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旋律のアリアドネ-底辺ヒロインは王冠に手を伸ばす-  作者: 長谷川愛実(杉山めぐみ)
― 2章 8000回目の朝に目覚めよ ―
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第177話 リトル・トークス(3)

 すっかりしょげた肩を、つんつんと突かれる。


「もう。何を見てたら、自分のことを人から好かれる性格じゃないなんて思っちゃうのかしらね」


 指の間から覗くのは、呆れたように笑う顔。


 アリアは人差し指と中指を自分の目に向けてから、同じ二本指でニュクスを示した。


 労働者階級の親しい者たちのあいだで交わされる気安いハンドサイン──意味は、『いつも見ている』。


 王室典範にうるさい一角獣(モノケロス)たちが目にすればガミガミとお小言を落とすだろう仕草であったが、高貴な血筋を気取らないアリアの性質は、ニュクスにとってとても好ましかった。


 そこだけでなく、何もかも。


「気付いてないみたいだから、特別に教えてあげます。先輩がお人好しだってことも、人のことを放っておけない世話焼きだってことも、とっくにみーんな知ってるって」


 二本指の向こうで、小さな太陽が笑う。


「大事なことだから、ちゃんと覚えておいてくださいね。あなたがわたしたちのことを愛して止まないから、わたしたちもみんな、あなたが大好きなの!」


「……!」


 至近距離で花火が弾けた。


 夜が沈んでいたはずの視界にはにぎやかでカラフルな光がキラキラと散らばり、鼓膜のすぐそばではパチパチと音を立てて星が爆ぜ、ニュクスは顔が見えないように両手で覆った。


「きっ、きみという子は~……!」


 長袖のローブはアリアの尻の下に敷かれているので、半袖の夜着しか身に着けていない腕では真っ赤になった頬も額も耳も隠しきれない。


 白状すれば、ほしかったのは『みんな』ではなく、『わたしは』の一声だったのだが……。


 物足りない気持ちを上書きして余りあるほどに眩しい言葉は、今日も紅紫(マゼンタ)の視界を簡単に滲ませた。


(こっこのままでは脳が溶けてしまう! もう限界だ。寝かしつけよう!)


 左の指先で空間をなぞれば、魔法の支配者にしか見えない亀裂が虚空を走る。


 この世ならぬ場所にある、第五元素界が開けた口。


 迷いなく突っ込んだ魔法使いの手が、二つのマグカップを取り出した。


「あっそれ……もしかして、お花のお茶?」


「ええ。きみが好きな、カモミールとラベンダーのハーブティーです」


「やったー!」


 たった今だれかが淹れたかのように温かく湯気を立てるお茶に、ティースプーン一杯のハチミツを垂らしてカラカラとかき混ぜると、「どうぞ」と手渡す。


 黄色いウサギとたんぽぽが描かれたカップは、アリア専用である。


「熱いから気を付けて」


「ありがとうございます! これおいしくて大好き! でも飲むといつの間にか記憶が途切れて、ベッドの上で朝になってる気がするのよね~?」


「気のせいですよ」


 自分もマグカップに口をつけながら、ニュクスは海原を見下ろした。


(今日は、()()()()()()()()()だ……)と、ほんのすこし、──本当にほんのすこしだけ、落胆を隠して。


 二年前。


 七日七晩の責め苦を受け、極歌に呑まれて焼死寸前で救命され、まだ全く回復しきっていない状態で血まみれの長い思い出を見せられたアリアが取った行動はまさかの……プロポーズであった。


『わたし、先輩が好きよ』


 予想外すぎて、椅子から転げ落ちるわ机に頭をぶつけるわの醜態を晒しまくったことは、忘れたい記憶である。


 頷くわけにいかない理由しか、少年は持っていなかった。


 だから理性の祝福すべてを駆使してなんとか断り、それで話は終わったと思っていたのだが、自分が事態を舐めていたことを悟るのに時間はかからなかった。


 アリアはそれからコツコツと、『好き』というジャブを放ち続けたのだ。


 他意などないような無邪気さで、しかし小揺るぎもしないあの調子で元気のいい一撃をぶちかまされるたび、飲みかけのコーヒーはむせるし、手に持ったフラスコは落とすし、壁に頭をぶつけるし、調合は失敗した。


 アニスとカネラから『無駄な足掻きしてないでさっさと屈服すればいいのに』と憐れみの視線が注がれていることも気づいている。


 だがどうあっても、自分が取れる選択肢はひとつしかないのだ。


(だって、きみは……)


 ニュクスが知るアリアという少女は、諦めが悪い頑固者で、正気の沙汰ではないほどに屈強で、目が離せないほど気高く、──お化けを怖がって半泣きで逃げこんでくる幼い子どもであり、底抜けにお人好しで温かな女の子だった。


 愛を深く知っているから、捨て置けないだけ。


 だれのことだって愛せるから、せっかくなら一番どうしようもない相手を救おうと、手を伸ばしてくれているだけ。


 飴玉を分けるようにして与えてくれるそれは恋ではなく、同情や責任感からできたものであることを、ニュクスはよく承知していた。


 承知しているというのに、──世界は雨上がりの空のように、どうしようもなく輝いた。


 ふわり、と隣で湯気が大きく揺れる。


「あ! あわっ、いけない……」


 早くもまどろみかけたアリアが慌てて持ち直したマグカップを、少年はひょいと取り上げた。


 華奢な手を検分して、湯がかかっていないこともぬかりなくチェックしておく。


「もう寝なさい。ベッドまで連れていきます」


 あの夢を見たあとにも関わらず、自分の声がこの上なく穏やかであることに気づく。


「待って待って。寝落ちする前にまだ、やらなくちゃいけないことが……」


「そんなものないから待ちません」


 問答無用で小さな身体を背中に背負うと、麻の夜着越しに温かな重みがじんわりと沁みて、ロードライトガーネットが幸せそうに細められた。


(あと何回……こうして、きみを背負ってやることができるだろうか)


 ふと、小さく長く息を吸う音が、皮膚に触れた。


 ──もしもわたしが イチジクの木だったら


 あなたの上に影を落としたい


「……!」


 少年に届いたのは、静かで優しい旋律だった。


 誰にだって聞き覚えのある、ありふれた懐かしい子守唄。


 ──手のひらのように 大きな葉を伸ばして


 夏の盛りの重い日差しが あなたの眠りを妨げないように


「優しい眠りが、あなたに訪れますように……」


 (せわ)しない海辺に越してきて以来久方ぶりの王の歌は、最後にワンフレーズだけ付け足して、小さな祈りとなった。


 日の当たる国で生まれた子どもなら一度は歌ってもらったことのある子守唄に、ニュクスの脳裏にも、さんざめく木漏れ日の中で自分の髪を撫でる大きな手の感触がよみがえった。


(兄上? いや、違う。もっと薄くて華奢で、竪琴を爪弾くような長い指をしていて……もしかしたら、ひょっとして、この手は)


 何も忘れない脳のくせに、どれほど目を凝らしても光でかき消されたその人の顔は像を結ばず、ただ風に吹かれて揺れる緑陰だけがきらめいた。


 ニュクスと同じ黒いくせ毛を長く垂らして、愛おしくてならない宝を確かめるように、飽きることなく撫でつづける手。


(……そうだった。ぼくを満たしているのは、あの短夜(みじかよ)だけじゃない。そこに至るまでに歩いてきた日々もこの子と出会ってからの賑やかな夜も、ぼくのもの。だれにも奪えない、ぼくだけのものだ)


 小さな身体を支える手に、少しだけ力を込めた。


「きみはどうしていつも、ぼくが忘れていたことを思い出させてくれるんでしょうね」


 相手はおやすみ三秒の猛者である。


 返答はないものと思ってこぼした問いには、「ふふっ……」と、すでに夢を見ているような小さな笑いが返ってきた。


「そんなの、お互いさまだわ……。先輩だっていつも、わたしがほしいものをくれるもの……」


「ぅえ!? ぼくが、きみに!? いっ、いつ……!?」


 声が裏返る。


 もしかして彼女の言葉はただの慈悲ではなくて、まさか本当に、自分のことを──


「……」


「……」


 ドキドキと面食らった少年に返されたのは、今度こそすこやかな寝息であった。


「はあぁあ~~、まったく。本当にきみは、眠りの神にも愛されている……」


 ニュクスは笑い混じりのため息を漏らしながら、自分の左肩にこてんと乗った丸い額を優しく眺めた。


 白状すれば、このところ……自分とは違うスルスルとしたまっすぐな髪の柔らかさや、猫のような瞳に吸い込まれそうな心地、オレンジの花の甘い香りが、やけに意識に上るようになっていた。


 こちらを覗き込んで笑う顔を思い出すだけで、落ち着かないような、何でもできるような気持ちになった。


 この感情がなんて名前のものなのか、実は、全力で知らないフリをしている。



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