第18話 先生たち(2)
訓練着を脱いで汗を拭い、午後用のワンピースに着替えて一人きりの昼食を摂ったあとも、アリアは上機嫌だった。
オーレルは最高に素敵な先生だったからだ。
(おじいちゃんがいたら、あんな感じかしら……!)
この調子で行けば、学校を卒業するころには何らかの手に職とコネを身に着けているだろう。前途は明るい。
楽しい気持ちのまま、ピアノの蓋を開けて、昔母が歌ってくれた、海向こうの街の古い軍歌を、散歩でもするような軽やかさで歌いながら奏でた。
歌という歌はすべて、アリアの思うがままに歌えた。
楽器はピアノと竪琴しか弾いたことはないが、どんな曲も練習さえすれば、理想通りに弾けた。
この喉と手首から先だけは、完全に自分で制御できた。
こればかりは母が授けてくれた才能だろうと、アリア自身で理解している。
「……驚いた」
不意に零れたような呟きに振り向くと、開け放した扉に青年がもたれかかっていた。
(知らない人……けどこの声、聞いたことがあるわ)
実は……セレスティーネの魔術式の授業を、こっそり盗み聞きしたことがあった。
一緒に受けたくないと言われはしたが、今後もこちらの知らない技術を使って悪さをされたらたまったものではない。
ちょっとでも手の内を覗き見て、対策を立てておこうと考えたためである。
──だが、いざ野ばらの茂みに隠れて耳を澄ませてみると。
『このように第二元素を仮想反転することで、力学的に異なる流れが生み出されるのです。これにより亜空間の移動が可能になります。さて前期にお伝えしたエクレースの定義ですが、パラケルススによると……』
(……)
アリアは、茂みからすっと立ち上がると、肩をすくめた。
『やれやれだわ』
自分が盗み聞くような内容ではないことを、ものの一瞬で悟ったからである。
その時、謎めいた呪文みたいな説明をしていたのが、この涼しげな声であった。
「どなたですか?」
「失礼しました。セレスティーネさんに魔術式を教授しているエルヴェ・フォートレルと言います」
左脚を少し引き、右手を左胸に当てた礼は優雅だった。
澄んだアメジストの瞳。
銀に近いまっすぐな長いアッシュブロンドが、さらりと額をすべる。
(リクハルトもそうだけど、フォートレル先生もとんでもない美形ね。……お姉さま、美形がお好きなのかしら)
「あんまり綺麗な歌声なので、セイレーンかと思ったよ。ピアノもとても上手で驚いた」
エルヴェは妖精のような儚い美貌のわりに気さくな人柄らしく、子ども好きのする笑みを浮かべると、椅子をピアノの近くまで運んで腰掛けた。
「セイレーン?」
「歌のうまい魔物のことだよ。今はもう滅びた種族だけど、ぼくの父さんの時代には、船乗りはよく目にしたんだって」
「船乗り? 海にいる魔物なんですか?」
「そうなんだ。昔の海はいろんな魔物がいたんだよ」
エルヴェもオーレルと同じく、子どもが好きな優しい先生のようだった。
アリアは彼に魔術式を教えてもらっているセレスティーネのことを羨ましく思った。
「魔術式ってどんなことができるんですか? 空を飛んだり?」
「できるよ。そうか、アリアさんはまだ習ってないんだったね。場所や人によっては、符や詠唱がなくとも空を飛んだり、遠くまで移動したりできる。魔法みたいだよね」
「魔法じゃないんですか?」
「ふふ! 人間に魔法は使えないよ!」
「……」
アリアからすれば魔法と変わりがないが、先生からすると全く違うものらしい。
「アリアさんも魔術式に興味があるの? それなら、グウェナエル卿に言ってセレスティーネさんと一緒に授業を受けられるようにしてあげるよ」
キラキラとエルヴェを見上げていたピンクの瞳は、──とたんに下を向いて、鍵盤を映した。
「……それは……」
「どうしたの? ……嫌?」
「いいえ! わたしじゃなくて……」
「!」
明言せずとも、エルヴェはアリアと義姉の関係を、察したらしかった。
「……だから、先生の授業は受けられません。お姉さまの邪魔はしたくないもの」
「……そっか」
エルヴェもまた、すみれ色の瞳を傷ついたように伏せた。
「……ぼくの家は、あまり裕福ではなかったから、学校に入るまでは本で勉強したんだ」
年若い教師からふと、雨粒のような声が落ちた。
「そうなんですか?」
「うん。それでも学校は首席で卒業できたよ。入ってからも楽ではなくて、貧乏人っていじめられたけどね」
繊細そうに見えた瞳の奥に、──苛烈な炎が、またたいているのが見えた。
アリアが覗き込むと、エルヴェもまた、アリアの瞳を覗き込んだ。
「学ぶ環境は大切だけど、一番は本人の気持ちだ。──危機感と欲望」
「危機感と欲望……」
「学びにはそれが必要不可欠だ。それさえあれば、大丈夫。アリアさんは果たしてどうかな?」
「……」
アリアにとっても、それら二つは馴染み深いものだった。
半獣の孤児など簡単にすり潰されてしまうこの世界で、一人きりで生きていかなければいけない危機感と。
失われてしまった家族を──揺るがないものを、再び両腕いっぱいに抱きしめたいと願う欲望。
それこそが、いつだって自分を突き動かしてきた。
「……持っていると思います。……たぶん、人よりも根深く」
「そう」
エルヴェはニッコリ微笑むと、懐からメモを取り出してなにごとかを書き付けた。
「僕の本をあげるよ。あとは短杖と術符、インクが必要だけど、それは中古で事足りる。この店に行ってごらん、きっと用意があるから」
ピッと手渡されたメモには、プランケット邸の城下に広がる下町の住所が記されていた。
「ありがとうございます! 行ってみます!」
「うん。本は来週、授業に来た帰りに渡すよ。同じ時間にここでいいかな?」
「はい! あ、なにかリクエストありますか? お礼になるかわからないけど」
アリアが鍵盤に両手を載せると、エルヴェは「セイレーンの歌がお礼か。贅沢だな」と破顔した。
「じゃあ……アネモネの歌は歌える?」
「……」
酒場で聞いたことのある旋律を思い出して、アリアが前奏を奏でると、エルヴェは「待って、待って! 次に来た時に! 楽しみは取っておきたいんだ」と言って止めた。
「では、来週」
「はい、フォートレル先生」
「エルヴェで構わないよ。アリアさんの先生じゃないからね」
そうは言われても、姉の先生を呼び捨てにできるはずがない。
困ったように黙り込んだアリアに、ほほえましげな笑みを残して、エルヴェは帰っていった。
年若い教師を乗せた馬車が離れていく音を聞きながら、アリアはこっそりとリクエストの練習を始めた。