第171話 千年の約束
「八千の民が、いるのです」
白いものが混じった頭は、深々と地に伏したまま。
「あなたさまは正真正銘、リオンダーリだ。絵物語に描かれたままを生き写したような、その姿かたちだけではない。少しお声を聴くだけでわかります。わたしの心臓から流れる血が、熱くなる。だが」
わずかに頭が上げられて、落ち窪んだ赤い目がアリアを映し込んだ。
「いまだ──王ではない」
白刃が煌めいた。
「もう一度言ってみろ」
シュラリと耳に涼やかな音を立てて大剣を引き抜いた騎士は、流麗な仕草でその切先をバイロンの頸動脈にピタリと当てた。
「ティルダ」
「しかし、姫君」
「剣を仕舞いなさい」
「……我が主君の、御心のままに」
頭を垂れて従順に納刀したが、しかし、膝をついた男を見下ろす双眸には、氷のような怒気がひたひたと漲っていた。
「寛容たるは王者の要。ですが、過ぎたる無礼を見過ごすは、愚考でありますぞ。殿下」
「姫君、殿下……」
インゴルフの忠言に、足元からさらなる声が上がる。
「そう、あなたがたもご存じではありませぬか。他でもない、その呼称が示している。この方が、イリオンの王ではないのだということを」
「愚弄を重ねたな!」
「っ!」
バイロンの身体が、空中に浮き上がった。
「王ではないなど、よくも世迷言を……!」
鋭い犬歯を剥き出しにしたインゴルフは、襟首を掴んで軽々と持ち上げた壮年の男へと、噛み付かんばかりに怒鳴りつけた。
「民といえども、この方への侮辱は許せぬ! 口で綺麗ごとをほざくだけの君主どもと一緒にするな! この方は……っ! アリアさまは、おれたちのために笑って燃やされてきた! 喜んで砕かれてきた! ついさっきだって、いつだって、何度だって、この子は……!」
背に庇う小さな少女の、細い腕を先刻無惨に折ったばかりの男の顔が、熱く歪んだ。
「我らの主人にふさわしき者が他にいるというのなら、連れてくるがいい!」
鍛え上げられた巨躯が放つ火焔の勢いに、修羅場慣れしたガラシモスもアグネテも、中途半端に腰を上げたまま近寄ることすらできない。
「このお方が王でなくて、この地上の誰が王だ!!」
「だれもいまだっ、王ではない!!」
苦痛の脂汗を滴らせながらも、バイロンは断固として目を逸らさなかった。
「千年をかけた尊崇は、あの夜、なんの役にも立たなかった!!」
「!」
静かに動向を見守っていたニュクスが息を呑み、インゴルフの顔面から表情が抜け落ちた。
「不敗、不滅、不退転! 神々に愛された、慈愛深き黄金の獅子……! わたしだって、愛していた。あなたがたを千年戴き続けたことは……地上でもっとも強く、誇り高い民族に生まれたことは、わたしの誇りだった」
震える声が、蛍草を揺らす。
「だが、あの短夜……!」
荒涼とした風の中、二十年前を知る者たちの瞳に、一向に薄れてくれない夏至の記憶が蘇る。
「わたしたちはただの、屠殺される家畜だった!」
彼方から、重騎兵が空を駆ける足音が響く。
振り上げられた槍が人体を破壊する爆発音が、耳の深奥で弾けた。
「あなた方だって見たはずだ……! あの夏至のどこに、不滅の民族があった? 黄金の獅子が、敗北を知らぬ夜の帷が、恐れ知らずの戦士がいた? どこにも、そんなものはいなかった! 地上の果てまで見渡しても、どこにも! あの夜イリオンにあったのは、手が届かぬ頭上の敵を見上げて呆気なく殺されていく、無力で無様な生き餌どもだけ……!」
呆然と目を見開いたインゴルフの大きな手から力が抜け、バイロンを地面にずるりと落とした。
「わっ……わたしたちを呑み込んだ奈落は、終わりも果てもなく……」
顔を歪めて咳き込みながらも、羊飼いはなおも王たちを見上げ、睨みつけた。
「今もまだ、夜明けなど見えない! そもそもが、リオンダーリが足を掬われなければ、夏至大葬など起こり得なかった! 違いますか!」
「違うっ! あの戦禍は……!」
バイロンの言を遮ったのはニュクスだった。
黒衣の少年は、ただでさえいつも悪い顔色を蒼白にして、痛みを堪えるようにローブの胸元を固く握りしめた。
「他でもない……ぼくたちオルフェンの責に、他なりません。民を守り、王の守護者たることこそ、夜の帷が自らに課した千年の約束。だというのにみすみす出し抜かれ、何もかもを失った……! 先王陛下は病床の身、ユスティティア陛下は敵国に幽閉されたあの状況下、ぼくたち以外に異常を察知できる者など、いなかったというのに……!」
「閣下。……おやめください」
怒気をすっかり取り落としたインゴルフが、今度は死にそうな後悔を顔に浮かべて、年若い貴族の肩にそっと手を置いた。
「夜の帷は、全員前線に立った。文字通り民の盾になって、敵を蹴散らして……そしてあなたを残して、全てが命を落とした。魔法を何も使えなくとも、あなた方が身体を張って守ってくれたことを、おれたちは知っている……!」
肩に置いた手に、震えが走る。
「情けねえのは砦だ! 通信機が使い物にならず、指揮官たる夜の帷たちが軒並み討ち死にして……生身の身体でどう戦えばいいかもわからずに、右往左往してるうちに国を失った! それで……」
クセのある灰色の髪をぐしゃりと掻きむしる大きな手の下で、ガーネットが暗く歪んだ。
「おれだけひとり、残された」
「と、父さん……」
いつだって姿勢よく伸ばした姿しか見たことがない背を丸め、重荷を負ったように肩を落とした父を、ティルダは呆然と見上げた。
羊飼いの血を吐く叫びを耳にして、彼らの頭蓋の中には、戦場の光景と音と匂いと振動が、鮮明に上映されていたのだった。
「それはお前たちの咎ではありません、インゴルフ。すべて……何もかもすべて、無様な夜の帷どもの失態」
いずれの人間にも目を向けず、虚空を見つめて頑なな横顔を見せる少年のロードライトガーネットにも、同じ暗がりが宿っていた。
奪われていく命が上げる絶叫、身体を貫いた銃撃の痛み、上空から降り注ぐ爆弾、閃光、鼻腔に途切れない硝煙。
置き去りにされた夜明けに見上げた、静かすぎる朝日。
耳に痛いまでの静寂を思い出した時、──小さな手が、幾分容赦のない強さでパシッと彼らの腕を掴んだ。
「先輩、師範」
弾かれたように振り向いた二人を映しこむのは、朝焼け色の温かな瞳。
「こっちを見たわね」
すべてを聞いていてなお、いつもどおり屈託のない笑みを浮かべてみせた小さな少女に、生き残りたちは思わず息を止めた。
「イリオンは二十年前にボロ負けした。これは厳然たる事実」
語る言葉は容赦のない断言であったが、小さな手から移る熱は冷えた身体を巡り、強張りをゆっくりとほぐしていく。
「わたしたちが三者三様に無能だったというのも……夜の帷と砦に対しては頷きかねるけど、でも、他でもないあの夜を戦ったあなたたちがそう判じるなら、尊重するわ」
アリアは膝をつくと、倒れたままのバイロンの肩を抱いて起き上がらせながら、言葉なく立ち尽くす夜の帷と砦をニッコリ見上げた。
「あっ、王家はどう足掻いても無様で無能でアホの極みよ〜。みんな庇ってくれるけど、これも動かざる事実。一番有能だったのは結局、一番守られるべき民の皆さんだったんだから、もうわたし恥ずかしくて恥ずかしくて、顔から火が出そうだわ」
「……」
まったくそんな様子はなさそうな顔を物言いたげに眺める一同を前に、「でもね」と続けた眼差しには、金色の炎が瞬いていた。
「イリオン燼滅を謳ったあの男が、それでも滅ぼせなかった生き残りが、あなたたち」
まっすぐにニュクスとインゴルフを見つめた瞳は、続いて三人の羊飼いも映し出した。
顔に浮かぶのは、誇らしいものを見つめる曇りなき笑顔。
「生き残ったことを恥じないで、なんて、戦ってもないわたしには言えない。でもあなたたちは、敵の顔も声も残虐さも手の内も、すべて味わった歴戦の戦士。だからこれは、何度だって言うわ」
肩を支えられたバイロンにも、小さな身体から熱が伝わる。
「生き残ってくれて、ありがとう! あなたたちがいるから、わたしたちはみんなで勝てる! 取られたものを取り返して、故郷に帰ることができる!」
血を吐く叫びを受けた言にしては、軽々しかった。数多の命を賭けた大仕事について語るには、楽観的に過ぎた。
だが冷えた皮膚に鳥肌が立ち、一瞬にして温度が上がる。
大人たちをまっすぐ見上げた少女は、「これはね、できるできないの話じゃない。もうとっくに決まってることなのよ」と、怖いものなど何もなさそうな笑みを浮かべた。
「次は、皇帝に完全勝利する!」
グッ! と握ったこぶしを見下ろして、ニュクスとインゴルフの双眸からはあっという間に陰りが消えた。
代わりに漏れるのは、降参を認めたような苦笑い。
「バイロン・ヴァシキラス。わたしはあなたたちを手に入れたい」
助け起こした男の名を、傲然と呼び捨てにする。
「つまりあなたは、わたしになにを証明してほしいのかしら?」
「いと気高く、慈悲深きリオンダーリ……」
床に向けて伏せられたままのバイロンの目も、眩しそうに細められていた。
「ネメシスさまは仰った。あなたさまは、イリオンを再興するおつもりだと。それどころの話ではありませんでした。この帝国に、完全勝利するおつもりでいらっしゃる。だが、リオンダーリは人間です。わたしたちと同じ……神話に記された神なる獣たちの力を使うことなどできない。砦もそうです。彼らは桁違いの身体能力の持ち主ではあるが、あくまで人に過ぎません。神獣の力を許されているのは、夜の帷だけ」
人々の視線が、自然とニュクスに向けられた。
神なる獣──人ならざる身に変じる超常の力。
海上王国が滅びてから、その血をひく者を『半獣』と軽侮せしめたゆえんの才。
「ユスティフ各地の迷宮、あれは発狂したオルフェンを苗床に成長したものです。あなたさまが民に傅かれているのは、黎明のごとき美しい瞳のためでも、高潔なお人柄のためでもない。……そんなもの、なんの価値もない。リオンダーリがリオンダーリたる存在意義は、ただひとつ。──音寵。神代の獣を宥め調教してみせる、比肩なき調律の力」
闇の中、長く目を開け続けてきた赤眼が、挑みかかるような、それでいて縋るような焦燥を灯してアリアを映し込んだ。
「わたしが望むのはひとつだけ。しかし、これが叶えられないうちは、禁洞の民をあなたさまに渡すことは決してないと、どうかお心得えあれ……! イリオンの最大戦力の解放──神をも恐れぬ野望を語るというのなら、狂気を癒す音寵を、ふたたび地上に響かせてみせよ!」