第180話 すべて奈落にさようなら(1)
木立や海辺に、漁火のような灯りがいくつも揺れる。
「いかん見当たらない!」
「波打ち際に子どもの足跡が残ってたぞ!」
「ひょっとして、海に落ちたんじゃ……!?」
「おぉーーい! お嬢ちゃーーーん! お坊ちゃーーーん!!」
ひとり残らず起き出したイリオン人とメリディエス市民、そしてグウェナエルの貴族一味は、手あたり次第に声を枯らして子どもたちを探していた。
「ネメシス、どうです」
『んんん~~~。……う~ん、う~~~ん』
岬の家の一階では、ダイニングテーブルに乗せられたアザラシのランプが唸っていた。
『……はあ、ダメだね、いくら見ても近くにはいない』
「そうですか……」
「ダメかああ~~~!」
アリアたちは、ネメシスの探知魔法を用いて周辺を捜索しているところだった。
誰もが寝間着から普段着に着替えており、アリアも草色のツナギを着込んでいる。
「いなくなった子どもたちは全員、貴族の子女よ。安価な近距離用なら、転移術符を持っていてもおかしくはないわ。もっと範囲を広げなさい」
ソファーに腰かけたエミリエンヌは、両隣で真っ青になっているソランジュとガブリエルの肩を抱いていた。
──岬の家に到着した時、アリアがチンピラと大差ない恰好であるのを見て、着せ替え人形仲間の貴婦人たちは白目を剥いたものだった。
エミリエンヌに至っては扇をプルプルと握りしめて、顔面で『そのふざけた服を今すぐ燃やせ!』と全力主張したが、養女は見なかったフリで黙殺している。
「姫君。扉にこれが」
外から戻ってきたティルダが差し出したのは、……だれが見ても、なんだかよくわからないものであった。
「……つるつるの、石?」
「ひらべったい卵?」
「あああっ! それ!」
椅子を倒しながら、ダミアン・フラゴナールが飛びついた。
「集音術式に転送処理をかけた盗聴装置……! ぼくがクリスの誕生日にあげたものだ!」
「……あなた?」
「あ」
ソファーから優雅に立ち上がったソランジュは、慈愛深い笑みを浮かべたまま腕を組んで仁王立ちすると、夫を前に空色の瞳をカッと見開いた。
「また物騒なものをプレゼントして! 七歳の聖餐日、クロスボウをあげようとした所業をあれっほどコテンパンに叱ったということを、もうすっかりお忘れのようですわね!」
「でっ出来がよかったものだから、つい~」
「ついじゃありませんわっ! まったくあなたときたら、作りかけの小型爆弾を玄関に置きっぱなしにするわ、花火だって言い張って庭で照明弾を打ち上げるわで、毎週毎週ろくでもないことばかり仕出かして……!」
「ごめんって~~」
「ごめんで済んだら警邏もご近所への詫び菓子もいりませんのよ!!」
「「「……」」」
絵物語のように理想的な家族に思えたフラゴナール一家のとんでもない一癖に、応接間に集まった面々は真顔になった。
「未発表の集音装置? 何それ、かっこいい……!」
ニコスだけがキラキラと目を輝かせていた。
「姫君……」
「たぶん、そう」
つまりクリステルたちは、岬の家の会話を盗み聞きしていたのだ。
(なっ何を話したっけ!? えっと、イリオンの生き残りがたくさんいるってことと、音寵をなんとか歌わないといけないってことの他に喋ったのは……! ぬあ~~思い出せ思い出せ思い出せーー!!)
頭を抱えて全力で記憶を捜索したアリアは、はた、と顔を上げた。
今宵ここで話したことは、途方もない目標ばかり。
どこか行く宛てを見出すような話題があるとしたら、ひとつしかない。
「あの子たち、もしかして……」
最悪の想像に、こめかみから汗が一筋伝う。
「迷宮に行っちゃった、かも?」
迷宮。
それは命知らずの冒険者にとっては憧れの黄金郷であり、底で待ち構えているものを知る人々にとっては地獄と同義の、果てしなき箱庭。
「何だって……!?」
夜の帷の強大さを理解しているイリオスたちの顔色は青ざめ、フレデリクの表情が強張った。
いくつもの息を飲む音とともに、──無垢材の床に、大きな紫色の羅針盤が広がった。
彼方から吹き上がる生暖かい風が、ポニーテールに結ばれたプラチナブロンドをあおる。
「転移します」
即断。
一瞬にして転移魔法陣を起動したニュクスは、「ネメシス。念のため確認しますが、近距離術符で転移できる範囲の迷宮は?」とアザラシに尋ねた。
『30スタディオンの距離にあるのはひとつだけ。キリアコウくんの迷宮だ』
「よりにもよってあいつか……」
端正な顔が、害虫の大群でも目撃したかのようなしかめっ面になった。
魔法使いは左手でアリアの手を握ると、消息不明の子どもたちの親に向かって、右腕を差し出した。
「ぼくの身体のどこかを掴めば、ともに移動できます」
風に癖毛を揺らしながら、「ですが」と警句を継ぐ。
「ゆめゆめお忘れなきよう。この街の外はすべて、人を喰らう魔獣の領域。踏み入れば最後、命の保証はありません」
口ではそう戒めながらも、その傲然と鋭い眼差しは『ま、親なのに来ないなんて腰抜け、いませんよね?』と雄弁に語っていた。
「……承知しておりますわ!」
ソランジュが少年の腕を握ると同時に、四方八方から手が伸ばされた。
「ニュクスさま、ぼくらも!」
「わたくしも連れていきなさい!」
「師匠、オナシャス!」
フラゴナール夫妻とリスナール夫妻だけではない、一階に集まった全員である。
「はいはいわかってますよ。だからここにいる人数を加重した陣をひいて……失礼、髪の毛を鷲掴みにしてるどなたか。掴むのは服のどこかでいいんですよ。イタタタタタ! ちょっと! 耳を引っ張るのやめてください! ローブの裾でも掴んどいてください! ──フードにおやつを入れようとするんじゃありませんカネラ!」
もみくちゃにされながらも、やっとのことで見えない方位磁石に右手を置く。
利き手の左は、アリアを死守するのに忙しいのだ。
「全員、口を閉じて息を止めなさい」
いつものように急発進する前に、ニュクスは一言言い添えた。
「さもなくば、肺がぺしゃんこに潰れますよ」
「!?」
転移に慣れていない面々の顔からゾッと血の気がひいた瞬間、魔法使いの指先が方位磁石を強く弾いた。
羅針盤に、古代数字の金の座標が走る。
「導け 東の森へ!」
岬の家に集まった全ての人を乗せて、瞬く間の永遠が入り江を渡った。
ねじれた枝、地面まで垂れ下がるツタ、節だらけの巨木。
「はああ~……。これは大自然」
メリディエス東の森をアリアが訪れたのは、初めてだった。
内陸のグウェナエルの広葉樹林や北方山脈の針葉樹林とは異なる有機的に曲がりくねる海辺の植物群は、今にも立って動き出さんばかり。
草の香りも濃い夏の夜、あたり一面に濃密な生命の気配が漲っている。
(なんか……変な音がする)
わずかに眉をひそめて、耳を澄ませた。
(……気のせいかしら?)
鼓膜に触れるのは風と葉擦れ、そして人々の立てる音だけ。
だが、聞き取れる範囲の外にある音が、ずっと、響いているような気がしていた。
長袖のツナギをたくしあげた華奢な腕に、さっそく大きなヤブ蚊が吸い寄せられていき……瞬間、シュボ! と発火した。
「ひえ!? 火の玉!?」
「ぼくの目の前でこの子の血を吸おうなんて命知らずな」
左手をアリアと繋いだままのニュクスは、右手から出した炎のしっぽをクシャリと握りつぶした。
「……たしかに、人間の匂いが残ってます」
ティルダは地面に片膝をついて、猟犬の嗅覚で周囲を探っていた。
「海風が強いのでハッキリと痕跡が見えるわけではありませんが、おそらく、この奥に向かったかと」
「皆の者! 散らばるな! 進むぞ!」
インゴルフの号令に合わせて人々が一歩を踏み出したその時。
──ズッ、グスッ……! ひっく……!
アリアの聴覚に、小さな泣き声が届いた。
「……!」
「どうしました」
「待って。いま」
目を閉じて、鼓膜に意識を集中させる。
──怖い……怖いよお。帰りたいよお……!
「!」
音を掴んだアリアは、まっすぐに闇の中を見た。
「フランの声がする!」
「あっ、コラ!」
ニュクスの手を振りほどいて、夜の森を駆け出した。
夏場の生い茂った葉で月明かりも差し込まぬ山の中、ざらりとした手触りすら錯覚するほどに濃い闇が横たわる。
だが辺境踏破も慣れた身にとっては、行く手を阻むものではない。
倒木をくぐり、俊敏に茂みを飛び越えていく小さな背に追いつけるのは、ニュクスとティルダ、それから障害物を全部跳ね飛ばして猛進するインゴルフだけだった。
「待ってアリア、そっちには……!」
──その場所には、古いブナの樹を抜けた瞬間、突然たどり着いた。
白々と月光が差す森の切れ目。
朽ちた立て看板の奥に、トロッコの残骸が残る廃坑。
肌を粟立たせる異様な気配につられて中空を仰ぎ見たアリアは、足を止めた。
スタディオンとは古代ギリシャで使用された単位です!
国によって異なりますがだいたい1スタディオンが180m前後、30スタディオンは5.4kmで、1時間に人間が歩ける距離とされていました。
古代ギリシャ人かなり健脚です。




