第174話 高慢と偏見
岬の家の中では、集まった赤い瞳たちがいっせいに身を乗り出していた。
「姫さま! 隠れ里と接触したって!?」
「ど、どうだった!?」
「ふっふっふ~」
期待でいっぱいの眼差しを浴びたアリアは、いつになく自慢げな笑みを浮かべながら、小さな手で壁の世界地図をぺしっ! と叩いた。
「なんとっ! このユスティフ全土! たーーっぷりと生き残りが隠れてましたっ! その数、少なくとも~……八千三百人!」
「はっ……八千!?」
一拍ののち、──なみなみと湯を満たした風呂に飛び込んだように、歓声が沸き立った。
「ゆ、夢みたいだあああ!」
「おれたちだけじゃなかった! この大地の上に、まだそんなに仲間が生き残っていたああ!」
「よくっ……よく、生きててくれた!」
感涙を滲ませた人々が、肩を抱き合って喜び合う。
「それでいつこっちに合流するって!?」
「盛大に祝わねえとなあ!」
「そのことなんだけど……ひとつ、あちらから条件が」
「条件?」
パチクリと瞬いたそれぞれの赤を見つめながら、アリアは人差し指で、自分の頭頂部を指さした。
「王たる証を示してみせよ」
「……」
いくら口の利き方を知らないイリオン人といえど、最高権力者に向かって言ってのけるにはあまりに尊大な要求。
天井から無数に吊り下げられたランタンがまたたき、怪訝な顔で見つめ返す人々と、軽く微笑んだままの朝焼けの瞳を星のように照らした。
「八千三百の生き残りを手に入れるミッション最後の挑戦は、わたしが正真正銘イリオンの王であると証明すること。この血に流れる力──音寵の調べを以て、すべての迷宮を解放する。あるべきものを、あるべき姿に戻せ。これが、彼らの出した条件」
高揚は、にわかに鎮まった。
「音寵……」
夜の帷でない人々にとってそれは、寝物語に親から聞かせられた伝説やおとぎ話の御業と同義であった。
「姫さま……。その、調べをご存じで?」
知っていれば、これまで歌わないはずがない。
わかっていながらも尋ねたマキスの眉は、横に振られた白金色の頭を目にして、みるみるうちに下がっていった。
「一度だけ、先輩の記憶でお母さんが歌うのを聴いたことはあるけれど、残念ながらそれっきり」
「聴いたことがあるのかい!? なら……!」
「いいえ、ヨランダ。あれは、この子の音寵ではありません」
前のめりになったボアネルジェスの母を、張り詰めたニュクスの声が制した。
「音寵とは、御世によって詩もリズムも旋律も異なる歌。ゆえに当代の調べはいかなるものなのか、知る者は地上に存在しません。……その存在意義を考えたら当然のこと。あれはただの歌ではなく、狂った音階を調律するためのものなのだから」
自分の姫を溺愛してやまない夜の帷の少年は、まるでおのれ自身に困難な命題を課せられたかのように、思いつめた顔で唇を噛んだ。
「当然、夜の帷たるぼくとネメシスは、ユスティティアさまだけでなくテミス陛下の歌をも耳にしたことがあります。……朝に夕にぼくらへと降り注ぐ、あの優しい歌を忘れることなどできない。ですが、いくら教えてやりたくとも、自分の感覚器を通した写し絵を見せるのが精一杯なのです。あんなもの、リオンダーリの耳からすれば、不出来な雑音に過ぎませんが……」
紅紫の双眸が、テーブルを映して悔しげに歪んだ。
「歌えないのです。……このぼくが歌うことを許されない唯一の旋律が、音寵」
──色とりどりのランタンが、壁にかけられたタペストリーを照らし出す。
古めかしい額に収められているのは、創世の神話を描いた麻布の図画。
またたく灯りを受けて揺らめく刺繍画には、古いおとぎ話──翡翠色の空を背に、竪琴を手にした金色のライオンが飛翔し、燃え盛る炎の森、三つの河、七つの崖を越えて紫水晶満ちる深い洞窟へ飛び込んでいく、神代の伝承が記されていた。
「調律の歌を諳んじることができるのは、神々に愛されし当代の獅子ただひとり。約束なき者が歌うこと、律の冒涜に他ならず。かくのごとし不遜を為す者、誓約の炎に呑まれて魂まで灰になるべし。──オルフェン十一家族に言い伝えられている、不可侵の戒律です」
今度こそ、誰もが言葉を失って静まり返った。
神話染みた伝承など、よその国の生まれであれば未明の地の民間信仰だと鼻で笑うような時代。
しかし彼らイリオスは、この世の果てから自分たちを見守る強大な何かがあることを知っていた。
裁判の開会を示してひとりでに鳴る槌。
虚空から現れて刑を執行する純金製の鞭。
極歌を歌う者の背後に出現する、巨大な剣、天秤、竪琴、機械式時計。
日々の炊事で『お分けください 炎の小枝を』と歌うと、竈に触れて火を灯していくだれかの透明な右手。
輝かしくも恐ろしく、壮大でありながらささやかなそれらの御業は、あの夏至の一晩途切れたほかは、千年の長きに渡って彼らともにありつづけた。
比類なき夜の帷であろうと抗うことは許されない、愛と裁きの神なる力。
「だーいじょうぶ!」
畏れと不安を滲ませた人々の頬を叩いたのは、いつもどおり屈強な笑顔だった。
インク壺を羽ペンで軽やかに鳴らし、アリアは気楽そうに小首を傾けた。
「どの道、音寵はなんとかしなきゃいけないってのはわかってたこと。それさえ見つけられたら、隠れ里のみんなも迷宮の夜の帷たちも、みーんないっぺんにゲットできちゃうなんて、むしろラッキー! あとは猪突猛進、精神一到! ズバッと目覚めてツルッと歌うだけ!」
無謀すぎる挑戦を前に、そろって眉を下げた民をものともせずに、いつだって揺らがない朝焼けの瞳が輝いた。
「わたしが約束を破ったこと、これまでにあった? ほしいものはなんだって、必ず手に入れてきたわ。絶対にすべての家族を取り戻して見せるから……ドッシリ信じて、待っていて!」
太陽のような、ピカピカとした笑顔。
心配そうに見つめていた赤い瞳たちは、やがて根負けの苦笑いを漏らした。
「……しょーがないっ! 姫さんがそう言うんなら、あたしらは待つだけだ」
「まったく。先王陛下のごとく、頑固な王であらせられる」
「ドッシリ信じて待たせてもらいますからね!」
どの道、同胞を迎えるまでにやることは山ほどあるのだ。
あまりのタスクの多さに全員、白目を剥くくらいには。
「音寵……オルフェン……! クッ! わたくしの頭脳を以てしても、知らない単語がいくつも出てきましたわね……!」
ガリガリガリ! と盗聴内容を手帳に書きつけているのは、伯爵令嬢クリステル・フラゴナール。
「けど……あの子の目的を類推することはできましたわ」
インクの付いた指先が、まっすぐ暗い大海原を指差した。
「迷宮」
リスナールの兄弟の緑の瞳も引き寄せられるようにして指先の向こう、廃灯台が伸びる岬を眺めやった。
切り立った岸壁の向こうには、打ち捨てられた鉱山と未踏破の迷宮があると聞く。
「あの子の次なるチャレンジは、迷宮の解放。そうハッキリと耳にしました」
空色の双眸が伏せられて、注意深く思考の海を探る。
「昔読んだ『探索調査録』によると……迷宮という奇怪な構造物が崩れるのは、主人が息絶えた時。つまり、あの子が言うところの迷宮の解放とは、怪物を討伐してみせるということではないのでしょうか? その成果を手土産に彼らは、大きな集団と手を結ぼうとしている」
つらつらと述べられていく淀みのない論理に、オーギュストとフランシスはただ口を開けて聞き入ることしかできない。
「推測するに……きっとあの子はそう遠くないうちに、迷宮に足を踏み入れるでしょう。未踏破の迷宮の最深部──『子宮』まで降下し、見事怪物を討ち果たして、生きて帰ってくる気なのですわ」
「バカな!」
兄弟はそろって顔色を変えたが、弟のほうはしばらく地面を見つめたのち、「……いや、あり得る」と、険しい顔で口元に手を当てた。
「はあ!?」
「兄さんも知ってるだろ。アリアはたった一人で翼竜をハントできるんだ。あのおっちょこちょいが何をどうやってるのか、ちっとも想像できないけど……ものすごーくマヌケな翼竜なのかもしれないって、ちょっと疑ってるけど……。さっきみたいにとんでもない訓練を毎日してるっていうのなら、もっとすごい大物を狙ったっておかしくないよ」
「いやおかしいだろ!?」
およそ、一個大隊相当。
迷宮の平均必要兵力と伝えられている指標とそれらの圧倒的物量を実感で知っている新米騎士は、青い顔をしながら「いいか?」と指を立てた。
「踏破に必要だとされる兵力は、一般的に千。それらの兵は、ここ二十年の間、発見されているすべての迷宮に投入されてきた。ネーヴェもそうだ。つまり、今も屹立している迷宮というのは、千人の軍人を以てしても破ることができなかった鉄壁の地獄。人間が足を踏み入れることは許されない土地……それが、迷宮という場所なんだ」
「これはチャンスです」
「何が!?!?」
少年の説明をまるっと無視して、クリステルは「わたくしに考えがあります」とカイヤナイトを光らせた。
「わたくしのこのブローチ、実は仕掛けがございまして……音を放つことによって周囲の構造を探知し、半径二百ヤルクほどの地図を文字盤上に展開してくれるんですの。娘が迷子になることがないようにと、八歳の誕生日に父が贈ってくれたもの」
父からの愛を思い出し、わずかに眼差しを和らげた令嬢が示した手のひらほどの装身具は、紺碧と黄金から成る羅針盤に似ていた。
「それは恐るべき発明ですね。で……そのブローチと迷宮に、どういう繋がりが?」
ひしひしと嫌な予感を抱き始めたオーギュストが、血の気の戻らない顔色で問いかける。
「迷宮の出口は一種類だけですが、入り口には二種類あります。舌を伸ばすようにして近づいた者を飲み込む喫飲型のラーリンガスと、そこにあってただ動かない、門型のピュレー。ヴェスパ岬の奥にあるのは、磔刑のネーヴェ。入口の種類は……比較的安全な門」
クリステルは手帳にスラスラとスペルを書き出しながら、なんてことのないように言い放った。
「何も、踏破などだいそれた目的ではありません。一瞬だけお邪魔して、内部の地図を持ち帰る……ただそれだけの、簡単な任務」
「簡単だって!?」
オーギュストの声がひっくり返った。
「おれの説明を聞いていなかったのですか!? 千人の! 訓練を受けた現役の兵士が挑んで帰ってこられなかったのが! 磔刑のネーヴェ! いったいどういう頭をしていたら、そこに潜り込もうなんて発想が出てくるんだ!?」
「悔しくはないのですか」
「!」
聡明でいながら、──相当に直情型でもある空色の瞳が、二人の少年を見据えた。
「オーギュストさま。あなたはここに至るまで、どんな年月を歩んできましたの? 苦い思い出など何もない真綿に包まれたような日々だったというのなら、何も申しませんわ。……わたくしは、違いました」
癖ひとつない栗色の髪を海風にあおらせて、横顔を向ける。
青い双眸は、そこに火が燃えているように虚空を睨みつけていた。
「魔術式の大家たる父と、西方に才女ありと謳われた母のひとり娘として、恥じないように生きてきました。学問と名のつく全てでだれかに首席を譲ったことは、一度としてありません。それはわたくしにとって当たり前の成果ですが……当たり前に、手に入れてきたわけじゃない。女の子たちから笑われようと、男の子たちから本の虫と悪口を言われようと、かじりついてかじりついてかじりついて、これまで歩んできたのですわ」
小さな手に力がこもり、羽ペンが折れんばかりに握りしめられる。
「なにも知らない子たちから、空回りの役立たずだと言われて引き下がれるような……! 困難に立ち向かう親友をただ眺めて、お友だちサービスで人形遊びをしてもらって満足するような! そんなプライド……生まれてこのかた、持った覚えはないのです!」
「……」
危険極まりない冒険に向かうには、あまりにも子どもじみた意地。
だが唇を噛みしめた少女の憤懣を失笑ひとつで片付けることは、オーギュストにもフランシスにもできなかった。
タコの潰れた指の付け根の痛みも、限界を超えたあとの嘔吐も、冬の夜更けに机に向かう足先の冷たさも、叱責も鞭も落胆も、すべて彼らの毎日だった。
追いつきたいと願う日々を、同じように踏みしめてきた。
「どういうプランを……立ててるの?」
わずかに熱を滲ませたフランシスの問いに、クリステルは「証言を見る限り……深度が上がるにつれ、罠や怪物の脅威も上昇します。つまり入口付近はまだ手ぬるいもののはず」と、顔の前に人差し指を立てた。
「迷宮は、侵入者の持ち物をすべて飲み込むまでは、決してその口を閉じません。だれか一人が外に残り、その者に長い糸を持たせて、あとの二人が行けるところまで進む。そうして、わたくしの魔素探索装置で周囲のデータを採取する」
「行けるところまでって、どうやって判断するの? 入口のすぐそばに怪物が待ち構えていたら?」
「その時は瞬時に撤退すれば済むお話。配下の魔物たちは外には出てこられないのですから。迷宮から出ても生きていられるのは、その主人だけ」
空色は「恐ろしいようでしたら、あなたはここで待っていらっしゃったらいかが?」とあえて冷たく少年を流し見た。
「外の木にでも紐を結わえておけば、わたくしひとりでも事足りるミッションですもの。よろしいですか? わたくしはあなたがたに、挽回のチャンスを分けて差し上げているのです」
スカートを抑えてすっと立ち上がった少女は、──その友に似た傲然とした眼差しで、少年たちを見下ろした。
「このまますごすごとグウェナエルに帰郷して凡人として一生を過ごすか……あの子の冒険の仲間なのだと、認めさせるか! 進む道は、ふたつにひとつ!」