第16話 仕立屋シプリアン(2)
「あらあら、エミリエンヌ奥さまが小さい子に懐かれるなんて信じられないわあ。槍でも降るのかしら」
「うるさいわよシプリアン。この子が変なのよ」
「ねーえ、コルセットだけじゃなくてドレスも変えなくてはただの寸胴になってしまうわよ? アリアちゃん」
鳶色の瞳が試すように細められた。
人好きのする笑顔でごまかされるが、よく見たら鋭い顔立ちをしている。
「それなんだけど……これ、いります?」
アリアがこれと指したのは、鯨骨でできたクリノリンである。
正式名称をアリアは知らないが、スカートをこんなに変形させていれば、そりゃウエストも変形しないと帳尻取れないわな、という感想である。
「これはねえ、クリノリンって言うのよ。これがない頃は、スカートをふんわり広げるために糊で固定したり、下にたくさん履き込んだりとそりゃもう大変だったんだから。これでも歩きやすくなったのよ~」
「ふんわりよりも、すらっとしたスカートがお母さまにはお似合いだと思うんです。袖もシンプルで……うーんとね」
アリアが目をキョロキョロさせると、シプリアンはすぐにスケッチブックと鉛筆をよこしてくれた。
別段、アリアには絵心はない。耳が異常に良いこと以外は一般人である。
だが、今のドレスのウエストを健康的な角度に直し、袖とスカートのボリュームを抑えただけなので簡単に書けた。
(ん? なんか……どこかで見たことある気がする)
懐かしいような気がして目を眇めたが、どこで見たのかは思い出せない。
エミリエンヌとシプリアンも横から顔を出して、つたないデザイン画をジッと見下ろした。
「……いいわ」
断じる声は、少しだけ遠くから聞こえるようだった。
「でも奥さま、これ……」
シプリアンが心配そうに何ごとかを言いかけたが、エミリエンヌは扇をパラリと開いた。
「いいのよ、意匠をユスティフのものにすれば誰も何も言えないわ。――素晴らしかったでしょう?」
「……そうね」
アリアは目前の会話の意味がわからなかった。
答えを求めて養母の顔を見つめてみたが、そのツンとした横顔から答える気がないことはすぐに知れて、何も尋ねなかった。
こういう時、引き際を誤ってはいけない。
「生地はシルクサテンがいいわ。刺繍は同色で……ユリでも入れておけば文句ないでしょう」
「あら素敵」
口火を切ると、二人ともすっかりデザインの具体化に夢中になってしまった。
「色はどうなさるの? やっぱりお好きな黒?」
「そうね……」
エメラルド色の瞳が、なぜかチラリとアリアを流し見た。
「……いえ、赤。このドレスには、赤がふさわしいわ。セレスとアリアのドレスにも一着ずつ作ってちょうだい。わたくしには真紅、二人にはそれぞれ似合う赤、似合うデザインに変えて」
「やだ! 赤を三着も!? 三者三様に似合うデザインで!? まあー! また創作意欲が湧いてきちゃったじゃない!」
胸元や裾の処理から、合わせるヘッドドレスやジュエリーまで話し込み、シプリアンが屋敷を辞すころには日はすっかり傾いていた。
お針子たちを引き連れて、ホクホクとした表情で「アリアちゃん、あなたの初めてのドレスも期待しててね」と声をかけられて、アリアは「ええ、もちろん!」と頷いた。
「あとコルセットもね? 忘れないでくださいね!?」
たいそう盛り上がっていたが、ドレスはおまけでコルセットが肝である。
「わかってるわよぉ。どのくらい絞ったら身体の毒になるのか、必要最低限の補正はどれくらいか、実は知っているのよ。伊達に女のくびれを二十年も触っていないわ」
「その言い方はどうかと思います~」
座った目で突っ込むアリアの頭に、大きな手がぽんと乗っかった。
「あたしはシャルル。アリアちゃんにはシャルルって呼んでほしいわ。なんでかって言うと、あなたのお家にも同じシプリアンがいるのよ。といっても、お屋敷の中じゃなくて城塞にいるんだけど」
「えっ」
エミリエンヌを見上げると、「そうだったわね」と興味のなさそうな返答があった。
「国境騎士団の大隊長よ。よくあの男と視察やら演習やらで話し込んでいるわ」
「だいたいちょう」
「ちなみにアリアちゃんのお父さまが聯隊長よ」
「れんたいちょう」
軍の部隊の名称だろう。
大隊長と聯隊長のどちらが上なのかは正直わからないが、とにかくえらい人物らしい。なにせ「長」である。
「それはそれは。今後ともご贔屓に」
心得たとばかりにキリッとした顔でゴマをすると、シャルルは「おほほほほ!」と破顔した。
「おバカさんねえ、こっちのセリフよ。――意地っ張りで気が強いのに打たれ弱いけど、悪い方ではないからよろしくね」
「知ってます。とっても良い方です」
「ちょっと。誰の話をしているの?」
太陽が山の端に隠れてなおしばらく続く残光で、まだ出歩けるくらいには明るいが、少しずつ色彩が奪われつつあるころ。
相変わらず一人きりの夕食を終えたアリアは、腹ごなしに庭を散歩していた。
沈丁花の香る少し強い風が頬を撫でる、うららかな宵の口。
誰もいない場所で束の間、息をついて安らぐことができ、久しぶりに動きを止めた思考の水たまりは次第に澄んできた。
懐かしい旋律もいくつか鼓膜で呼び起こされて、その中からなんとなく優しい子守唄を選んで、口ずさんでみる。
もしもわたしが イチジクの木だったら
あなたの上に影を落としたい
手のひらのように 大きな葉を伸ばして
夏の盛りの重い日差しが あなたの眠りを妨げないように
突風が吹いて、一瞬目をつぶった。
「!」
ふと視界の端に人影がよぎった気がして、アリアは池の片隅に目を向けた。
樫の木の根本、弟切草の隙間。
黒い蛇が首をもたげてじっとこちらを見つめていた。
沈みゆく日に色彩が掠れていく刻限にあって、いっそ鮮やかな黒だった。
禍々しいようでいてつぶらな瞳がかわいらしく、生来、動物好きのアリアは「あら」と微笑んだ。
「あなたも一人なの?」
池の端に腰を下ろして丸石を池に投げると、晴れた宵の空が映る水面が同心円状に歪んだ。
地面に身を投げだして、深く息をついてまぶたを閉じる。
先日セレスティーネに投げつけられた言葉がまた蘇ってきてしまった。
「あなたなんていない方がいい……か」
考えても仕方のないことを考えるのは、アリアのシンプルな思考にはそぐわない。
ただ、こうして何度も思い出すというのは、きっと自分は傷ついたのだと認識せざるを得なかった。
「いなくならないといけないのかしら……」
この家の実の娘はセレスティーネである。
あれだけ拒絶されるのなら、アリアがいるのは害にしかならないだろう。
とはいえ出ていく当てもないことはわかりきっていて、どうにもならずに、ただ青く澄んでいく空に手を広げた。
金色の星が小さく瞬き始めていた。
「空でも飛べればいいのに」
呟いてみたことに意味はなかったが、(いや、食い扶持も稼げそうだし、やらかしても簡単に逃げることができるな……?)と、案外アリであることに気がついて、少しおかしくなった。
身を起こして辺りを見渡してみると、蛇はすでにどこかに去り、ただ強い風のざわめきだけが聞こえていた。