第162話 破戒的武術訓練
イリオン村から断崖絶壁を下った先にあるのは、海を間近に臨む修練場『ギュムナシオン』。
立派な名前を冠されているが、先だってのアルマゲドンでニュクスとティルダがこしらえたバカでかいクレーターのひとつである。
もとは磯近くのゴツゴツした岩場であり、人外どもの無駄な膂力によって滑らかにえぐり取られた場所を何かに使えないか考えていたところ、『打ち込みにちょうどよい空き地ですな!』という何もかもが鍛錬の材料に見えてしまう脳筋男の言によって、用途が決定された。
そこから匠たちの手によって陥没の傾斜を修繕され、クッション性のあるチップを敷き詰められるまでには、半日とかかっていない。
ギュムナシオンの真ん中に立つのは、その血に巨人でも混ざっているのかと疑うほどの大男。
「殿下! 遅刻ですぞ!」
「ごめんなさいインゴルフ師範!」
周囲で見学を許されたユスティフの子らは、(殿下……?)と一様に眉を寄せた。
クレーターの縁には黒尽くめのローブを纏った少年が、鋭い眼差しで腕組みをして佇んでいる。
「身分に関係なく、時間は厳守! 本日は三分遅刻したので、修練場を三十周! ……と言いたいところですが、あなたさまが現在ままならない状況であることはこの脳筋、よ~くわかっております。よって! 腕立て伏せ三十回でよしとしましょう!」
「ひ~~! ペナルティの大小の差がわからない~~!」
なんとか腕立て伏せをこなし、へろへろと立ち上がったアリアに、身の丈ほどもある木剣がブオン! と投げて寄こされた。
(危ない!)
身を乗り出しかけた少年たちをよそに、伸ばされた少女の細い腕は、思いのほか力強く模造武器を受け止めた。
「柔軟はお済みか?」
「はい!」
「よろしい!」
ダン!
インゴルフが足を踏み鳴らすと、──更地であった大地に、バキバキと音を立てて格子状の亀裂が走った。
舗装材を割り開きながら地中から隆起するのは、壮麗な円柱。
柱身には規則正しい縦溝、上部にはアカンサスの葉の装飾。
白大理石を思わせる白亜の石柱は、まるでそこにかつて神話の遺跡があったかのように、天高く幾本もそびえ立った。
「では、本日も十本勝負! どこからでも、お相手仕る!」
男の右拳がズバン! と左手のひらを打ち、夕凪を払い除けんばかりに力強い声が放たれた。
「よろしくお願いします!」
お辞儀とともに、ポニーテールがぴょんと跳ねた瞬間。
編み上げブーツの足裏が、力強く地を蹴った。
スパン!
一瞬にして振り抜かれた木剣は、大男の前腕であえなく防がれたが、打擲音が鳴るまでの短さにオーギュストとフランシスは目を見張った。
(半円歩法……! しかも、早い!)
剛腕に吹き飛ばされて着地しながら、アリアは右手で柄を、左手で刃の半ばほどを握る持ち方に切り替えた。
ロングソードを接近戦で使用するための術、ハーフソード。
刺突に特化したこの技法は、安全に敵を攻撃できるリーチと引き換えに重装鎧を打破する攻撃力を加算しようとする、命知らずのための戦闘術である。
構えを変えた隙を見逃さず、インゴルフが拳を叩き込む。
アリアは身を低くして避けると、突き出された剛腕を逆に自分に引き寄せた。
大きな体躯にぐるりと身体を巻き付けながら相手を前方に倒し、分厚い体側面と腕の間から上半身を覗かせる。
両手で硬く掴んだハーフソードで狙うのは、むき出しになった後頭部。
(レッ……格闘技!)
「うむ!」
地面を向かされながら、インゴルフがニヤリと笑った。
後ろ手に少女の首根っこを掴むと、軽い荷物のようにポーンと上空に放り上げ、身動きの取れない空中でそのまましたたかに額を打ち据えた。
「っ!」
「一本!」
師範がおのれでカウントし、ギュムナシオンの縁で見守る少年魔法医が、眼鏡の奥の双眸をスッと細める。
並外れた戦士にしてはものすごーく手加減をした一発──それも刃ではなく平の面での一撃だったが、アリアの視界には火花が散り、小さな丸い額には血が滲んだ。
「嫌ッ……! アリア!」
クリステルの喉から悲鳴が上がった。
列柱に身体ごとぶち当たるかと思われた少女はしかし、寸前に体勢を変えて柱身に足をつけると、迫り来る拳を横飛びで避けた。
木剣を垂直に突き立てて、フィールドに食らいつく。
「戦闘における勝利とは、主導権の奪取! そして敵が崩れるまで戦場をおのれの支配下に置き続けること! 今この瞬間、主導権がどちらにあるかお分かりか!?」
しなる鞭のような声で指導をしながら、一瞬にして接近した大男が木剣を切り下げた。
「そりゃもちろん、師範……!」
両手で持った大剣でかろうじて弾くと、その間隙に身体を滑り込ませて右足を力強く蹴り出した。
「けど絶対、奪ってみせる!」
ドッ!
またしてもアリアからの攻撃はインゴルフの剛腕によって防がれたが、硬いつま先が上げた音がその蹴攻の重さを周囲に悟らせた。
「カウンター、よし!」
人間離れした男は、ビクともしない輝く双眸で小さな主君を見下ろしていた。
その顔にあるのは力強く楽しげな笑み。
「真の戦士は防御などしないもの! 殴られたら殴り返し! 斬られたら斬り返し! 突かれたら突き返す!」
鞭のような発声と同時に、インゴルフは連続で斬撃を繰り出した。
斜め上方から真っ直ぐに切り下げる『憤激』は、怒りに我を忘れた人間が行う、単純にして最大の破壊力を持つ攻撃方法である。
離れた縁にもその風圧が飛んでくるほどの重さ、空間を斬るように鋭い速度、間隙を与えぬ連続性。
礫岩のごとき攻撃が自分に降り注ぐことを想像してフランシスは後ずさったが、──小さな白金の頭は、全くたじろいでいなかった。
歯を食いしばって猛攻に耐え続け、人間よりも先に模造武器が限界を迎える。
木剣にヒビが入り、半分に折れて弾き飛んだ。
「!」
息を呑んだのは見守っている者たちだけで、当のアリアは微動だにせず、折れた半分を逆手に持ち替えると剣戟の隙に身をくぐらせて、水平に払った。
インゴルフの腹部の生地に、ビッ! と切れ目が入る。
「よし!」
大男は、至極うれしそうに破顔した。
(あの握りはダガー術……! それに蹴武術と、完璧な攻防一体技も身に付けている!)
オーギュストはただ、目を見開いていた。
このような動きをする者など、騎士学校の上級生はおろか現役の騎士にもいない。
(これはっ、ユスティフ騎士道の鍛錬ではない! おれがわかるだけでも、アングリアとノルデンの流派が混ざってる……! それに、武器が変わる!)
騎士たちが行う鍛錬とは、そもそもが戦地で生き残るための総合格闘術である。
暗黒時代の東征を経て、強大な異教徒と戦うための戦技が西方大陸各地から集約され、荒くれ者たちを統べるためのマナーが生まれた。
獣のごとく戦う術と人間らしく振舞う術を融合させたものが騎士道であると、オーギュストは心得ている。
まさしく戦闘においての万能家──その当の騎士から見ても、アリアの駆使する技術は、あまりにも多種だった。
嗜んだもののスマートなお披露目というよりは、川を背にしたネズミが猫に相対するような、手段を選ばない決死の抵抗。
超ド級の大男VS.小さな女の子などという、良識と常識のある人間の国に興ろうはずもない組み合わせで訓練しているのだから、無理もないことではある。
年若い騎士を驚愕させたのは、鍛錬の異常さだけではなかった。
かつて共に汗を流したはずの年下の少女は、目を瞠るほどに成長していた。
額に受けた打撲痕は鼻梁まで血が滴り落ち、新たな陥没ができるほどの拳は何度でも肌をかすめ、至近距離に叩き込まれる。
それでも朝焼けの瞳は臆することなく、ずっと相手を見据えていた。
(血が滲むほど腫れて……本当は泣きたいほど、痛いだろうに)
プランケット邸でのアリアを、少年は覚えていた。
オーレルによる修練はどんな敵とも戦えるようにという方針のもと平等に相手を組まされたので、オーギュストとアリアが打ち合うこともあった。
当然、将来を嘱望される騎士とそこそこ抜けた娘では厳然たる実力差があり、オーギュストはいつも敬愛する少女に傷一つつけることなく勝利を修めていた。
その日も寸止めをするつもりが、手が滑ったかぼんやりしていたか、うっかり間違えて模造剣を一発入れてしまうというしくじりをした時のこと。
スパン!
打擲音ともにひっくり返って尻もちをついた少女は、額を押さえ、大きな目にぽかんと空を映した。
遅れて、じわっと潤んだ瞳を目にして、オーギュストもフランシスも飛び上がって駆け付けたのだった。
『申し訳ありません、アリアさま!』
『大丈夫!?』
『傷を、見せて頂いても?』
『へっ平気です! ごめんなさい、ちょっとびっくりして……!』
『いいから!』
無理やり手をどかすと丸い額は赤くなってしまっていて、少年の胸は大いに傷んだ。
『何ということだ……! 心より、お詫び申し上げます!』
『そ、そんな深刻な顔をするほど……? あの、完っ全にかすり傷ですよね?』
『おれも騎士のはしくれ……! レディーの顔に傷をつけた責任は取らせて頂きます。ご安心下さい、すぐ領主さまにお話をして参りますので。……きっと二人でなら、よい家庭を築けると思います』
『ちょっっっと兄さん! ここぞとばかりに何ぶっ込んでんの!? 木剣でケツぶっ叩くよ!?』
──その肌に触れるものは、柔らかいものと温かいものだけであれと願ってきた。
だが久しぶりに目にしたオーギュストの姫は、傷を負うことにも、自分より遥かに強大な相手に挑むことにも、わずかな恐れも見せない。
(違う。プランケット邸で一緒に授業を受けていたあのころのアリアさまとは、まるで違う。……でも、なぜ?)
命を捧げても惜しくはないほど敬愛している唯一のレディー。
だからこそ、いつだって見ていたから知っている。
彼女の才は、ここまでのものではなかったはず。
善戦しているように見えたが、一打、また一打とインゴルフの攻撃が入るたびに、小さな身体は削られていった。
前腕に青痣ができ、脛に血が滲み、滴る汗で木剣を取り落としそうになりながら、崩れ落ちそうな膝を立て直して何度目かの急襲をかけた、その時。
「──あ!」
戦士の本気の膝蹴りが、アリアに直撃した。
参考文献「中世ヨーロッパの武術」長田 龍太 (著)新紀元社