のような吐息が漏れる。
満貫成就の夜であった。
長らく焦がれた待ち人をたいらげて、彼は満足した。
二十二年の永い永い飢えが、ようやく満たされようとしていた。