第167話 ポケットの中の不協和音
旧市庁舎の斜向かいにある、旧三つ星ホテル『アルベルゴ』。
明かりが灯りはじめた最上階、ラグジュアリースイートのサロンスペースに、突然紫色の光が満ちた。
念のためお伝えしておくと、煌びやかな整備が済んでいるのは貴族とその使用人が昨日から寝泊まりしている最上階付近だけで、それ以外の場所は未だ一歩歩くだけで床が抜ける幽霊ホテルのままである。
「あら、ディナーのご案内?」
カタログを読んでいたエミリエンヌは驚いた様子もなく顔を上げたが、来訪者の姿かたちを視界に認めると、「あなた、またそんなみすぼらしい格好をして」と不満げに柳眉を寄せた。
「小鳥とさくらんぼ模様のワンピースはどうしたの? 今日はあれに赤いエナメルパンプスを合わせるように言ったでしょう」
「さ、さっきまで着てたわ! 本当よ!」
ニュクスに導かれて修練場から転移してきたアリアは、泥まみれの訓練着のポケットに手を突っ込むと、薔薇の手鏡を取り出した。
「外せない用事ができちゃって、今夜の晩ごはんはちょっとご一緒できないの。それと……しばらくの間、お姉ちゃんと一緒にいてほしくて」
『!?』
小さな鏡の中、雪の妖精のような美少女がアイスブルーの瞳を見開いた。
『なっなっなっ……なんですって!? もう一回言ってごらんなさい、アリア!』
火炎噴射のごとき怒りが、小さな鏡面から迸った。
昨日襲来してからというもの、寝起きや食事はもちろん、ダンスレッスンや打ち合わせや修練の間もずっと、セレスティーネは妹のポケットに収まっていたのだ。
他人がいると絶対に姿を見せようとはしないので、ティルダにはお留守番をしてもらうこととなってしまった。
「ごめんね、どうしても行かなくちゃいけない場所が」
『わたくしを置きざりにするなんて許さなくてよ! どこに行くかも教えもせずに……! あっあんなおっかない訓練してるなんて、これまで黙ってて……!』
最後まで言わせず猛スピードで抗議したセレスティーネは、先の情景を思い出してプルプルと涙ぐみ、「おっかない訓練、ですって……? 聞き捨てならないわね」と、一日中好き勝手過ごしていた養母も、パタリと冊子を閉じて起き上がった。
「お待ちなさい、アリア。その袖のシミは何? もしかして血じゃないでしょうね?」
「ウッ! そ、そのことはあとで、あとでね……!」
「あとでっていつのことかしら? 一分後?」
「せっかちすぎるわ!?」
無鉄砲さをちょっとくらい叱られたほうがいいとも思っているニュクスは、黙って腕を組みながら母子の攻防を見守っている。
「わかってほしいの、お姉ちゃん。今から行くところはなんていうか、トップシークレットな感じで……。誰でも彼でも連れていくことはできないのよ」
『何よ! そこの無愛想な男も、あの顔がやたらキラキラしてる騎士も一緒に行かせるくせに! ……あっ!? 嘘! わたくしを差し置いて、ポッと出の大男まで……!?』
「も~、またわたしの心を読んで……」
『アリアのバカッ!』
ボフッ! と鏡面目掛けて、本日二度目のクッションが投げつけられた。
派手な薔薇模様のクッションがずるりと落ちたあとに現れたのは、顔を真っ赤に染めて涙目を吊り上げた少女。
『お前はいいわよね! 好きなところに出かけて、たくさん友だちがいて! わたくしはいつも……いつも一人よ! 妹がおとぎ話みたいな大冒険をしている間、なーんにもすることがなくて、ただお菓子を食べながらゴシップ誌を読んでいるだけ……! どうせわたくしはこの鏡から一歩も出られないまま、孤独に歳をとって死んでいくんだわ!』
「お姉ちゃん……」
すっかり困り果てたアリアは、手鏡をそっと持ち上げた。
「外に出る方法は……ごめんね、まだ見つけられてないんだけど、必ず探し出してみせるわ。それにね、お姉ちゃんがなりたいなら、誰とだってお友だちになれるのよ。テセウスともすぐ仲良くなれたじゃない。先輩は……まあ、ちょっとクセが強すぎるから例外だとして……ティルダとだってクリスとだってそうよ。他のどの子とも、きっと仲良くなれるわ」
『……嫌!』
慰めなど平手打ちする勢いで、鏡の中の少女は噛みついた。
『わたくしは……っ! 本当の身体を他人に奪われて、魂だけこんなとこに閉じ込められて、自分の意思では歩くこともできないのよ! 誰とだって、お友達になれるですって……!? ええきっと、仲良くしてくれるでしょうね!? お前の頼みですもの!』
紅潮した顔は皮肉な笑みを浮かべたあと、悔しげに唇を噛む。
『けど……鏡から少し離れたら、陰で悪口を言われてもわからない。無礼を働かれても、横っ面を引っ叩くこともできない。窓の外で何か面白いものがあっても、人に運んでもらわなきゃ見ることもできない……! そんなの、友だちじゃない。ただの荷物かオモチャだわ! 同情で友になってもらうなんてわたくし、真っ平ごめんなのよ!』
涙まじりの熱いアイスブルーが、決して届かぬ境界越しの妹をきつく睨みつけた。
『お前の言うことはいつもいつも、綺麗ごとばっかりだわ! この……偽善者!』
「……!」
それは二年前、あちらのほうのセレスティーネからも、投げつけられたことのある言葉だった。
(あの時より……ずっとずっと、痛いわ)
悲しそうに顔を曇らせたアリアを目にして、セレスティーネはハッと息を呑んだ。
『……っ! ……う、ぁ……!』
何を言おうとしてか、しばらく口を開けたり閉めたりしていたが、結局そのまま唇を噛むと、『……フン!』と横を向いて硬く黙り込んでしまった。
「セレス、言葉が過ぎるわよ。あなた本当、アリアがいるといつも以上によく喋るわね……」
こめかみを押さえたエミリエンヌが、ぐったりした声音で嗜めた。
「アリア。急ぎの用があるのでなくて? こうなったセレスはもうダメよ。こちらで引き受けておくから、さっさとお行きなさい」
「……ありがとうお母さま」
「ああその代わり、『おっかない訓練』について、キッチリ調書を取っておくから」
「……!?」
それは、まずい。
一瞬にして顔色が悪くなった末の娘を前に、「まあ……どうかして?」と優雅な手つきで扇子が開かれる。
「悪いことをしていないなら、気にすることなんてないでしょう? それにしても、わたくしとのディナーをすっぽかして出かけるなんて、さ ぞ か し、重要な用事なのでしょうねえ~? 不肖のお母さまには、教えていただけないのかしら?」
行動パターンが、母娘でまったく一緒であった。
「ウッ、そっその……! ちょ~っとそこまで、イリオンの生き残りに会いに行こうかな~って」
「……お待ち」
今度はエメラルドに、剣呑な光が宿る。
「その格好で、行こうと?」
「……」
その格好とは、血と泥で汚れた訓練着のことである。
イエスなのだが、到底頷きようがない圧を受けて、アリアはただ神妙な顔で硬直した。
「ユスティアは、千年王国の正統なる姫だった……。ということは、あなたもそう。君主として民草の前に出向くというのに、薄汚れた貧相な服を着たままとはいったい、どういう了見なの? わたくし、そんな教育をした覚えはなくてよ」
「ふ、服!? 関係ある? というか教育、された覚えないわ??」
「人は見た目が十割!!」
ギャンッ! と激しい火炎を浴びて、アリアは後ずさった。
「カトリーヌ! 例のものを!」
「はい奥さま」
呼び鈴とともに一瞬にして現れた忠実な侍女は、迷いのない足取りで衣装部屋に消えた。
「……それで、今からこの子は着替えるのだけれど、どうしてお前はここにいるのかしら?」
「!」
切れ長のエメラルドに込められた憤りは、のんきな次女だけでなく付き添いの少年にも容赦なく向けられた。
「ウィペル。いくらわたくしがお前を可愛がっているといえど、うちの娘の着替えを覗こうなんて破廉恥な真似、承知しなくてよ」
「……失礼。ちょっとよく聞こえませんでした。だれが、何を、可愛がっていると? あとぼくが破廉恥だと解釈しかねない発言も、聞き間違いですよね?」
「他の役立たずどもに比べたら能があるから、多少は大目に見てあげなくもないけれど……これに限らず、わたくしの娘たちにわずかなりとも不埒を働こうとすれば、その顔が倍になるまで制裁するから、覚悟しておくことね」
「妙だな? ぼくが話してるのはユスティフ語のはずなんだが、毛ほども通じた様子がないぞ?」
居合わせただけで強制的に覗き魔に仕立て上げる手口は、理不尽極まりない。
が、実際のところ……。
着替え、風呂、トイレなどの差し障りがある場面を除いて、推しのあらゆる日常生活を好き勝手に監視しては記録しているこの魔法使いは、本来エミリエンヌの鉄拳制裁によって、首から上が倍になるどころか、彼方に吹き飛ばされて然るべきであった。
「くっ! ぼくは保護者だぞ……!」
着替えを見てしまうのは大問題なので、大人しくサロンの外で待ちながら。
「皇宮にいるあのアホや大剣を持ったあのアホではない……! 商会のいけすかないハエとも子爵家の目障りなハエどもとも違う! 下心どころか、鉄元素のごとき純粋で強固な愛しかないのに……! いったいこのぼくのどこを見たら、あの子に不埒を働くように映るというんだ?」
ブツクサ文句を言っている黒いローブの下、魔法式紋様が織り込まれたシャツの襟ポケットには、片時も手放さないお気に入りの推しブロマイド──当然全て隠し撮り──が、みっちりと収められている。
「やはり納得いかない。1ミクロンたりとも、納得いかないぞ……!」
「魔術師さま。奥さまが入ってよいとの仰せです」
「……」
許しは、想定よりもずっと早かった。
不満一色の顔で扉を開けた紅紫は、室内の光景を前に「……おや」と見開かれ、一瞬にして刺々しさを取り落とした。
「出色の出来栄えでしょう」
「ちょっとわたしには、立派すぎじゃないかしら……?」
エミリエンヌは自慢げに顎を逸らし、アリアは想像もしていなかった大層な衣装に、身を縮こまらせていた。
手鏡の中の黒髪はまだあらぬほうを向いていたが、好奇心に負けて一度だけチラリと妹を眺めやり、珍しいことに、パチパチと目を瞬かせた。
衣装に埋もれてしまいそうな小さな肩に、ニュクスは目を細める。
(エミリエンヌ・ルフトシェン。……たしかにあなたは、ユスティティアさまを慕い続けてきたようだ。これほどの長い間)
「いいえ、アリア。よく似合っていますよ」
「ほ、本当~?」
「当たり前よ。わたくしの見立てに間違いがあるはずないでしょう。ウィペル、怪我ひとつさせずしっかり守り、美容黄金タイムの夜二十二時にはベッドに押し込んでいること。いいわね?」
「帰宅時間については、先方のあることなので確約しかねますが……この子の身の安全については、言われなくても。夫人」
「それじゃあ、行ってきます、お母さま! ……お姉ちゃん!」
「気を付けて」
「……」
伺うように掛けた声にも、黒髪は向こうを向いたまま、返事はなかった。
転移魔法陣を起動し、岬の家の前についた瞬間。
「!」
いつものように外そうとした腕をくいっと引き留められて、ニュクスは小さな頭を振り向いた。
「どうしました?」
「先輩。こんな急いでる時に、申し訳ないんですが……。それに、やってみても、むっ、無理かもしれないけども……!」
下を向いたまま、いつもスラスラと回る口には珍しく言い淀む小さな頭を、ニュクスは優しい眼差しで急かすことなく待った。
意を決して上げられた朝焼け色の瞳は、少年を真っすぐ見据えていた。
「お願いがあるんです。……お姉ちゃんのこと……!」