第176話 リトル・トークス(2)
「……ぼくはヘビの半神なのだから、視界を遮っても意味がないと教えたでしょう」
「あ」
赤いギンガムチェックのパジャマに身を包んだアリアは手を外すと、「今度こそ驚かせると思ったのに」と照れ臭そうにはにかんだ。
ふっくらとしたバラ色が、暗がりに慣れた目にことのほか眩しく映る。
「さっき寝支度してた時にね、カネラとニコスがケンカしちゃったんです」
洗い立ての髪を海風に遊ばせながら、アリアはニコニコと隣に腰を下ろした。
先の行動が予想できていたニュクスは、小さな主人が硬い瓦に触れることがないように、すでに自分のローブをふんわりと広げておいてある。
「理由がもう、かっわいくて! 明日のお昼ごはん、ミートボールにしてもらうかハンバーグにしてもらうかで、どっちも譲らなかったの! だからわたしが、豆のごった煮にしてくださいってシンシアさんにさっさとリクエストしておきました。えへへ、これぞギョフの利!」
能天気なお喋りは、シュワシュワと弾ける甘いソーダ水に似ている。
「そういえばハンバーグを初めて食べた時、おいしすぎて涙ぐんだ子がいたような?」
「も~! 忘れてって言ってるのに!」
「ふふ」
少年が眠れずに星を見る時、少女はいつも横に座った。
何をしているのか訊くことも、早く寝たほうがいいと促すこともない。
ただ朗らかな世間話をするだけ。
こころよい笑い声に耳を傾けているうちに、断末魔や恨み言は鼓膜から遠ざかり、血と硝煙がこびりついていたはずの鼻腔は、気づけばオレンジの花の淡い香りに上書きされた。
(なにも話していないのに……)
どうしてなのかこの小さな姫は、ニュクスが長い夜を持て余していることを知っているのだった。
「わ~、すごい空! 目の前に海しかないからかしら? プランケットにいた時より、ずっとたくさんの星が見えるわ」
出会った時より少し大きくなった、けれどいまだ小さな右手が、はるかな宇宙を指さした。
「先輩、あの青い星はなんですか?」
「あれは、アン・ナスル・アル・ワーキア」
クスシヘビの半神の裸眼には、アリアが指さす星の色も形もおぼろにしか見えないが、癖毛の頭のなかには天上のあらゆる星図が正確に保管されていた。
「鷹を意味する変光星で、シェリアク、スラファト、アラドファルと合わせて、プトレマイオス北天21星座の第8位、竪琴座を成します」
「竪琴?」
桃色の瞳が興味深そうに瞬いた。
アリアにとって、竪琴は特技のひとつである。
実生活ではそこそこ不器用なくせに、楽器に触れた時だけは別人のように、この上なく完璧に爪弾いてみせるのだ。
耳あるすべての者から呼吸を奪うほど。
(この子の手首から先は、神々のもとにある……)
「あんなに大きな竪琴、弾いてみたらとっても気持ちよさそう。ふふ! そんなことができるのはきっと、神さまくらいね!」
クスクスと耳をくすぐる笑い声と空を見上げる横顔に、なぜか胸が詰まる。
ニュクスは努めて目をそらし、「そうとも限りません」と、痛痒い心地を誤魔化すように自分も星を見上げた。
「あの竪琴ひとつを携えて、リオンダーリの始祖……きみの古い祖先は、冥界へ降りていったのです。竪琴を鳴らし、歌を歌い、二度とは戻れぬ路を臆すことなく歩んでいき……その調べの妙なる美しさが、この世の律を書き換えた。まあこれは史実ではなく、ただの星々の起源……創世神話の一節に過ぎませんが」
「始祖、っていうとわたしの……んん~~? ひいひいひいひいひいおじいちゃん、くらい?」
「ふはっ! 七世遡ったくらいでは、まだまだ!」
世事に長けた少女にしては珍しく年相応の問いかけに、少年はつい噴き出した。
ボアネルジェスやニコス相手には、ごくごくまれに掠めるような笑みを浮かべることはあれど、基本的にこの気難しい魔法使いの表情筋は死んでいる。
軽蔑、嫌悪、嘲笑……せいぜい、この程度のレパートリーしかない。
だがアリアが近くにいる時だけは驚愕に目を見開くことも、真っ赤になって怒ることも、声を上げて笑うこともできた。
かつて日の当たる国で生きた、幸せな少年がそうであったように。
「ぼくたち半神にとって二百年程度、つい最近のことですよ。これはね、アリア。イリオンができるよりももっと前……千年よりもずっとずっと、昔のおとぎ話です」
月明かりしかない深い夜だというのに、プラチナブロンドを見下ろす紅紫は眩しそうに細められた。
「さあ、そろそろ日付が変わる刻限です。もう休みなさい、ぼくも適当に戻りますから」
夢で浴びた怨言の痛みが消えたわけでなくとも、今のひと笑いだけで、ニュクスはじゅうぶんに報われた。
だから完全朝型の相手を慮って提案したというのに、しばし黙考したアリアは、なぜか悪戯な笑みを浮かべた。
「……聞いたわよ、先輩」
崖下の草地を目で示す。
「あのチャボ小屋の横の、どでかい陥没……。隕石が落ちてきたって先輩が言うからつい信じちゃったけど、ほんとは今日、ティルダと一触即発になった時にこぶしで開けたんですよね?」
「!?」
サッと顔色を変えたニュクスの脳裏を駆け抜けたのは、──次にケンカしたら写し絵を押収するぞという、ペナルティにしては珍妙過ぎるあの脅しであった。
(ま、まずい! あれを没収されてしまうと……!)
紅紫の双眸に搭載された、魔法式写真機。
正々堂々撮りためている隠し撮りはすでに天文学的な枚数に上り『正気の沙汰ではない』という認識は全ヤカラたち満場一致のところであるが、これはニュクスにとって実のところ、偏執的コレクションの域を超えた絶大なるお守りであった。
夜半。慕わしくも耐え難い悪夢を見て目を醒ます。
おのれが作り出した死者の声は傷跡を過たず抉り、時には情けないことに視界が涙で滲む。
たった一人で夜に呑み込まれそうな瞬間、ふと目を向けた枕元に……口いっぱいにサツマイモを頬張っている大事な女の子の写し絵があると。
どうしようもなく、ホッとするのだ。
白金の頭部をそっとなぞれば、柔らかな猫っ毛を撫でた感触が指先によみがえる。
くるくると変わる表情を思い出しているうちに、強張った身体は次第に緩み、自然と瞼が落ちていく。
そこから先は──二足歩行するイモムシ相手に戦わされたり、マジシャンの全国大会にシード枠で出場させられたり、切った芋揚げから現れた中年男性の身の上話を聞かされたりと、トンチキな夢の世界がめくるめく広がり、起きた時には謎の疲労感があるのだが……。
小さな女の子の他愛ないお喋りのようなまどろみは、ヘビの少年に唯一許された優しい眠りであった。
「あれは……っ! ぼくではなく、あっちが開けたんです! まったく顔を見れば、人のことを窃視趣味だのストーカーだの盗撮魔だの、悪口を言って!」
「悪口? じ、事実じゃないかしら……?」
アリアは首をかしげながらも、「も~、アニスが止めてくれてよかったわ~。せっかくお客さんが来てるっていうのに、みんなが蛮族だってバレちゃうとこだった」と笑っている。
腕で抱えた膝のうえに、白金色の頭がこてんと乗っかる。
「予言します」
ニュクスを映すのは、先程まで眺めていた天の光を遠い星雲まで残らず映し取ったかのように、キラキラと輝く瞳。
「ティルダも先輩も、きっといいお友だちになるわ。ちょっと時間がかかっても間違いありません。だってわたし、ふたり揃って、大好きで大好きでしょうがないもの!」
「……!」
遠慮のない輝きを至近距離で直視してしまった少年は、耐えきれずに片手で顔を覆って目を閉じた。
(眩しい……)
ニュクスの小さな姫の語ることは、いつもこうだった。
何もかもがいい方に向かうのだと言って憚らず、地上にはこれから素敵なことしか起きないのだと謳って、一片の照れも含羞も見せない。
恐れ知らずのその楽観には、これまで何度だって奮い立たされてきたものだが……今回に限っては一点、聞き流せないことがある。
「ふたり、揃って? ……アリア。表現は正確にしなくてはいけませんよ」
やれやれと首を振りながら、呆れまじりに窘める。
「もちろんぼくであれば、きみの本意は常に理解できますから問題はありません。ですがその言い方では……あたかも、このぼくと同列の者がいるように聞こえてしまいます」
ところでニュクスは、自分を天才だと自負していた。
いや少々語弊がある。
この尊大で傲岸不遜な若き魔法医は、自分のことを『人類史上まれに見る、圧倒的な天才』だと認識していた。
大いなる罪を背負った生きるに値しない存在ではあるが、それとこれとは別。
自己認識の第一義にまず、自分など奈落の底に落ちるべき人間である──という断固とした否定を据えたあとには、世界一の医師、千年に一人の魔法使い、万能の錬金術師、クスシヘビの究極体、あらゆる物理法則の主人、ただひとりにして万人力の夜の帷であるという、遠慮ひとつない自画自賛が続く。
なんの矛盾もない。
敵もろともさっさと死んだほうがいい、人類の最高傑作というだけのことである。
その結果この大変残念な先輩は、『アリアがもっとも頼みにしているのももっとも心を許しているのも、ニュクス・ピュティアに間違いないのだ』と、北方山脈の岩床のごとく強固に信じているのだった。
「たしかにティルダがふたりといない貴重な人材ということは、ぼくも認めます。ですが、やはり少々……表現に誤謬があるのでは? この場合適切なレトリックは並列表現ではなくて、ええと、つまり……」
そしてこれは本人の自己認識に含まれていない、客観的な事実であるが──
「……ぼくのことのほうが、好きですよね?」
どうしようもなく、懐が狭かった。
「……」
アリアは、一度はグッとこらえた。
こらえたのだが、身体はだんだんとくの字に曲がり、肩がプルプルと震え出す。
「……ぷっ、く! あーはっはっはっは!」
顔を上げるやいなや、夜闇に明るい笑い声が弾けた。
「も~! こんな夜遅くに爆笑させるのやめてもらえます!?」
「ばっ、爆笑!? なぜ!?」
「あはははは……! そんなしょーもない質問、ノーコメントです!」
「ぐっ!」
涙が滲むほどの大笑いとともにはぐらかされて、ニュクスはぷいっと顔をそむけた。
「そっ、そりゃあ、ぼくが人から好かれる性格ではないことくらい、先刻承知です! そんなこともう、六歳の時から! だから、きみがぼくより好きになる者が現れるくらい……そ、そのくらいっ……なんてことありません! 当代の王のオルフェンがただひとりという厳然たる事実は、変わらないのですから!」
しどろもどろに強弁しながらも、これがただの虚勢に過ぎないということは、さすがの朴念仁にもわかっていた。
何せ言いつのれば言いつのるほど、メンタルがゴリゴリと削られていく。
(も、問題ない! 問題ないだろうが! だってぼくはこの子の唯一の夜の帷で、ほぼ兄代わり! 他の者にはない千年前からの契約を持っていて、天才だし、手先も器用で、料理も髪結いもできて、刺繍だって得意で……いや、無理だ! つっ、つらい……!)
自分のふがいなさに、ニュクスは頭を抱えた。
(バカかぼくは! 今からこんなザマで、いったいどうするんだ……!?)