第172話 だれも知らない歌
「隠れ里の首長が、あれほど尊大で頑迷だとは!」
海辺の街メリディエスに戻るがいなや、インゴルフは怒り混じりの長いため息を吐いた。
「言うに事を欠いてリオンダーリを試そうとするなど、不遜極まりない! あの男はいったい、だれに口を利いているつもりなのか……! 殿下! かくのごとき妄言、聞く必要などありませぬぞ!」
「んんん~~~」
大男の烈火を浴びて、アリアは否とも諾ともつきがたいゆるい鳴き声だけを返した。
(姫君……)
ティルダは、千年王国の階級制度の中で育った父とは違い、ただ気づかわしい気持ちでいっぱいで、ローブを脱がせながら最愛の主人の横顔を伺った。
(あれほど待ち望んでいた民から跳ね除けられて、……王ではないと、断じられて……! いったい、どれほどのご心痛か……!)
当の本人は、初夏の深南部には暑すぎる装束を外してもらい、「ふわ~~。涼しくなった~」と火照った頬をパタパタ扇いでいた。
「アリア。……重々、わかっていると思いますが」
いつもより張り詰めた声で呼びかけるニュクスは、紅紫の瞳で朝焼けの視線を捉えると、そのまま双眸で岬の向こうを指し示した。
高台から臨む、夜の大海原。
満月にほど近い十四番目の月が照らすのは、守り人を失った廃灯台が聳えるヴェスパ岬。
その張り出した絶壁を回り込むと、この地からもっとも近い未踏破の迷宮、『磔刑のネーヴェ』が立ち現れる。
「野望を語るのなら王たる証を示せという彼らの言も、一理ある。ですが、迷宮に踏み入ろうなどというバカげた考えだけは、何があっても起こさないでください」
「はい。わかってます」
「……」
白金の頭が珍しく素直に頷いたのを目にしても、魔法使いの眉間に寄せられたシワは解かれなかった。
交わした約束を破ったことは、一度もない。
だが、──ニュクスの大事な女の子は無茶ばかりするし、たまに嘘も吐くのだ。
「よくお聞きなさい、アリア。音寵とは、王の後継者に千年受け継がれてきた一子相伝の秘技。王室図書館の禁書架には、目覚めの導きを記した本があると聞いたことがありますが、……ぼくですら、閲覧は許されなかった。つまり今この地上に、音寵の覚醒方法を知る者は存在しないのです。手ほどきすべき先王たちがいない以上、歌えないのは必然。何ら恥ずべきことではありません」
「……」
アリアは頷かず、ただ思惑の読めない小さな笑みだけを返した。
「だれがなんと言おうと、イリオンの主はきみひとり。焦るあまりにバカなことを仕出かすのだけは、どうかやめてください。……何度も言っていますが、このことをゆめゆめ、忘れないように」
しっかり聞いていることを確かめるように、ロードライトガーネットがきつく細められる。
「夜の帷にとって迷宮は、決して戻っては来られない帰らずの門。足を踏み入れること、まかりならず。きみや子どもたちが絶体絶命の窮地に陥っても、そこが迷宮である限りはぼくが助けに行くことはおろか、……一欠片の魔力を通すことだって、不可能なのですから」
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夜の海に黒いインクが満ちる。
遮るもののない月光が、淡く影を落とす波打ち際。
「全然、ダメダメですわ~~~……」
打ち上げられた藻のように、しおれている人影が三つあった。
「こんな、こんなはずでは……」
半泣きでナマコを見下ろすのは、伯爵令嬢クリステル。
彼女の脳内には、出立前に思い描いていたあらゆる夢想が巡っていた。
朝には親友と仲良くカントループの試験勉強をして、仲良く一緒にランチを摂り、昼下がりには海辺を散策しながら、愛と憎しみの歴史スペクタル人形劇で遊んだりして──
(そうして過ごすうちに、わたくしの知性が周囲に知れ渡るようになって……海辺の子たちが憧れの目で見つめて、こうおっしゃるの。『クリステルさま、わたしたちとお友だちになってくれませんか?』って……!)
「ああっ! 本当なら今ごろ、お友だちが軽く百人くらいできてるはずだったのに!」
ダン! と白砂に拳を叩きつけた令嬢に、二人の兄弟は(そんな目論見があるとはチリほども思えない振る舞いだったが……!?)と目を剥いた。
「きみはまだマシじゃん」
拾った二枚貝を使って、気味が悪そうにナマコをちょっと遠ざけたフランシスは、すねた目を伏せた。
「ぼくが領都の子たちになんて呼ばれてるか知ってる? 『女の手のひらの上でまんまと踊らされた、アホの次男坊』だよ……!」
貝殻を握る手が、わなわなと震え出した。
「こないだはすれ違いざまに、『ダンシング太郎』って言われた……! なんだよそれ! 太郎ってだれだよ! もう原型留めてないよ! 人をバカにすることにかけては謎の切れ味を発揮する、あの性格の悪さ……! だからぼくは、貴族連中が嫌いなんだ!」
「……」
クルミ色の髪を掻きむしって身もだえる少年を、クリステルとオーギュストは無表情で眺めた。
「はあぁあ~~~。ここでなら……アリアのいる場所でなら、ぼくにも友だちができるかもってそりゃ、ちょっとは思ってたけど……。ま、結果は見てのとおり。失敗っていうか、……大失敗?」
フランシスは肩を落とし、遠い眼差しで月を見上げた。
「あの子ら、めちゃくちゃ怖かったなあ」
「ああ……」
オーギュストも同じ表情で、少し歪な月をモスグリーンの瞳に映しこんだ。
「おれは……明日中に荷物をまとめて出ていけと、さもなくば腕を叩き折るぞと、ゴリッゴリの脅しをもらったよ。捩じ切られんばかりに首を絞められながら……」
「いやそこまでではなかったけど!? 何仕出かしたらそうなるの!?」
「わ、わからない……! おれにはもう、何もわからない!」
「つまり全員、やらかしたってわけですのね……」
三人はしょんぼりと落ち込んだ目を、途切れることなく寄せては返す白いレース編みに向けた。
「これじゃあ到底、ミッションなんて達成できっこないよ……!」
……彼らには、ある目的があった。
人の迷惑を顧みずに襲来した、頭お花畑の大名行列。
というだけではなく──いやたしかにそうなのだが──、ひとつの計画を胸に四つもの諸領を超えて遥々やってきた、選ばれしエージェントでもあるのだ。
「どうしよう……! 何にも目的を果たせてない!」
焦りと絶望が滲んだペリドットが、ゆっくりと所定位置に戻りつつあるナマコを映して潤む。
「アリアの誕生日はもう、明後日だっていうのに!」
そう。
来たる五月二十一日は──彼らの愛すべき友が生まれた日なのだ。
出会ったその年は、すでに祝うべき日を過ぎていた。
翌年はチュパカブラを探すと言って密林に分け入ったのを最後に、一か月に渡って消息不明。
生きた心地もなく気を揉んでいたところ、『ちょっと崖から滑落して遭難してました! 一足早い夏休み、刺激たっぷりのワイルドライフ! サバイバル中にはジャングル奥地にお住まいのンベョパダダダン族の皆さんがとっても優しくしてくれました。生身でピューマをハントして部族の一員として認められた時は、飛び上がるほど嬉しかったです!』という、白昼夢としか思えない手紙が届けられた。
添えられたお土産──動物の骨でこしらえた立派な鼻ピアス──を手に、フランシスは肩を落として、渡しそびれた誕生日プレゼントを眺めやったのだった。
他人の祝いごとにはぬかりなく手紙と贈り物を届けに来るくせに、自分を祝う機会はまるで与えない。
それは、爆走する回遊魚の気まぐれな訪いをただ待つばかりのユスティフ一同にとって、──宣戦布告に他ならなかった。
(次こそとっ捕まえてやる……)
誰もがそう心に決めていた今年。
届いたのが、例の招待状であった。
ふわふわのデザートコウモリからピンクのトロール柄の便箋を受け取った時、フランシスの胸中に芽生えたのは、危機感。
ジェットエンジンを搭載したカジキマグロのごとく爆速で駆け抜けていく友人に、このまま置き去りにされてしまうのではないか──
というか手紙を読むだけでも抱えてる仕事が多すぎるし、問題が山積みなのがありありとわかるのだが、本人は気付いているのだろうか──
少年の脳内には、暴れ馬に跨って満面の笑みでオーディエンスへと手を振っているうちに、ノーブレーキで断崖絶壁に突っ込んでいく少女の姿が、ありありと展開されていた。
『決めた。……待つのはもう、やめる』
決意したフランシスが部屋のドアを開けると、果たして隣の部屋の兄もまた、部屋を出たところであった。
『……』
『……』
お互いの手に握られたピンクの便箋に、同じ結論に至ったことを悟った兄弟の緑の瞳が、(まあ……そうなるよな)と無言で交わった。