第17話 先生たち(1)
「これは、これは……お会いできて光栄です、小さな姫君」
アリアがこれまで目にした人の中で一番大きな身体をしたその人は、優しげなオリーブ色の瞳を水面のように揺らして、片膝を立て両手で剣を捧げてみせた。
「アリア。剣を受け取って」
「は、はい」
フレデリクに言われるがまま受け取ってみるが、想像以上の重さに取り落としそうになる。
「うおっ!?」と上げそうになった野太い悲鳴は、すんでのところで何とか噛み殺したが、養父はニヤニヤしていた。
「そのまま持ち上げて、そう。ほらがんばれがんばれ」
「うぐぐぬう……!」
うめき声は、初対面の武人にも届いてしまったらしい。
眉尻を下げて困ったように微笑みながら、アリアが差し出した剣の鞘、刀身の先に口づけを落とした。
そのまま両手で剣を受け取ってもらい、やっとアリアは息をついた。
「はぁっ、はぁ~……」
(今のは……何? 挨拶!? このおじさまに会うたびに――いや何なら、騎士の皆さんに会うたびやるの? 尋常じゃなく重かったけども!? 貴族の女性って華奢に見えて、案外肩とか体幹とか鍛えているのね……!)
──毎回の挨拶ではなく、心に決めた貴婦人に剣を捧げる特別な儀式なのだということは、アリアは知らない。
この老人が大陸中の騎士が尊敬する武勇の持ち主で、腰に下げる大剣も、規格外に堅牢で重たいのだということも。
「オーレル少将は、イリオン攻略戦などで帝国師団長を務めたこともある、すごーい方なんだよ」
「はは! 大昔のことを! もう兵士としてはご覧の通り、ロートルでございます。たまにこうしてお声をかけて頂いては、お若い方々に相手をしてもらうのが楽しみで」
オーレル少将は着古した軍服を身にまとい、左手に無骨なオークの杖を持っていた。
軽薄なフレデリクが横にいると、その大樹のような存在感がいっそう際立って感じられるようである。
「そ、そんなすごい方が、わたしなんかに稽古をつけてくださっていいんですか……!?」
そう。
アリアが「冒険者になりたいので、剣とか体術を覚えたいです」と申し出たところ、フレデリクはなぜか、このオーレル少将を呼び寄せたのだった。
(しょ、正気……!?)
アリアは震えた。
グウェナエル領には退役兵士がたくさんいると聞いたので、そうした近所で暇しているおじさんに声をかけるくらいかと思っていたのだ。
アリアの運動能力は凡人である。
外遊びなんてろくにしたこともない箱入りのお嬢さま──具体的にはセレスティーネやカトリーヌ──の張り手くらいなら余裕でよけられるが、たまにありえないところで転んだり、頭をぶつけたりもする。
孤児院の友人には「そこそこ運動音痴」と言われていた。
ただそれは、彼の運動神経がちょっと異常に良かったからだと思っている。
とにかくオーレル少将が、まだ磨かれていないダイヤの原石──未来の女性騎士を探しに来たのならば、とんだ無駄足に間違いなかった。
「何、これが生きがいなのです。フレデリク殿にも、御家の騎士の何名かにも、こうして稽古をつけてきました。遠慮はいりませぬ」
少将はアリアの不安を見透かしたように、大きな口で鷹揚に笑った。
「そうそう。特にセドリック……セドリック・シプリアンって大隊長がいるんだけど、彼は少将の甥っ子でね。そうしたツテもあって、グウェナエル領内に夫人と暮らせるよう館を用立てたんだ。しばらくはそこにお住まいなのでしょう?」
「ええ、よい屋敷をありがとう。家内も歳を取って静かな場所に落ち着きたいと思っていたところでした。南の庭の、何だったか……そう! 赤スグリの木を特に気に入ったらしく、ジャムを作るのだと意気込んでおります」
「それは良かった。グウェナエルはこれでも国境ですからね。いかに平和に見えようとも、戦争が起こればあっという間に火が押し寄せる。オーレル少将がいてくだされば心強い」
この胸板の厚いご老人が、アリアのトレーニングの先生となるのは確定らしい。
少将がどれだけえらいのかまだよくわからないが、天上人なことは確かであった。
アリアは勢いよく、直角に礼をした。
後ろ頭の高いところでメラニーが結んでくれたポニーテールが、ぴょんと跳ねる。
「よろしくお願いします! 先生!」
「ははは! 元気がよくて大変よろしい!」
フレデリクは顔合わせを済ませると「じゃ、仕事があるから」とさっさと引き上げてしまった。
屋敷の東側のだだっ広い芝生庭園で、大きな老人と小さな少女、それから木陰で心持ち心配そうなメラニーが見守って、トレーニングは始まった。
「では姫君、始めましょうか。まず身体を柔らかくすることが肝心です。人間というもの、毎日使う筋肉は限られています。あまり使っていない筋肉に、これから運動するぞと教えてあげるのです。はい、背伸びをしてー」
「はい!」
最初は柔軟体操から。そのあとは屋敷の周りのランニング。
屋敷は広いので一周しただけで疲れてしまったが、オーレルは「素晴らしい!」とニコニコ誉めてくれた。本人は汗一つかいていなかったが。
「まさか走り切れるとはこのオーレル、思いませんでした。姫君はお強いのですね」
「えへへ……!」
策を弄さず普通にやったことを褒めてもらえて、アリアはこそばゆくなって頭をかいた。身体を動かして褒められたのも初めてだった。
「……」
その様子を、オーレルは眩しいものでも見るように目を細めて、じっと見つめていた。
「姫君はどうして身体を鍛えようと思われたのですか?」
メラニーが入れてくれた冷たい紅茶を飲みながら、地面に直接腰を下ろして、しばしの休憩を取った。
上空の雲はいつのまにか丸々として、初夏の形に変わっている。
「わたしは養子なので、成人したあとはプランケットのおうちから自立したいんです。それには色んな手段を準備しておいたほうがいいと思って。自分で戦えれば、冒険者にも、騎士にも、兵士にもなれますから」
「……そうでしたか」
「あとはわたしを殴った人に仕返しをするためです」
「殴った!?」
オーレルはすっとんきょうな声を上げると、──みるみるうちに、表情を険しく変えた。
「……一体、どこの、だれが、そのような蛮行を犯したのです」
優しげだったオリーブの瞳は一瞬にして威厳と怒気を湛え、分厚い身体からは後ずさるような気迫が発奮される。
(! ……じっ、地獄の大悪魔……!?)
メラニーは息を呑み、お盆を抱きしめて後ずさった。
「プランケットの家中の者ですか?」
「秘密です!」
一方、アリアは動じずにニッコリ笑った。
「わたしの相手ですもの。自分の手で一発返さなくちゃ気が済まないわ。だから、先生は知らなくていいんです!」
邪気のない笑みにオーレルも気を抜かれたのか、「……おやまあ」とつられたように微笑んだ。
周囲を圧倒していた殺気はたちまち立ち消え、メラニーもほっと力を抜いて木立にもたれかかった。
(お嬢さま、平然としていられるのおかしくないですか?)と思ったが、口を挟むのはやめておく。
メラニーはできるメイドなのだ。
「でもその人、すっごく強そうなんです。一発食らわしたとしても、そのあと無事に逃げられるまでに足腰をしっかり鍛えないといけなくて」
「そうですか、そうですか」
オーレルは孫でも見るようにニコニコしながら、「お任せあれ!」と厚い胸板をドンと拳で叩いた。
「か弱き姫君に暴力を振るうような無道の輩、古今東西、気高き魂に勝てた試しがありませぬ。このオーレル! 必ずや、姫君を正義の闘士へと鍛えぬいてみせますぞ!」
「先生……っ!」
アリアのほうは、胸の前で指を組み、唯一神にでも祈るかのように感極まっていた。
(正義の闘士……? それっ貴族令嬢がなっていいもの……!?)
メラニーはここでも口を出したかったが、彼女は有能なメイドなので、顔だけで突っ込んでおいた。
「そういうことであれば今日はあと一つ、古武術の基本の型をお伝えします。肩幅より少し広く足を開いて」
「こうですか?」
「そう、そのくらい。そして右腕を上げて、脇を締めて、拳を握って……はい! 正拳突き!」
──ゴウッ!
メラニーのすぐ横を、鋭い風圧が過ぎた。
芝生が半月状に舞い、パァンッ……と遠くで何かが弾けるような音だけが、遅れて耳に届く。
(……いやいやいやいや)
これを人体に当てたら死ぬわ。
「先生、すごいです!」
「ははは! 姫君もできるようになりますよ。それまでこのオーレルがみっちりと鍛えますからね!」
「がんばります!」
「……」
小さな主が、無邪気に喜んでいる。
メラニーの脳裏に、逆三角形の分厚い身体になったアリアが、リクハルトを拳で跡形もなく吹き飛ばす様子が上映された。
後には塵しか残っていなかった。
「あの……」
「ん? どうしたのメラニー」
「ほどほど……! ほどほどで、お願いします……!」
とうとう突っ込まざるを得なかったメイドには、おっとりとした二対の笑みが返ってくるだけだった。
再び体操をやって簡単なストレッチを習い、「今日はここまでです」と言われる頃には、アリアはすっかりオーレルのことが大好きになっていた。
「オーレル先生! 次はいついらっしゃいますか!?」
「お父君からは週に二度と頼まれています。次は木曜です。教えたトレーニングは、お一人でもしっかりできますかな?」
「できます! わたし、迷宮に入ってみたいんです。そのために、槍と剣を習いたいんです! あと正拳突きも」
「ははは! 勇ましい姫君だ。では次回は剣の握り方を教えましょう」
「やった!」
オーレルもまた微笑ましげに目を細め、アリアの頭を大きな手でぽんと撫でた。