第169話 黄金が届く深度
『わたしの目? ああこれは……二十一年前のあの日、時が止まってしまってから……決して、解けないんだ』
おのれが死者であること、兄を悼んだ弟によって造られたゴーレムであることを、ネメシスはあっさり明かした。
『こんなの、きみたちが命に換えても守ろうとしているものに比べたら、取るに足らない話だよ。秘密を聞こうとしているのだから、まずはわたしが明かさなくてはね』
おのれの死について語る時ですら揺らがない泰然とした眼差しに、集まった幾人もの羊飼いたちは皆、次に投げようと決めていたはずの問いを忘れてしまった。
『大事なものを守れなかった絶望が、返せと叫ぶ怒りが、いまだずっと、わたしの眦に燃えている。これが消え去る時があるとしたら、そうだね、弟の満願が叶った時……そして、あの子の野望が果たされた時だろう。いずれにせよ、役目を終えたわたしは土に還る。きっとどんな結末でも、満足してね』
「ネメシスさま……」
ガラシモスは何度も瞬きをして、熱くなった目頭をごまかした。
アグネテや他の羊飼いたちも膝で拳を握り、食い入るように湖面を見つめていた。
問答が四回目を迎えるころ、淡い紫をした可憐なミスミソウが山麓に芽吹く早春。
「……なあやはり、“夏至大葬”の時に御子がお生まれになっていたというのなら、どう考えても年齢が合わないよな?」
「ネメシスさまは、女王陛下がエリュシオンに逃れられたと言っていた。そこで時間がズレたのではと、おれは予想している」
「難しいことはわからん。聞いてみるしかない」
「ああ。あの方なら、嘘偽りなく答えてくれるはずだ」
──気がつけば、罠と裏切りの証を握らんとする目論見は、この悲しく誇り高いクスシヘビの青年が、真実自分たちの味方である証拠を掴もうとする試みに変わっていた。
おのれを囲む羊飼いたちの表情が変化したことに気がついても、夜の帷はそのゆったりとした笑みを崩すことはなかった。
『最初に約束したように、王にはきみたちのことはまだ伝えていない。教えたとしても、嫌がる者を無理やり連れてこさせるような子じゃないんだけど……だからこそ、わたしがきみたちの思いを踏み躙って勇足を踏めば、とっても怒るだろうね』
ネメシスは、幼い君主の話をよく聞かせてくれた。
『あの子は、そりゃあもう人が大好きでさ。まだ小さな頃に母を失ってからというもの、途轍もなく大きな孤独を抱えながら、何とかして再び家族を手に入れようと足掻いてきた。あの子の幸せはね、ささいなものなんだ。家族と幸せに暮らしたいという、誰だって抱くありふれた小さな願い……その対象が、ちょっと正気の沙汰じゃないくらい、広々としているだけ。ずっと、きみたちのことを待ちわびてるよ。風の噂だけを頼りに、本当にいるかもわからないというのに、できる限りの準備をして。……そう、ほんとに、できる、限りの……』
にわかに下を向き、黒いローブを纏った肩がプルプルと震え出す。
『……ふ、っふふふ! ふはーーはっはっはっはっ! ちょっともう……聞いてくれるかい!? 面っ白いんだよ~、うちの子は! 何せ、何もかも規格外! 限度ってものを知らない!』
「「「……」」」
いつもの穏やかな微笑を完全に取り落とし、ヒイヒイと涙目で爆笑する青年を、ガラシモスたちは無言で見つめた。
自分たちには、ひとつの嘘も隠し事もしない。
この辛抱強く誠実な金眼の青年のことは、いずれの羊飼いも深く信頼していた。
だが唯一、伝え聞く肝心の王の話が、──荒唐無稽すぎた。
「すんません、ネメシスさま。あの……話、盛ってないっすか?」
『え? どこ?』
「どっ、どこというか……!」
『え~~。完全体の不死鳥を一発KOしたとこ? 七日七晩に渡る責苦で、心が折れるどころかうめき声ひとつ漏らさなかったとこ? 何ならそのままシームレスに極歌を歌って敵を殲滅し、遮断術式を打破したところかな? 片っ端から出稼ぎしまくって二年間で億を超える貯金を実現してるのも、考えてみればちょっとアレかあ。最近だと、二十人足らずのズブの素人で人狩りの集団襲撃を蹴散らしたし、最終的にひとつの街を完全掌握したやつもあるね。あっもしかして、うちのめちゃくちゃ気難しい弟だろうと首魁の息子である皇太子だろうと、いともたやすく陥落させた破格のコミュ力のことかい? うんうんわかるわかる。あれはわたしもどうかしてると思うんだよね〜』
「全部全部!」
「話を聞けば聞くほど、全く像を結ばん……!」
「何なんだ!? 猛牛のように屈強な豪傑の、とんでもない人たらし……!?」
『いやいや。だから前陛下にソックリな、とってもカワイイ十歳の小さな女の子だってば』
「「「怖い怖い怖い」」」
小さな王の伝聞が正気の沙汰ではなかったこともあり──、その新月が来るまでに、たっぷりと半年余りの時間を要した。
「ネメシスさま、頭首から許しが出ました。……拝謁の栄を、お受けします」
これまでならば湖前に並べた椅子に腰掛けていた羊飼いたちは、地面に跪いて、夜の帷を迎えた。
バイロンは右の拳を左手で覆い、頭を垂れた恭順の姿勢を取りながらも、魔法使いの映る湖面を鋭い赤眼で見据えた。
「覚えておいていただきたい。我らはあなたさまが信じる王を、信じたわけではありません。無謀に過ぎる野望に乗ることも、決してない。しかし……ずっと、誰もが耐えてきた。ただ一度だけなら夢を見てもいいと、禁洞に住む全ての者が頷いた」
彫りの深い眼差しに、焦がれるような熱が滲む。
「わたしたちが信じるのは、見知らぬ王ではない……! この終わりのない奈落の底にあって、打ち砕かれそうなわたしたちを、ずっと、人たらしめてきた……残酷で眩しい、千年の約束そのものなのです……!」
二十一年の重責を賭けた熱を受けて、相も変わらず飄々としたクスシヘビの青年は、『伝えておくよ』と、全てを受け止める例の笑みを浮かべてみせた。
──蛍草の青白い灯りが明滅する中、突如、まばゆい魔法陣が現れた。
桃色と橙色の狭間にある、暖かく澄んだ朝焼け色。
「!」
「ふう、良かった~! 座標合ってた! 亜空間でバラバラにならずに済んだわ! ……風つめたっ」
弾かれたように立ち上がったガラシモスたちに気付かぬまま、小さな少女の明るい声が、寂れた廃棄神域をにわかに賑やかしく塗り替えた。
完璧に調律された弦楽器を思わせる声。
「姫君、わたしのジャケットをどうぞ」
「ぼくのローブを」
「自分の服を着せておき、回収したあとで匂いを嗅ぐつもりだろう」
「そっくりそのまま返します、駄犬」
魔法陣から降り立ったのは四人のデコボコした人影、そして闇に慣れた目には眩しすぎる炎の小鳥。
「ふ、二人ともありがとう! 嬉しいわ! だから抑えて抑えて〜、ねっ! 羽織ものは大丈夫。だって、お母さまがくれたこれがあるものっ!」
編み上げブーツを鳴らし、くるりと回った少女の大きな瞳が、崩れかけた東屋の三人と目が合った。
「あ」
日差しを編んだようなプラチナブロンド。
よく晴れた黎明と同じ色をした、宝石よりも輝く双眸。
遥かな母国の浅瀬に似たターコイズブルーのワンピースの上には、金刺繍を施した真紅のビロード地に、最高級の白貂竜の毛皮をたっぷり使ったローブを打ち掛けている。
ふわふわの外見に似つかわしくない獰猛さで知られる白貂竜とは、険しい山岳地帯に生息する魔獣で、一年のほとんどを青鈍色の夏毛で過ごし、雪に覆われる冬の一時のみ、光に当たると淡い紫に輝く純白の毛並みへと姿を変える。
曲がりなりにも竜、さらには厳寒期のひと時しか獲れない貴重な毛皮は、まさにこの世の贅の象徴。
それはかつて、イリオンの王族たちが他国を訪れる際、おのれの強さと権威を誇示するために纏った盛装であった。
ガラシモスの視界が、じわりと滲む。
(……王だ)