第147話 地下の都の鏡の間
「……」
テセウスは笑みを形作ったまま、ミュリエンヌからもセレスティーネからも、すっと腕をひいた。
(おれは知っている)
この風にすら折れてしまいそうないたいけな少女の皮の下に、悪逆非道な狼が潜んでいることを。
(彼女を地獄へ叩き落とした者を、許すことなどできない。……たとえ今はまだ、この怒りを決して悟らせてはならないとしても)
「ラクルテル令嬢、プランケット令嬢。年頃のレディが不用意に異性に触れるのは感心しないな」
「……!」
ショックを受けたセレスティーネが、胸を押さえてふらりと倒れ込んだ。
「セレスさま……!」
すかさず物陰から現れた灰色頭の侍従が、気遣わしげに主人の肩を支えた。
もはや見慣れてしまったが、異性の侍従などと四六時中一緒にいるのはたいがいどうかしていると、テセウスは思っている。
「まあ大変! セレスティーネさん、殿下に振られてしまったからもうダメみたい! これは一緒にお散歩に行かないとよくならないわね」
「?」
怪訝な顔で二度見したテセウスを見もせずに、ミュリエンヌは少し膝を曲げて、妖精姫の顔を下から覗き込んだ。
小作りの可憐な顔に浮かぶのは、どの角度から見ても悪辣な笑み。
「ね? そうでしょ? セレスティーネさん。……白鳥庭園を一緒にお散歩すれば、よくなるわよねえ?」
「……っ」
にわかに顔色が悪くなったセレスティーネが、小刻みにコクコクと頷いた。
「決まりね!」
「何が?」
「まあ、人命救助のためなら仕方なくてよ」
「え?」
「うふふ。みんなでお花を見に行けるなんて嬉しい晩ですわ」
「あの、いや、わたしは」
「あら! お優しいテセウス殿下は、女の子を見殺しになんてなさらないでしょ? さあさ、早く早く!」
ガッ!
今度は四方から腕を掴まれる。
四輪の可憐な花々によって引きずられていく皇太子の頭上には、煌々と白く光る春の満月。
(な……何が聖女、何が天使、何が妖精だ……!)
脳内テセウスが涙を流しながら、地面にこぶしを叩きつけた。
(みな、中身は強欲なゴブリンじゃないか……! 皇宮の節穴どもが! ああ、神よ!)
──彼がこういう時に祈る対象は、神と呼べども、神ではなかった。
信心深さとは真逆の性質なので、大聖堂に鎮座している巨大な女神像になど一度も縋ったことはない。
何なら高級白大理石をふんだんに費やした純白の神像など資材と維持費の無駄でしかないので、隙を見て解体したいと思っている。
彼にとって救い主は、ただ一人。
こちらを真っすぐに見つめてキラキラと輝く、大きなパパラチアサファイア。
恐るべき重圧を華奢な肩に乗せてもビクともせずに、大地をどっしりと踏み締めて立つ、頼もしすぎる女の子。
(無理だ! もう無理だ! おれが耐えられてもおれの胃が耐えられそうにない! 今月はすでに五回、人語を解するようでいて通じぬ、四匹のド派手な魔獣の襲撃に耐えた……!)
──褒美。
疲弊した脳裏に、単純な単語がきらめく。
ロイヤルブルーの瞳に、かすかに光が戻った。
(そうだ……! 褒美だ……! 褒美をくれてやらねば、胃がストライキを起こす! これは無駄遣いではない……帝国の未来のために、必要な投資だ!)
――ということで。
白鳥庭園についた瞬間「うん、うんうん美しい水仙だ。いずれの萼も花弁も異常がなくピンピンとしている。おそらく地下の鱗茎も健やかだろう。来年も白鳥庭園の雪中花宴は滞りなく行えるに違いない。皇室の行事が安楽である証拠を、かくも麗らかな夜にきみたちと一緒に見られてわたしもうれしいよ。――では!」と矢継ぎ早に感想を繰り出し、速攻で踵を返して皇太子宮に逃げ込んだのだった。
あとに残されたのは、斜め上のコメントを早口で述べられて、ぽかんと口を開けた少女たち。
「はあっ、はあっ、はあっ……! よし、撒いた……! これであと二日は会わずに済むぞ! よくがんばったおれ!」
自らを鼓舞するように自画自賛をしながら自室のクローゼットをバン! と開くと、小物入れの奥深く、厳重に隠しているものを取り出した。
二重底の下から現れたのは、──何枚もの転移術符と、きらびやかな宮殿にはまるで似つかわしくないボロボロの麻のローブ。
「ふ、ふふふ……」
テセウスは、侍従が見たら卒倒しそうなあくどい笑みを浮かべて、術符を撫でた。
実はこの皇太子、転移術符の無断所持を固く禁じられている。
一昨年の秋、術符を使用してプランケット邸に迎えに来たジュストを撒き、歓楽街を遊び回ったという前科のためである。
実際にはロカンクール県の山奥で人探しに奔走していたのだが、当の黒幕が牛耳るこの皇宮内、かような真実が少しでも漏れたら命が危ないということで、ジュストの父コルネイユ長官からこってりと叱られたうえで、エリサルデの水でネジが飛んだ浮かれポンチという陰口を甘んじて受けていた。
ではなぜ複数枚の術符がここにあるのかというと、──まさかの後ろ暗い闇取引に手を染めたためであった。
「悪く思うな、宰相……! 文句なら、モンスターを皇宮で放し飼いにすることを許した陛下に言ってくれ!」
ボロ布を頭からかぶり、転移術符をビッと千切る。
たちまち足元に浮かんだ術式から生ぬるい風が吹き上げて旋風となり、皇太子の姿を宮殿から攫った。
――うるわしき白百合の根本にも、悪臭を放つ泥がある。
それは路地裏の枯れ井戸から、廃屋の亀裂から、下町のパブの隠し扉から密かに道を伸ばす、太陽が差し込まぬ世界。
皇都大地下、贄の都ハノーク。
千年以上前に建築され、エレウシス大帝国の崩壊とともに放置された、巨大な水路である。
天を衝くほどに高く、視界の果ての果てまで数え切れぬほどに打ち立てられた列柱は、今では製造方法が失われてしまった堅牢不滅の古代コンクリートで造られている。
消えかけの松明の灯りのもと、暗渠に蠢くのは、奴隷商、人狩り、冒険者、見世物屋、脱獄囚、呪言師、禁忌薬師、死霊魔術師、預言者――種々雑多な、闇に生きる者ども。
地下世界の片隅に、不意に生ぬるい風が立つ。
昼も夜もない暗がりに降り立った少年は、魔術式が消えるのも待たず、飛びつくようにして目前の店の扉をノックした。
「夜分遅くに失礼! 急ぎの依頼です!」
ほどなくして扉が開き、ひどく小柄な老人がひょっこり顔を出した。
「おやこれはこれは、お坊ちゃま」
「ごきげんよう、バルトシェク翁。寝支度をしていたところでしたか、申し訳ない」
「構いませんよ、お得意さまですからね。ほっほっほ」
三角帽子を被り、縞模様のパジャマを着込んだ老人は、片眼鏡の奥の瞳を細めて人好きのする笑みを浮かべた。
「……お入りなさい」
すっと一歩後ろに下がり、皺だらけの小さな手が指し示す場所は――バルトシェク万華鏡問屋。
グウェナエル領で、短杖を求めにきたアリアと解呪品を納品しにきたニュクスがばったり出くわした古物商の、姉妹店であった。
「いつものように、二階をお借りしたい」
「かしこまりました。どうぞ、お好きなように」
少年の手からピカピカと輝く白金貨を受け取ると、老獪な店主は恭しく頭を下げた。
足早に階段を上ったテセウスが、五番目の部屋の扉を開ける。
するとそこには、壁一面にこちらを見つめるいくつもの自分の顔。
骨董鏡の部屋。
月桂樹を模した金鍍金の三面鏡、小鳥を掘り込んだ漆喰の姿見、薔薇のガーランドを模った黒檀、白い陶器製の手鏡、真珠をあしらった銀の八角鏡、──壁を埋め尽くすほどに架けられた無数の鏡たちが、闇の中心でかぼそく揺れるオイルランタンの灯りを様々な角度から映し出していた。
「頼もう!」
朗々と声を張るとにわかに真珠の鏡の中に霧が立ち込めて、ランタンの灯りをかき消していく。
『……はあ〜。何ですの? わたくし、寝る前の読書中なのですけれど?』
鏡の中から現れたのは、青みを帯びた豊かな黒髪に氷色の切れ長の瞳。
ついさっき皇宮で別れたモンスターとそっくり同じ顔をしているが、迷惑極まりないと雄弁に語る気の強い表情は、生身の身体が浮かべていたかよわいものとは真逆である。
セレスティーネ・プランケット。
その名と身体の本来の持ち主である少女は、いま巷で大流行りの嫁姑争いロマンスファンタジー小説を小脇に抱え、口元に夜食のチョコレートをつけながら、うんざりとした様子で髪を払ってみせた。
「す、すまないセレス……! だがどうしてもっ、どうしても胃が限界で!」
『こらえ性のない男に望みなんてありませんわよ。まったく、何回教えてあげればお分かりいただけるのかしら』
「くうっ……! しかしきみもあの中にいればわかる! 気が狂いそうなんだ、全員もう本当に、性格が悪くて!」
『当たり前でしょう、高位貴族の女どもですのよ。頭の中にあるのは、いかに楽をして他人を蹴落とすか、ただその一点のみに決まってるじゃない。とにかく報酬はいつもどおり。今夜は深夜料金も入るから、しめて10シルいただきますわ』
顔色の悪い皇太子にも眉毛ひとつ動かさず、鏡の少女は料金請求をした。
一昨年の秋。
皇宮魔術師どもの急襲によって、みすみす自分の身体を連れ去られた鏡のセレスティーネ゙は怒髪天を撞いた。
──わたくしがあの女に一矢報いるすべを教えなさい。可及的速やかに、何としてでも!
新年の宴でプランケットをのこのこ訪れた義妹に傲然と下された命は、かくのごとしものであった。
困り果てたアリアはクスシヘビの兄弟に相談し、結果、多大な魔力を支払っていくつかの鏡に道を繋げたのだった。
今やセレスティーネは薔薇の手鏡のほか、プランケット邸、アリアの部屋、それから皇太子と連絡を取るため大地下の万華鏡屋の三箇所を、自由に行き来できるようになっていた。
「ああ。いつもどおり、グウェナエル卿に渡しておく」
『ツケ払いは許しませんわよ』
10シルともなれば、新人皇宮官吏の半月分の給料にあたる大金である。
完全にぼったくっている。
セレスティーネは、鏡の枠外に手を伸ばすと、真鍮製のハンドベルを取り出した。
カランと、黄昏時を告げる鐘に似た音が鳴り響く。
『ご指名よ~』
黄金の六角形の鏡に霧がかかり、しばらくすると、『……あれ? 鏡通信だわ。こんな時間に珍しいわね〜』という声とともに、わさわさとモヤを掻き分ける小さな手が現れた。
『こんばんはお姉ちゃん! 三日ぶり~!』
「……!」
たちまち晴れた霧の向こう。
明るい笑みを浮かべているのは、テセウスを唯一癒してくれる救い主だった。