第151話 我らの海
ユスティフ帝国南部に広がる海洋、エヴァンタイユ。
古言語で『扇』を意味するこの呼称は大陸独特のもので、イリオン十二島嶼からは『我らの海』と呼ばれていた。
二つの大陸に囲まれ、中心部にイリオン諸島を擁するコバルトブルーの海は穏やかな内海であり、古来、フルクトゥアト大陸西方世界の海洋貿易の心臓であった。
「風がしょっぱ~い!」
「髪の毛がバリバリする~!」
「いや待て待て、早すぎじゃないかコレ。馬車より早い船って、明らかにおかしくないか?」
頭上には、春の終わりの満点の星。
眼下に広がる夜の海には朧月の淡い光が降り注ぎ、点々と散らばる岩塊や島々に打ち寄せる波の飛沫を、ほの白く照らし出していた。
真夜中の遠出にはしゃぐ子どもたちの喧騒を耳にしながら、いずれのイリオスたちも期待に満ちた目で、闇に沈んだ水平線を一心に見つめた。
「アルゴーの速度は14ノルテス。二刻半ほど後には、イリオン最北部ラピス島の山々が見えてくるはずです」
「「「おお~~~~!」」」
二十年ぶりの故郷。
頬を紅潮させ、たまらず歓声を上げた同胞たちから、──ニュクスはそっと、視線を逸らした。
「……」
魔法使いだけが浮かない顔をしていることに、アリアは気が付いていた。
(だって……まだ、帰れないものね)
空を飛ぶ船によって、海の怪物をスキップすることはできたとしても、島への上陸を阻む音波と、火口から来た古代の怪物をどうにかしないことには、再び暮らすどころか近づくことすら叶わないのだ。
「しっかし、こう暗くっちゃ何も見えませんね。やっぱり海はよく晴れた真っ昼間が一番! こんな空の上からなら、そろそろ大灯台の先っちょも頭を出してるかもしれねえのに」
「まだそんな位置ではありませんよ、インゴルフ。メリディエスとイリオンが互いに視認できるのは、蜃気楼なんですから。本来は、水平線上に姿を見せるような近距離ではないんです。……それに、夜の深いこの刻限でなくては、我らの海を渡ることなど自殺行為」
紅紫のほの暗い双眸が、黒いインクに満ちた夜の海を見下ろした。
「見なさい。……そろそろ、やつらの海域だ」
闇とも見紛う、深い群青の中。
突如視界に広がるのは、宝石のように澄んだアクアマリン。
その美しい海水の変色を、誰もが初め、水深の差だと思った。
海底火山を多く要するこの海域では珍しいことではなく、そこだけ海底が盛り上がり、きっと燦々とした日差しに育てられたサンゴ礁が広がっているのだろうと、海に慣れた人々は考えた。
「……背骨?」
サンゴではありえない規則的に影を落とす稜線に、ティルダのガーネットが見開かれる。
見果てぬほどに長い長い、脊椎。
巨大帆船は、さらに巨大な怪物の上を飛行していたのだった。
「あれはカリュブディス。創世神話の怪物の一つ」
呆気に取られた海の民の沈黙を横顔に受けて、魔法使いは苦々しく下界を見下ろした。
「渦を為すもの、呑みこむもの……果てなき貪食の化身。海蛇の亜種にして、ハイドラ家のヒュドラたちとほぼ同格の怪物です」
「ヒュドラさんたちって、あの……好き放題に毒を作り出せる?」
映し絵で見た、ペリドットのように輝く残酷な毒を思い出したアリアに、「そのとおり」と首肯が返された。
「カリュブディスは毒こそ持っていませんが、このくらいの船なら軽く丸呑みにできてしまうほど巨大な口と、旺盛な食欲を持ちます。創世神話オケアノス賛歌によると、好物は……大量の水夫の踊り食い」
「ひいっ……!」
アリアとメリディエス市民の悲鳴が揃った。
彼らは二十年前、頼もしい船乗りの仲間たちを数えきれないほどこの海で失ってきたのだった。
「あ、あの野郎が、港ツバメたちを……!」
「寝てる、みたいね……」
上空から恐る恐る見下ろした太古の怪物はピクリとも動く気配がなく、ただ鼻先のほうから時折、気球のように巨大な泡が立ち上っては消えていく様子だけが見てとれた。
「ん? あんなとこに島なんてあった?」
ニコスの母が暗い海面を見とがめ、ボアネルジェスの母も「カフカ島はとっくに過ぎただろ」と不思議そうに言いながら、目をすがめた。
「……島じゃありませんよ」
返答する魔法使いの双眸は、やはり闇に沈んでいた。
視線の先にあるのは、村ほどの大きさをした小島。
プディング型に隆起した山を中心に、果実を実らせた木々が生い茂り、頂上から裾野に向かって清流が幾筋も流れ落ちていく。
「あれはれっきとした魔物です。“大海の流れに浮かぶもの”、アスピドケローネ。島と勘違いして上陸した人間を貪り食う、肉食性の海亀です」
「アスピドケローネって……おとぎ話じゃなかったのかい!?」
「おとぎ話でしたよ。二十年前まではね」
船の縁に頬杖をついたアリアは、「これはたしかに、辺境の魔物とはちょっと違うわね……」と、冷や汗を流しながら口の端を上げた。
──ヒュッ!
戦々恐々と海面を見下ろす聡い耳に、不意に大量の風切音が届いた。
「何か来るわ!」
「!」
一瞬のちに、同じく気配を察知したニュクスとティルダが上空を見上げると、──中天からこちら目掛けて落下してくる、黄色い雨粒があった。
大きさは、カモメ大。
白い胴体に黒い羽。
無数の鳥がカナリーイエローの鋭い嘴を向け、船を目掛けて滑空しているところであった。
「伏せて!」
思わず硬直した人々を、いかなる時も無視できない声が従わせる。
「「「あだだだだだ!」」」
誰もが即座に身をかがめたものの、大柄なインゴルフとチンピラどもが容赦なくついばまれて悲鳴を上げた。
土砂降りの雨にも似た羽音を立てながら、得体のしれない怪鳥の一群は帆船アルゴーを横断した。
「そ、そ、そ、空にもいるのか!?」
「全力で逃げたほうがいい!? ニュクスさま! エンジン全然余裕あるけど!」
群れは距離を取ったものの、弓なりに上昇した月影の切れ間からいまだこちらをつけ狙っている。
いつ第二撃があるかわからない。
「……いや、あれは」
元よりあまり視野のよくないヘビの化身、見えづらそうにのぞき込んでいた望遠鏡から、ニュクスは顔を外した。
「カラドリウス……かしましく飛び交うもの。そして、串を打って炙るもの。……つまり、焼き鳥ですね」
「「「焼き鳥」」」
予想外の紹介文に、八十余名の眉が怪訝に寄せられた。
「かつてはハルピュイアの露払いを務めていた怪物ですが、空の王者のいない今となっては、ただのゴロツキ。海と違い、空には強者が進出していないため、昔からの生き物が残っているのでしょう。アネモス家がいたら怒られたでしょうが、ここには彼らの眷属すらいません。小旅行のおやつにちょうどいい」
「「「おやつ」」」
壮大な神話を背景にした海の怪物とのあんまりな格差。
言葉を失った民衆を気にもせず、ニュクスは「フム、よい教材だな」とマイペースに頷いた。
「アリア、あれを仕留めてごらんなさい」
「!」
出し抜けの課題に、ピンクの瞳が見開かれた。
「カラドリウスは夜行性。視覚と知能はあまり優れておらず、熱と光に向かって飛行する修正があります。今夜は朧月夜。この船のかがり火に引き寄せられたのでしょう。……さて、ここは我らが海の沖、国をも滅ぼせる魔物どもの巣の真っ只中。魔力を無駄遣いするわけにはいきません。一撃で最大数を捕獲するには、どのような手段が考えられますか?」
(これはまた、難問を用意してきたわね~)
飄々と、しかし怪物を見下ろしていた時より格段に輝いてこちらを映し込むロードライトガーネットを、アリアも見つめ返した。
『お前ねえ。いくらアリアくんが大らかだからって、そんな無茶ぶりを繰り出していたら嫌われるよ?』
「なっ!?」
ピアスからの苦言に、顔色の悪い顔からさらに血の気が引いた。
「ななななにをバカげたことを! アリアがぼくを嫌うなんてそんなこと、天地がひっくり返ったってありえません! ……え、本当に? ほんとに嫌われてしまう……? ……いや、ないないない。ありえない。ネメシス、荒唐無稽な与太話を耳に入れてくるのはやめなさいといつも言ってるでしょう!」
『全くもって残念な弟だねえお前は』
赤くなったり青くなったりと忙しく反論している少年は、アリアにとって第一の臣下にして、実戦の師でもある。
そして、当の本人よりはるかに主君のメンツを気にするこの側近が人前で課した課題ということは、自分の王であれば、首尾よくやり遂げると確信してのことに間違いなかった。
事実、『さあ、最高に強くて勇敢で愛くるしいところを、有象無象どもに見せつけてやるんです! さあ、さあ!』と、キラキラの眼差しが語っている。
「……」
やかましい顔面からはそっと目を逸らし、アリアは月を背にした怪鳥の群れを見上げた。
(うーん。上空をすごい勢いで飛び回る、小さな鳥さんの群れねえ……)
「先輩。カラドリウスさんたちのごはんは何ですか?」
「穀物、藻、虫、果物、魚、獣、なんでも食べる雑食性です。先ほどのように、たまに人間もついばみます」
「おっと、人肉を食べる鳥を気にせずおやつにしてるのねイリオン人は。これは蛮族だわ~」
遠い目をしながら第五元素界収納機能つきポシェットを開けて取り出したのは、魔法式の飛空挺と施条銃。
アリアにとって命綱であるこれらの武器は、いかなる時も手離すことはない。
「了解しました。あちらさんにとっても、こっちはおやつってわけね」
恭しく両手を差し出して待機しているティルダに水平帽を預け、ゴーグルを後ろ頭でパチンと嵌めた。
「そういうことなら、……弾は、これを試してみようかしら」
一瞬、口の端にどう見ても悪党そのものの笑みが浮かんだが、「ぽにちゃん、お手伝いしてくれる?」と振り向いた顔は、いつもどおり人当たり抜群の笑顔だった。
「キュ?」
え? いやだけど?
屈託のない拒否。
「……」
アリアはニッコリと笑みを深めて、金の鳥を見下ろした。
「牛フィレ肉」
「!」
琥珀色の猛禽眼が、飼い主を見上げた。
「シャトーブリアン」
「!!」
双眸はキラキラと輝きはじめ、面倒くさそうに畳んでいた足が、すっくと地面を踏みしめた。
「えらいえらい! いい子ね~、ぽにちゃんは」
「キュイッ!」
「じゃあ、わたしについてきて! ──飛翔せよ 百の手を持つ巨人を振り切って!」
あたかも忠実なしもべのように、俄然はりきりはじめた不死鳥を従えて、ソリは垂直に前方帆柱を駆け上った。
お読みいただきありがとうございます!
ハイドラ家のヒュドラが好き放題に毒を作り出せるという設定は、加筆修正したものです。
7章はほぼ全部書き直ししていますが、7章で死んだやつらが再登場するのはまだ先なので、今読み返さなくても全く問題ありません!