第161話 ささやかなる全面戦争
水平線に大きな太陽が沈む刻限。
長く伸びた影を競うように、岬へと続く坂を上る小さな人影が三つ。
「ちょっと! 紳士なら、急いでいるレディーに道を譲るべきではありませんこと!?」
「うるさいな! レディーっていうのは、気に食わないことがあるからって紳士の脛を蹴飛ばしたりしないものなんだよ!
「あーらごめん遊ばせ、この上なく邪魔だったものですから」
「くああーーーっ! 感じ悪ううう!」
一日中小競り合いをしていた、クリステル・フラゴナールとフランシス・リスナールであった。
彼らの後ろに、苦笑いを浮かべたオーギュストが続く。
(まあ、あの出会いでは仕方がないか……)
二人の幼い少年少女の邂逅は、フラゴナール邸でのお茶会。
フランシスが、領内最高位である国境伯家の次女に暴言を吐き、聞き咎めたクリステルが軽蔑の眼差しを注いだ一幕のこと。
品行方正を絵に描いたような優等生である彼女が、最愛の母が主催する集まりで初対面の少女を口汚く罵倒した少年を、許容するはずもない。
(ましてや、言うに事欠いてレディーを『ブス』呼ばわりしてしまったときては……)
フランシスへの態度とはうってかわり、自分に対しては礼を尽くしてみせる高爵位者の少女がどのように誇り高い人間か、オーギュストにはよく理解できた。
勤勉にして公平。
規律を尊び、高邁な精神を愛する。
脇目も振らずにたゆまぬ努力を重ね、年長の見習いたちを制して馬上槍試合の優勝を掴むまでとなった若き騎士は、幼い才女に自分と似た気質を感じ取っていた。
わざとではない過ちなら、何度だって大目に見る。
だが、一発退場の禁忌というものが、こういう人間にはハッキリと線引きされているのだ。
「ああいやだわ。どうしてわたくしの親友は、こんな人に気を許しているのかしら」
クルミ色の頭など視界に入れるのも不快とばかりに顔を背けて、伯爵家の一人娘はほう……とため息をついた。
「反射式フラクタル術式の論文はおろか、隣国アフラゴーラのアルファベットすらまともに読めないなんて……ダチョウ並みとしか言いようがない、気の毒な脳の持ち主だこと。ああ、あの子も禽獣か何かだと思ってるのかもしれないわね」
「くっ、ダチョウの脳みそがどの程度かさっぱりわからない……! ぼっ、ぼくだって、あんたみたいな嫌味ったらしい女がアリアの親友だなんて、全っ然信じてないからね! 自分で勝手に言ってるだけじゃないの!?」
「……」
一日中飽きもせずキャンキャンと元気よくやりあう小さな二つの頭を見下ろして、オーギュストは遠い目をした。
(この子ら……友だちが、アリアさましかいないんだよなあ……)
そう。
目も当てられないほど最悪だった初対面を引きずりに引きずったうえ、双方たった一人しかいない友人を取り合っているという意識が事態に拍車をかけて、この小規模にして手のつけようがない全面戦争が勃発しているのだった。
「フラン。レディーに失礼なことを言うと、あの方にガッカリされるぞ」
「なっ、なっ!?」
油断していた背後から急襲を食らったフランシスは、『アリアにガッカリされる』という最悪の事態を想像して青ざめながらも、わなわなと拳を握って兄を睨み上げた。
「ぼくが悪いって言うの!? 言っとくけど毎っ回、先にケンカを売ってきてるのはこの人のほうだからね! 兄さん、どっちの味方なわけ!?」
「もちろんレディーのほうだ。おれは騎士だからな」
「……!」
絶句するフランシスに対し、クリステルは「ありがとうございますわ、オーギュストさま」と、品よくスカートを摘んで礼を述べてみせた。
チラリとフランシスを眇めるカイヤナイトに浮かぶのは、バカにしきった嘲笑。
「こっ、この悪女〜〜……!」
悔しさのあまり、大きなペリドットがいよいよ半泣きになってきた時。
バタン! と扉を締める音に続いて、岬の家からパタパタパタと足早に駆け下りてくる人影があった。
小気味よい足音に坂の上を仰ぎ見た三人は、それぞれの碧眼を見開いた。
「!」
高い位置で一つ結びにされてサラサラと夕凪になびく、癖一つないプラチナブロンド。
簡素なブラウスとキュロットから伸びる、華奢にして健やかな手足。
「わっ、クリス、フラン、オーギュストさま!? ビックリした~! 三人でお散歩してるの?」
こちらを認めて目を丸くした尋ね人は、ピカピカと輝く屈託のない笑顔を咲かせてみせた。
(ま、眩しい……っ!)
一年半ぶりに目にする薄着の訓練着、そして一年半前より格段に成長した好きな女の子の姿に、フランシスとオーギュストはぎゅっと目を瞑った。
……なぜか妙に見覚えのあるよく肥えた不死鳥が肩に乗っているあたりは、視界に入れないようにしている。
「ふわああ……っ!」
クリステルは感極まった息を呑みながら、涼しげな目をうるうると潤ませた。
(短いキュロットに編み上げブーツ……! 『女海賊アントネッラ』の挿絵と同じ! 男の子の服を着て大活躍する、無敵のヒロイン! まさに、ピッタリ……!)
ふだん『分厚い専門書以外読みませんけど?』という澄ました顔をしている彼女は、お気に入りのヒロインの装束を親友と重ね合わせて涙ぐんでしまう程度には、夢と希望でいっぱいの冒険小説が、大好きであった。
速攻でアリアに飛びついてマシンガントークを繰り出そうとしたクリステルは、──信じがたいものを見るように自分に注がれる、リスナールの兄弟からの視線に気がついた。
「ンンッ……! あ、あら、いけませんわね、わたくしとしたことが」
わざとらしい咳払いとともに、落ち着き払った顔で髪の乱れを直す。
北方山脈のごとくそびえ立つプライドの持ち主にとって、子どものような振る舞いを家族と親友以外の前で晒すなど、起きてはならぬ惨事に他ならない。
無理やり平静を装ったクリステルは「ごきげんよう、アリア」と淑女そのものの笑みを浮かべてみせた。
左手をシュッと伸ばして、横の邪魔な小型犬を制しておくのも忘れない。
「うららかな夕刻でございますこと。ディナーの前に、軽い読書のお誘いに参りましたの」
「あ、ずるっ! ていうか性格ぜんぜん違う……! アリアッ、ぼくと遊ぼう!」
我先にと誘いを受け、天使のような顔はみるみるうちに眉を下げた。
「三人とも、ごめんなさい! 今から用事があるの……! 夜なら空けられるから、晩ごはんのあと遊びましょ!」
「え~~~! また夜~~!?」
オーギュストはアリアの足取りから、(急いでいらっしゃるようだ)と察したが、フランシスは正直に唇を尖らせた。
「せっかく来たのにこれじゃあつまんないよ! きみはずーっと忙しそうにしてるし! 領主さまも奥方さまも、好き放題に突撃するわりに全っ然ぼくらに譲ってくれないし! きみのご両親、ちょっと大人げなさすぎじゃない!? ──あの子たちとはずっと一緒にいるのに、ずるい!」
拗ねた眼差しでじっとアリアを見つめるクリステルもまた、口には出さずとも同じ気持ちであった。
人前で駄々をこねるのは淑女としてのプライドに反するので、黙っているだけである。
(一日中、あなたと好きなだけ一緒にいたくて、お尻が痛いのも我慢して遥々やってきたのに……)
眠れないほど会うのを楽しみにしていた親友の隣には、──見知らぬ子どもが、六人もいた。
赤い目を持つ、亡国の子どもたち。
親友の淡い瞳とは違う、ハッとするほどに濃いそれぞれの赤は、思わずたじろいだこちらを見透かすようにどこまでも深く澄んでいて、いつだって小さな白金頭の周囲を隙なく囲んでいる様子は、入り込めない結束を感じさせられた。
手紙で言葉を交わしていた時よりも、ずっと遠くにいるような距離。
「あの子たちとは遊んでいるわけじゃないの」
フランシスの主張に、アリアは柔らかな苦笑いを浮かべた。
「というかむしろ、付き合ってもらってるのはわたしのほうなのよ~」
「……」
それは軽い調子の弁解だったが、二人の少年少女の口を閉ざすには充分な一撃だった。
「ごきげんよう、アリアさま。その服装……もしかして、今から鍛錬されるのですか?」
オーギュストの問いに、「そうなんです!」と首が縦に振られる。
「村の中にとっても強いパパがいて、いろいろ教えてもらってて……! このまま行けば、やがてはゴリマッチョにも手が届きそうな気がしてるんです!」
「ゴリマッ……失礼。もう一回仰っていただいても?」
「つまりね、聳え立つ山岳のようにゴリッゴリでバッキバキのナイスバルクになって、肩にちっちゃなジープを乗せてね……あっいけない! もう行かなくちゃ! 来てくれてありがとう三人とも! またあとでね!」
「あっ……」
坂の下へと駆けて行ってしまった背を、ユスティフの子らは中途半端に手を伸ばしたまま、呆然と見送った。
「見たいのなら、案内しますよ」
不意に耳元で囁くのは、笑みを含んだ声。
「!」
反射的にサーベルの柄に手をかけながら、オーギュストは弾かれたように振り向いた。
「きみは……」
サラサラとした灰色の髪、長いまつ毛に縁取られたガーネットの瞳。
パリッと糊のきいたシャツにサスペンダー、半身ほどもあるクレイモアを佩いた、少年とも少女とも判別のつかない麗しい騎士。
「ようこそ、我が主君のご友人さま方。ご往訪、歓迎いたします」
ティルダ・ハーゼナイは、胸元に手を当てた慇懃な礼をして微笑んだ。
目の醒めるような秀麗な顔には、どこか圧のある笑みが乗っている。
(え? この人昨日、ポッと出のクソ野郎って兄さんのこと言ってなかった?)
(い、言ってた……)
困惑を隠せない兄弟たちを尻目に、一歩進み出たクリステルがスカートの裾を持ち上げた。
「お願いしてもよろしいかしら」
「喜んで。咲きたてのすずらんの花のように清楚で知的なレディー……お手をどうぞ、こちらに」
「まあ、お上手」
クリステルの表情が、わずかに緩んだ。
彼女はどちらかといえば、男嫌いである。
より正確に言うと、バカを見下げ果てて憚らない。
男なんてものは九割五分のところ、野蛮で汗臭くて無駄に毛深くて、ゲスな下ネタで爆笑しデリカシーの一つもない類人猿。
自分の父親の切った爪以下の下等生物に時間と労力を割くくらいなら、壁の滲みを数えて一日終わったほうがマシ。
伯爵令嬢はそう考えていた。
(でも、この方は……)
プロトコルに則った挨拶、流れるような美辞麗句、育ちのよさを感じさせる麗しい笑み。
(半獣の子にも、わたくしたちと同じ側の人間がいるんだわ……)
その事実は、慣れない旅先で慣れないケンカを繰り広げ、ささくれた少女の胸を少しだけ温めた。
──もちろん、実際にはティルダは男ではないし、お育ちのよい令息とは正反対のいい性格をしているということを、彼女はまだ知らない。
恭しく手を取って導いていく騎士の姿に、一連の流れをこっそりと見守っていたイリオンの子どもたちは、絶句した。
「ティ、ティルダがっ……! ティルダがユスティフ人に親切にしてるよ!?」
「怖い怖い怖い」
「なにが目的だ……!?」
「どうせろくでもないことだよ」
気の置けない仲間ゆえの言いたい放題の評価を交わしつつ、四人は目を見合わせて頷きあった。
──念のため、ついて行かないと。