第150話 進水式
(ひ、ひどすぎる! 彼らに人の心はないのか!? あとこの騒音はほんとに何だ!?)
宝石の瞳を輝かせて頬を紅潮させている側近たちの隣で、当のアリアは珍しく死んだ目で虚空を眺めていたが──この居たたまれない自慢話を聞かされるのは七回目である──なんとか生気を振り絞ると、ニッコリと顔を上げた。
『こんなマウントに落ち込むことないわ、テセウス。ええ本当に、ただの、ひとつも。わたしもあなたに会いたいわ!』
「あ、ありがとう。嬉しいよ! ……だが、現実的には」
『大丈夫、会えるから。カントループに入学するの。あなたが入学した、次の年に』
「……!」
極めて重大なことを、弁当の中身を告げるようにいつもどおり言ってのけた少女に、ロイヤルブルーが見開かれた。
「カ、カントループに!? ……いや」
度肝を抜かれたテセウスは、しかしたちまち明晰な頭脳を稼働させ、少女の素性を踏まえて今後の展開を正確に予想した。
「たしかに、きみの養い親の地位を鑑みれば妥当な進路だ。だが──あそこは、皇宮魔術機関の支配下。つまり完全に陛下の手のうちにある魔窟……! 教授陣にも完全に皇宮の息がかかっているはずだ。いくらプランケットの後ろ盾があるとはいえ、無事に卒業できるとは限らないぞ!」
『そうなの! 何にも準備しないで乗り込んだら、あっという間に食べられちゃうわ!』
小揺るぎもしない笑顔は、そこが獣の巣であることなど先刻承知であると告げていた。
『というわけで、再来年までにはたくましいゴリマッチョになっておくから!』
「ゴ、リ……? 失礼。なんて?」
『少なくとも簡単にすり潰されないくらいには、バッキバキになっておかないとね。きっと来年の春には、堂々と会えるようになってるはず。そうなったらお祝いに、みんなでパーッとピクニックでもしましょうか!』
こてんと小首を傾げて、大きなピンク色の瞳に少年を映し込む。
『だから今は、ひとりでさみしいけど我慢してくれる?』
クセのない猫っ毛をサラリと揺らした上目遣い。
プランケット邸にいた時、軽々しく命知らずな行いをする主にプンプン怒るメラニーを絆すため、よくぶちかましていたアレである。
「ウッ眩しい!」
これまで、令嬢や姫と呼ぶよりも戦士や野獣と称した方がはるかに近いような顔しか見せてもらえてこなかったテセウスは、(こ、こんなあざとい技能も隠し持っていたとは……!)と、いともたやすく心臓を押さえてよろめいた。
『そうですよ、写し絵で辛抱なさい。ホラ。この銛を手に野ウサギに襲いかかっている飢えた野良犬のような姿とか、自分の顔くらいあるサンドイッチにをどうにかして一口でたいらげようとしているすごい顔とか。見ての通り、世界一カワイイものがここにあります』
『1枚につき2白金貨と8金貨、今回は10枚だから計28白金貨だな。クスクス、これで姫君に貢ぎ物ができる……。まずはクローゼットの中身を総入れ替えしよう。ああ、絶望的な衣服をやっと燃やせる……!』
『びた1銅貨も払わなくていいわよ~』
『おーい! 整備終わったよーん! いつでも着水可能!』
不意に賑やかな声が鏡の奥から届き、三対の赤い瞳は弾かれたようにそちらを向いた。
『あら、準備ができたみたい! もう行かなくっちゃ』
「な、何!? こんな時間に用事が!?」
(まさか夜遊び……!?)と自分のことを棚に上げて青ざめた少年に、『ええ!』とウキウキとした首肯が返される。
『今日は待ちに待った、海上視察の日なの!』
「海上、視察……?」
『……』
オウム返ししたテセウスの斜め前。
これまで黙って会話を聞いていたセレスティーネの片眉が、くいっと権高く吊り上げられた。
『アリア』
『なあにお姉ちゃん』
『いい気になっていられるのも今のうちよ』
『何が!?』
突然の宣戦布告に、朝焼け色の瞳がぎょっと見開かれた。
『急にどうしたの!? なにかお気に召さないことがあった!?』
『教えてやーらないっ』
雪の妖精じみた美貌が、ツン! とそっぽを向いた。
『せいぜい、お姉ちゃん助けてって泣きべそ掻くことね!』
『ええ~?』
テセウスは、こんな夜更けにまたもや冒険に出発しようとしている大事な女の子を、「何をするのかさっぱりわからないが……」と、夜空色の切れ長の瞳で一心に見つめた。
「どうか……どうか、無茶はやめてくれ。きみの身を案じている者がいることを、いつも忘れないでほしい」
『ありがとう! おみやげはレヴィアたんのおひげとたてがみ、どっちがいいかしら?』
「いや本当に何をするつもりなんだ? これ行かせていいのか? ――頼む! 頼むから、危険なことはしないでくれ……! ネフシュタン、ティルダ、任せたからな!?」
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時刻は、日付がそろそろ変わるころ。
昼に生きるあらゆる者が寝床にその身を滑らせる刻限に、しかしその街の住民たちは全員、屋外に集まっていた。
海辺の幽霊都市、メリディエス東南端、イリオン村。
紺碧のモザイク張りの噴水広場に集まった彼らが囲むのは、首が痛くなるほどに見上げてもまだ全貌を見通せない、巨大な建造物。
長々と身を横たえたそれは、地面に打ち立てられた無数の荒縄によって垂直に支えられ、中天に上った月から降り注ぐほの白い明かりに、険しい山脈にも似たおぼろげな輪郭を浮かび上がらせていた。
岬の家からパタパタと駆けてくる軽やかな足音を耳にした面々は、待ちかねたとばかりに一斉にそちらを振り向いた。
「あっ! まだそんな服着てる! も~~、今日はおめかしする日って言ったじゃない!」
「なーんでチンピラと同じツナギ服を気に入っちゃったのかな~」
赤い目をした少女たちから口々にブーイングが放たれ、アリアは「お姉ちゃんにもズタ袋って言われたわ」と応じた。
「自分のストーカーが絶対に一部始終を連写で記録するってわかってるでしょ? ボスがゴミ袋着てたら台無しだよ」
「こんなことだろうとワンピース持ってきてよかった。さあ、早くこっちに着替えて。……待って待って待って、物陰で着替えよう?」
「おかしいな、お嬢さまって呼ばれてたはずだよね? 狼とかおサルさんに育てられてないよね?」
友人二人の手によって、海辺の珍走団ツナギスタイルからセーラーカラーのワンピースに着替え、瞬く間に髪を編み込まれ水兵帽を被せられたアリアは、はにかんだ笑みを浮かべた。
「わあ、アニス、カネラ、ありがとう! すっごくかわいい! ツナギの100倍素敵だわ!」
「「当たり前でしょ!?」」
編み上げブーツが、高台の石を駆け上がる。
イリオスたちも街の住民たちも期待を込めた眼差しで、自分たちが戴く君主を見上げた。
「お待たせ、皆さん! それじゃあ始めるわね、進水式!」
いつもどおり、どっしり構えて微笑み返した朝焼けの瞳は、目前の巨大建造物を真っすぐに映し込み、──おもむろに、右手を上げた。
「支綱切断!」
小さな手が、水平に風を切る。
いくつもの荒縄が一直線に裁たれて地面に落ちるのと同時に、巨体を覆っていた布が突風に吹かれて取り払われた。
「「「ウオオオオーーーー!」」」
野太い歓声に迎えられて現れたのは、巨大船舶。
材質は、頑健なイチイ。
天に聳えるのは三本の帆。
船首に獅子神像を彫り込んだ船体は、一見すると古き良き勇壮な帆船に見えるが、船尾に埋め込まれたスクリューが動き出すと、──強烈な風圧で周囲を圧倒しながら、夜空に浮かび上がり始めた。
「「「……うお、お、お?」」」
無数のくす玉が弾け、色とりどりの花吹雪が溢れる。
いずこからか陽気なオーケストラの音色が流れ始め、風船が飛び交う。
ドパン! ドパン! と続けざまに打ち上げられた花火が、あんぐりと口を開けた人々の間抜け面を照らし出した。
「わあ~! とびっきりかっこいいわ、わたしたちの船アルゴー!」
「キュイー!」
肩に不死鳥を乗せたアリアは、パチパチと拍手しながら満面の笑みで空中に浮かぶ巨大船を見上げた。
「いやっ……あれ? ……すいませんアリアさん。作ってるのは、船だって聞いてたんすけど……」
挙手をしたダヴィドが物申すと、六人のチンピラ仲間も恐る恐るそれに続いた。
「おれら、かつてのメリディエスにあった、大事なものを一つずつ取り戻していくんだって言われて……」
「さっすがアリアさんだって、もう一生ついていくしかねえって、すっげえ感動して……」
「だから、三日三晩まったく眠れないレベルの、遠慮ひとつねえクソバカでかい建設音にも耐えたんですが……」
ドブ色のツナギを纏ったチンピラたちは、激しく冷や汗を搔きながら、
「う、浮いてるタイプはっ……! このタイプの、船はっ……! 昔のメリディエスで、見かけたことねえなあ!?」
と、ごくごく控え目に抗議をした。
彼らにとってアリアは、絶対王者たる兄貴分。
真意を問いただすなど、崖から飛び降りるにも等しい無謀である。
だが、──アニキはいつもどおり曇り一つない笑顔で、「そうなの!」と平然と頷いてみせた。
「ほら、海を走るほうの船だとレヴィアたんに食べられちゃうじゃない? だからしばらくは、空を飛ぶほうの船として働いてもらおうと思って!」
「空を飛ぶほうの船って何!?」
「海を走るほうの船って言葉がまずおかしいって!」
「大丈夫大丈夫、水空両用だから! ゴーレム土木作業員の皆さんもありがとう! 相変わらずいい仕事してるわ~!」
主君からの称賛を受けて、ジンジャーブレッドを象った泥人形たちは揃ってたくましい上腕をパン! と叩き、『こんなもん朝飯前よ』の意を表した。
「準備ができたようですね」
楽しそうなアリアの姿に、いくぶん頬を緩ませた魔法使いの左手人差し指が、くるりと円を描いて空を差した。
「よいしょ」
「「「おわああ!?」」」
前兆もなく巻き起こったのは、目も開けられぬほど激しい旋毛風。
大きな手に掬い上げられるように上空に浮かんだ百名近い人々は、ひっくり返った状態のまま、中空の甲板にドサドサと落とされた。
「ひっ、ひい、ひいいい……!」
何の心構えもできぬまま乱暴に運ばれて、みな腰を抜かしてへたり込む。
魔法を自ら使うことのないメリディエス市民たちは、破裂しそうな心臓を押さえて、半泣きでニュクスを見上げた。
「ま、魔法使い殿……!」
「ん?」
「せっ、せめて! せめて声をかけてからやって頂けないだろうか!」
「あ、失礼。フム、だれも怪我はないようですね。頑丈頑丈」
「怪我どころか心臓が止まるところでしたよ!?」
月は中天。暖かな南風が吹く、うららかな夜。
近頃整備されたガス灯が輝くゴーストタウン。
その中空に浮かぶのは、古式ゆかしい快速船アルゴー。
小さな王が海上視察に行くことを決めてから、ゴーレム建設部隊が『ワシらの主を適当な乗り物に乗せてたまるか』とたった三日で設計と造船を完了した、匠たちによる努力の結晶である。
乗船定員三百名の大型木造気帆船には、いまだ二十名しか発見されていないイリオンの生き残りと、メリディエスで這いつくばって生きてきた全ての人々を乗せたとしても、まるっきり余裕があった。
「せっかくなら海がどうなってるか、みんな見たいわよね」というボスの気遣いにより、この夜更け過ぎ。
地球外生命体にかどわかされるも同然の乱暴さで、魔法ド素人である市民も含めて、一人残らず空飛ぶ船に乗ることとなったのだった。
「はいはーい、ぼくが操舵手! 一番うまいからね! アリアが船長、カネラがチーフクルー、アニスが料理長でボアが見張り番! あとティルダは大砲の弾でニュクスさまは燃料ね」
舵を握ったニコスがニコニコとそう告げ、騎士と魔法使いは「大砲の弾……?」「燃料……?」と幻聴に間違いない役目に首を傾げた。
「姫君、こちらを」
「ありがとう」
片膝をついたティルダが、うやうやしくワインの瓶を差し出した。
少し重たそうに受け取った華奢な腕は、──大きく振りかぶって、酒瓶を船首の縁に叩きつけた。
紅紫色の奔流が、芳醇な香りとともに弾き飛ぶ。
頬に赤い飛沫をつけた小さな王は、いくぶん猟奇的な印象を与えながら、いつもどおりピカピカの笑顔を向けた。
「それじゃあ行きましょうか、海上視察! ──就航せよ、アルゴー!」
お読みいただきありがとうございます!
全員連れて行く予定は全くなかったのですが、ゴリラが勝手に乗せてしまいました…