第153話 約束の地は屍の果て
視界に火花が弾ける。
「……!」
耐えきれずにドッと膝をつき、くの字に身体を折った。
「姫君!?」
「……ッ! ……!」
パタパタパタ……と甲板に血が滴り落ちる。
(痛い……! 痛い痛い痛い痛い!)
声も上げられぬ激痛の所以は、ない。
だが知らぬ間に、茨から作られた冠を被っていた。
そのトゲだらけの冠ごと、だれのものとも知れぬ屈強な腕が、頭を砕こうとしていた。
濃霧に侵されるように、視界が上部から赤く染まっていく。
メキメキと音を立てているのは、自分の頭蓋骨。
「何だこれは!? いったい何がどうなっている、魔法使い!」
強張った薄い肩を支えながら、蒼白になったティルダが怒鳴った。
プラチナブロンドから覗く額には脂汗が滲み、耳を押さえる指の間から鼻の奥から、固く瞑った目頭から溢れた血が、白と紺のワンピースにとめどなくシミをつけていく。
(アリアさま……!)
ティルダの最愛の主は、明らかに最悪の苦痛の只中に落とされていた。
なんの前兆もなく。
(どこだ!? 敵はどこにいる!? ああ……っ捕捉できなければ、わたしは何一つ役に立たない!)
相変わらず驚異の忍耐力でうめき声一つ上げないまま、ただ身を固くして耐える小さな身体を、何もできない絶望に目を潤ませながら掻き抱いた。
「しまった! もう、届いたか……!」
「と、届いた……?」
魔法使いの言に、あまり物覚えのよくないイリオン人も、ぼんやりと思い出していた。
自分たちの帰郷を阻むのは、目前の桁外れの怪物だけではない。
──島に近づこうとする者を阻む、得体のしれぬ音波があるのだということを。
「おっおっ、おれたちは何ともねえぞ!?」
「バカあんた、姫さまは耳がいいじゃないか! きっと、一足先に受けちまったんだ!」
「そんな……!」
頭部からの出血を止められないまま、身を震わせて嘔吐しはじめた自らの王を、赤い目たちは恐慌に陥りながら見つめた。
「イリオンに近づけばみんな、ああなっちまうっていうのか……!?」
「……ん~了解! 旋回して全力で退避する! ニュクスさま、エンジンを──お?」
素早く意識を切り替えて舵輪を持つ手に力を込めたニコスをよそに、魔法使いが左手で何かを引き出した。
船の前門が、ガパリと開く。
姿を見せたのは、ぬらりと黒光りする極太の砲身。
ガチッ! ガガガガガガッ! カンッ!
左手が何かを切り替えるたび、金属と金属が火花を上げて噛みあうけたたましい音が、階下から響く。
「あの、何してんの?」
「終わりました」
バルン!
ドッ……ドドドッ!
またたくほどの間を経て、──砲口から噴き上がったのは砲弾ではなく、ジェット噴射。
「うわ、あああああ……!」
莫大な揚力に圧され、快速船アルゴーは後方に向かってすっ飛んだ。
今度は前方につんのめった人々は、半泣きで手すりや策具を掴んだ。
「ちょっと~。バックギアあるんなら教えてよ~」
風にあおられながらもマイペースに頬を膨らませた操舵手に、「そもそも船をバックさせるのやめて!?」「これもう見た目しか船じゃねえよ!」「騙されたよ……!」と、涙声のクレームが寄せられた。
「あ」
ニュクスがおのれの手の甲を見ながら、小さく呟く。
「噴射角度を間違えました」
「え?」
聞き返す間もなく、──船は上空に向かって、跳ね上がった。
「ぎゃあああああああーーーーー!」
海風を抜けて、雲を切る。
メリディエス偏屈老人組合は泡を吹いて腰を抜かし、チンピラたちはひっしと抱き合い、人々は白目を剥いてそれぞれの神に祈った。
「勘弁してくれよ~……!」
見張り台のうえのボアネルジェスは、縁にしがみついて泣き言を零しながらも、生来の律儀な性格に従って生真面目に前方を見据えていた。
「!」
少年のガーネットに、彼方の水平線が映る。
およそ、8海里。
小高い丘ほどの高さから、水平線を眺めた場合に見通せる長さである。
星が球体である以上、地上で見渡すことのできる距離は決まっており、ゆえに数十海里離れたメリディエスとイリオンが、互いを直接視認することは叶わない。
だが上空から角度をつければ、水平線への距離は、はるか彼方まで広がる。
「ランドフォーーーーールッ!」
声を限りにした少年の叫びは、剛速の風の中でも彼らの耳に届いた。
血と冷や汗でかすむ視界の中、アリアもまた顔を上げた。
大騒ぎに目を覚まし、鎌首をもたげた怪物の向こう。
灰色の海煙の果て。
「……!」
十一の島、火山を擁する一つの主島。
大地のへそと呼ばれる丸島を囲んで放射状に延びる形状は、大輪の花にも、雲ひとつない蒼天に浮かぶ太陽にも似ている。
(あれが……)
激痛も血の臭いも忘れて、朝焼け色の瞳はただ見開かれた。
神々に愛された千年王国、イリオン。
淡く色を変え始めた水平線から伸びる頼りない日差しをつかみ取って、闇の中、黄金色の輪郭が浮かび上がっていた。
二十年前に破壊された市街地も、暁の賛歌と尊称された王宮も、オルフェンたちの壮麗たる居城も、この高度から視認することはできない。
ただ活火山の激しい隆起と深い森、島の周囲を縁取る白い砂浜、そして宝石のように輝きはじめた浅瀬だけが、遠ざかり千切れていく雲間からたしかに見えた。
人がいなくても、変わらず時を刻み続ける雄大な自然。
(必ず、帰ってくる……)
粉々に叩き砕かれ、打ち捨てられた約束の地に、おのれの血で汚れた小さな手を伸ばしてぎゅっと握りしめた。
(何が阻もうとも絶対に、諦めない。……だから信じて、待っていて!)
さて、勢いに任せて一気に後退した海の上。
ハラハラと揺れるいくつもの目に見守られながら、負傷した頭部に当てられた冷たい手が、そっと外された。
「頭蓋骨のヒビ、脳内の出血は修復しました。……アリア。具合はどうですか」
「もう大丈夫! 何ともありません! さっすが、世界一のお医者さん!」
あちこちに血痕をつけた白金の頭が元気よく縦横に振られ、「みんなは大丈夫?」と振り向く前に、「うおおやめろ!」「まだ動かすな!」「じっとしてなさい!」と、四方から伸びてきた手に押さえつけられた。
「すみません……。ぼくのミスです」
アリアに褒められたらいつだって大喜びする魔法使いは、傍で見て誰もがわかるほど、意気消沈していた。
「こんな痛い思いをさせるつもりなんて、毛頭なかったのに……」
お決まりの手袋もつけずに大事な女の子の額にこびりついた血を拭い、唇を噛む。
「ぼくがあれを浴びたのは、イリオンまで20海里の距離。ですが、きみの耳にはあの距離で届いてしまうかもしれないということを、想定しておくべきでした。……半神たるイリオスの優れた五感、さらに色濃く血を残したオルフェンの知覚。そのいずれをも凌駕するリオンダーリの耳を、きみは持っているのだから」
「耳?」
ふと見渡せば、自分以外に血の跡をつけた者は一人もいない。
「あそこはラピス島最北端『天秤の浜』から、およそ22海里。音波が聞こえていたのは、きみだけです」
「2海里分も早く? ……わたしの耳が、そんなに先輩と差があるようには思えないけれど」
膝をついたティルダは、不思議そうに頭を傾げた主の血と汗を拭き取りながら、「いえ。いつも真っ先に気配を察知なさるのは姫君です」と首を振った。
「わたしの鼻よりも、そこの男の皮膚よりも、よほど早い」
「そのわりに、二人ともわたしと反応速度がほぼ同じじゃない? ……あ、もしかしてわたし、聞こえてるけど反応が遅いってこと?」
「い、いえ」
「そ、そんなことは」
「あーっとごめんなさいね気を使わせて。インゴルフさんにもっと鍛えてもらって、可及的速やかにゴリマッチョにならないと」
「大船に乗ったつもりでお任せください、殿下!」
ニカッと笑った大男が、胸の岩盤をドバン! と叩くと、衝撃波が周囲に波及した。
「音波……。そっか。あれ、音だったのね」
アリアは自分の耳に触れた。
爪の間には、血が赤黒い線となって残っている。
「いや~それにしても、まさかガチで割りに来るとは……」
「そりゃあ、頭が割れそうな音波だって聞いちゃあいたけど」
「もっとこう……激しい頭痛をもたらすとか、耳鳴りやら眩暈やらが起こるとか、そういうのかと」
「お前たち」
主の無事を確かめて気が抜けたイリオスたちの泣き言を、呆れたような紅紫が見下ろした。
「認識が甘い。イリオンが発信源なんですよ。そんな生ぬるいもの、あのイカれた島が出すわけないでしょう」
「「「たしかに……」」」
ため息を吐きながら、ニュクスはティルダと同じく膝をついて、アリアを見上げた。
「これでわかったでしょう。レヴィアタンも音波も、対処する目途はありません。特に音波については、きみだからこそ手を出せない。つまり、あの島を取り戻すより、そこらへんの土地を奪って建国したほうがよほど手っ取り早いんです」
「……」
アリアは自分をまっすぐに見つめるロードライトガーネットを見つめ返した。
(やっぱり、先輩は……)
このひとり生き残った夜の帷は、──イリオン奪還を信じてはいないのだ。
「ふむ。問題は音だというなら、耳の聞こえない者に偵察に行かせるのは?」
「却下よ、ニコスパパ」
小さくともビクともしない横顔が、意見を撥ね付けた。
「レヴィアたん並みの怪物がいる島に、こっちの都合で誰かを派遣するなんてできないわ。わたしの大事な民でも、それ以外の人でも。それにこういうものは、旗印が一番前に立っていなくちゃいけないの」
朝焼け色の瞳がまっすぐ見据えるのは、雲海の果て。
「あの国に最初に足を踏み入れるのは、このわたし」
「……アリア」
もともとあまりよくないニュクスの人相に、凶が滲んだ。
「さっきも言ったようにきみの耳は、地上で最もよく音を受け取る感覚器。いかなる生物も怪物も敵わない、人知を超えた螺旋です。敏感であるということは、脆弱さと表裏一体。無謀と勇敢をはき違えるなと、ぼくは再三言ってきたはずですよ」
大事な女の子を案じるあまり、幼い子どもなら泣き出しそうなくらい禍々しい形相となった魔法使いには、「そのとおり」と軽い頷きが返された。
「地上で一番かは置いとくとしても、……実によく、聞こえるの」
華奢な指が、血がこびりついたままの耳に触れる。
「この耳はどんな音だって拾う。この喉はどんな歌だって歌う。この指はどんな曲だって奏でる。音なら何だって、わたしが支配してみせる」
母から受け継いだ、耳と喉。
自分の努力と才への高いプライドを滲ませた大きな瞳が、上空の強い風にあおられた猫っ毛に隠されながらも、強く輝いた。
「結論を出すには早すぎるわ。まだなんの手も試していないもの。わたしはね、ほしいものを諦めたことはないの」
「じゃ、じゃあ、つまり……これから、殴り込みをかけるってこと?」
恐る恐る尋ねたカネラに、「アハハ! も~、そんなわけないじゃない!」と、カラカラ笑う顔が振り向いた。
「戦は準備段階で勝敗が決まってるんだって、ベルシュミットの『戦争理論』に書いてあったわ。いまのわたしたちじゃ完敗! レヴィアたんのクシャミで木端微塵になるし、島に近づいたらみんな頭が破裂しちゃう。だから、確実に勝てるような武器と条件を、整えていかなくちゃね」
「……」
「……」
「……」
よく聞こえる声は、いつものように全員に届いたが、誰も返事をせずにただ、淡い色をした小さな頭をまじまじと凝視した。
(あれに……)
(確実に、勝つだって……!?)
不運な乗組員からバシバシと寄せられる、正気を疑う目線を気にもせずに、小さな王の右手はまっすぐ水平線を指した。
「というわけで~~~、視察終了! 帰宅しましょ! おうちまでひとっ飛び、運行せよアルゴー!」
++++++
同時刻。
鄙びた地方都市のホテルには稀な美女が、眠りから醒めた。
気だるく身を起こすのは、剣高の薔薇に似た華やかで棘のある美貌。
『あらお母さま。お目覚め? こんなに早いなんて珍しいわね』
「……あなたこそ……」
サイドテーブルのうえの手鏡というあらぬところから聞こえた少女の声にもうろたえることなく、美女はまだ眠そうにまぶたをこすった。
『わたくしは賃金労働をしていたのよ』
「賃金労働? ああ、また救助コールが入ったのね。こらえ性のない男に勝ち目はないわよと伝えておきなさい」
『ちゃんと言っておいたわ。わたくし仕事ができる美少女だもの』
「カトリーヌ! あの男を起こしていらっしゃい」
人を起こすには早すぎる時間。
だが女主人命の侍女は「はい奥さま」と頷くと、迷いなく隣室の扉をノックし、誰何も待たずに侵入すると、容赦なくシャッ! とカーテンを開けた。
「彼女たちにも声をかけてきてちょうだい。さっさと朝食を済ませて出発するわよ。――乗り遅れて、たまるものですか」