第142話 血の雨のあとに、芽吹くもの
(そんなつもりじゃ、なかったんだけど……。求めてた着地点としては、少~しだけ恩を売って、ちょっぴりこっちが有利なビジネスパートナーとして末永くお付き合いするとか、その辺りだった……んだけど……)
立てば直角の最敬礼。
座れば四つん這いの人間椅子になろうとし、歩けば雛のように後ろをついてくる。
そしてすれ違う人々――ほぼ100%顔見知り――にメンチを切る。
皮膚に施したファンキーなお絵かきを見せつけては、意味もなく威嚇する。
友人たちからもメリディエスの一般市民からも(何だこいつらは……)という目で見られているが、一番深く困惑しているのは、他ならぬアリア自身であった。
劣悪な下町育ちといえど、そこでは幼い子ども時代しか過ごしたことはない。
だからついぞ、知らなかった。
頼もしい兄貴分を見つけたチンピラたちの熱烈さは、生まれたてのウズラの雛に、勝るとも劣らないのだということを。
(正直、イリオスの暴れん坊たちで手一杯だわ。このガラの悪いひよこたちには、即刻解散してほしい。ほしいんだけど、……だけど……ッ!)
王の子分ならば自分たちの仲間でもあると認識する、単純で残念な脳みそもまた、イリオン人の特徴であった。
マフィアのボスに対するような態度でアリアにへりくだるチンピラたちの様子を見て、あれほど怒り狂っていた大人たちの態度は、ほんの数日でものの見事に軟化。
今ではときおり殴り合いのケンカを起こすだけで――それでも一日に三度はある――、同じ釜で焼いたパンを食べ、同じ湯を使い、日に日にコミュニケーションの親密さを増しつつある。
だからつまり、ゴロツキどもの親分としての立場は、甘んじて受け入れるしかないのだった。
「ダヴィド。ぼくが出した課題は麻痺治しのはずでしたが?」
不機嫌な声とともに、あらぬ方から琥珀色の小瓶が飛んでくる。
岬の家から顔を出したニュクスが、腕組みをして傲然と顎を上げながら、呆れを隠しもせぬ紅紫で年上の男を睨みつけていた。
「これではかゆみ止めです。セントジョーンズワースとアルテミシアの量を間違えましたね、この粗忽者」
「あっ!? ……ああ~~! しまったああ! すんません、師匠!」
危なげなく瓶を受け取ったダヴィドは、鉋屑のたっぷりついた軍手でわしわしと頭を掻き、父譲りの赤毛を真っ白に染めた。
「……」
勢いよく素直に下げられた頭――ここでも九十度である――を見下ろして、ニュクスは頭痛をこらえるように、しばし額にこぶしを当てた。
「……その師匠っていうの、やめてもらっていいですか?」
「えっ! なんでっすか?」
「……いや」
少年は、唇を真一文字にひいて黙り込んだ。
――目に入れても全く痛くないほど大事な女の子が今後兄もどきに呼びかけるたび、男の野太い声が脳内でリフレインしかねないという大陸爆発級の一大事だから。
というのがその理由であったが、自分のコミュニケーション能力では笑われずに説明することなど到底不可能であると、彼は悟っていた。
「お前、ぼくより十歳以上年上ですよね。プライドとかないんですか?」
「医神の使いの前に、薬屋の倅ごときのプライドなんぞありません!」
「クッ! そうですか……!」
曇りなき眼で間髪入れずに答えられて、ニュクスは悔しそうに瞼を閉じた。
諦めることにしたのだった。
このところ、村の復興作業の傍ら、ダヴィドは魔法医の少年から薬剤調合の手ほどきを受けていた。
「まあ……筋は悪くありません。任された仕事が終わったら、もう一度試行してきなさい。材料は出してあります。それと、新しいレシピはテーブルの上に置いてあるので、明日までにきちんと読み込んでおくこと」
「ありがとうございます!」
ぶっきらぼうにしていても面倒見のよさが隠しきれない横顔を、アリアはガーデンテーブルに頬杖をつきながらニコニコと眺めていた。
チンピラに差し掛けられた日傘の下である。
(いやーよかったよかった! こっちもすっかり仲良しになれたわね! きっと大丈夫だと思ってたけど!)
……十人中十人が、「いや何を根拠に?」とツッコミを入れざるを得ない心中の声。
そもそもなぜダヴィドがニュクスのことを師と仰いでいるのかというと、話は二週間前に遡る。
夕飯のあとの、宵の口。
一階のダイニングでくつろいでいたアリアたちのもとへ、包帯だらけのダヴィドが訪れた。
二人の側近の顔には一瞬にして鋭い敵意が走り、魔法使いは眼を冷たく眇め、騎士は無言で腰の大剣に手をやった。
「ニュ、ニュクスさん! お願いだ!」
赤毛の頭が、風を切る勢いで深々と下げられる。
「どうかっ、おれの……おれの調合の師匠になってくれ!」
藪から棒の申し出に、三対の赤い瞳がパチパチと瞬きをした。
「……」
ニュクスは茶を一口飲むと、マグカップをコトリとテーブルに置いた。
「もう一度、言ってみるがいい。…… だれに、何を、教えろと?」
夕刻の西の空に似た紅紫が、青年を真正面から見据える。
夕焼けに揺らめくのは、激怒の稲妻。
「……!」
居間の気温は氷室に叩き落されたかのように一気に低下し、威圧を真正面から受けたダヴィドの額から、冷や汗がドッと噴き出した。
「どうやら自分の犯した所業を、たった一晩で綺麗さっぱり忘却したようだな。いかなる恥も、罪も、簡単に忘れることができる貴様らのことが、ぼくは羨ましくてならない」
衣擦れの音ともに、黒いローブがおもむろに立ち上がる。
左手に皮手袋を嵌めながら、凍り付いて動けない青年に、ゆっくりと近づき──
バキッ!
「ウッ!」
硬く握ったこぶしが、大の男を容赦なく殴り飛ばした。
「骨まで灰にされないうちに視界から消え失せろ、このド低能のハエが」
汚いものに触れたと言わんばかりに皮手袋を投げ捨て、激怒を湛えた双眸で冷たく見下ろす。
──初めて弟子がコンタクトを取った時、少年魔法医の反応は、このようなものであった。
速攻で繰り出された鉄拳、いつもの皮肉と呼ぶにはあまりにも直球すぎる悪罵に、アリアは飲んでいたお茶を咳き込んだ。
「ゲホッ、ゲホッ、ぼえっ……! え!? ティ、ティルダが憑依した!?」
「おや姫君。あなたの騎士を見くびっていらっしゃる」
主人の背中を優しく叩きながら、ティルダもまた、キャビネットに倒れ込んだ青年に刃のような眼差しを注いだ。
「そこの木偶の坊が何を壊そうとしたのか、お忘れではないでしょう? これしき制裁のうちにも入りません。鼻の骨を折るくらいで、ようやく1カウントです」
物騒極まりないことを口にしつつ、猫っ毛のプラチナブロンドを愛おしそうに掬い、悪戯っぽく片目をつむってキスを落とした。
「あなたさまは太陽の現し身。地上で最も輝かしき存在にして、ただひとつの光。それを奪おうとした大罪人など、八つ裂きとなって獣に喰われるがふさわしい」
ぶわわわっ
どこからか白薔薇が湧き、もうとっくに日は沈んでいる刻限にも関わらず、無骨な樫の梁からキラキラと眩い光が差し込んだ。
鳩でも入り込んだかのように、謎の白い羽毛が天から螺旋を描いて舞い降りてくる。
老若男女の心臓を手当たり次第に貫きそうな、絢爛たる光景──。
だが、主は動じなかった。
ともに暮らして一年半。珍獣の対処法は、もう心得ている。
「ティルダって、顔面とフィジカルだけじゃなくてメンタルの攻撃性も高いのよね。そういうところ、頼もしくて好きよ!」
「え!? ……ふえぇっ!?」
この騎士、防御が紙なのだ。
グイグイ押すくせに、少し打ち返されただけで真っ赤になってあたふたと慌て始めた同僚に、ニュクスは何か言いたげな視線を向けたものの、ため息だけを残して階上の自室へ引き上げていった。
残されたのは、鼻血を拭う包帯だらけの青年と、二人の少女。
「……ハハ! ま、そうだよな……」
頬を掻きながら俯いて気まずそうな笑みを漏らしたダヴィドに、アリアはティーポットからお茶を注いで椅子をひいた。
「どうぞ、ダヴィドさん! せっかくいらしたんだし、血が止まるまで休んでいってください」
「うえ!? いやっ! とっとんでもねえっす! 申し訳ねえ! アリアさんの使う椅子に、おれみてえな薄汚えチンピラが座るなんて……! クッションもテーブルクロスも、汚れちまいます!」
「汚れたりなんてしないわ」
朝焼けの瞳が、まっすぐに青年を映しこんだ。
「たとえ汚れても、綺麗にすればいいの」
海の浅瀬と同じ色をした目はハッと見開かれて、じわりと熱を持って揺れた。
「おれぁ、もう十年も、隣町で糞喰らいって呼ばれてきたんすけど、本当は……、――本当はおれは、薬剤師になるのが夢だったんっす」
椅子に腰を下ろし、ラベンダーカモミールティーを一口含んで唇を潤すと、青年は掠れた声で打ち明けた。
ちなみにこのハーブティーは、夜も仕事をしようとする小さな王を絶対に寝かしつけるため、シンシアがこしらえたものである。
実際おやすみ三秒のアリアは夕飯の後にこれを飲むとスコンと寝落ちするが、本人はまだ原因に気づいておらず、(おっかしいわね~)と首を捻っている。
「親父がいなくなって働きに出るまでは、小難しい専門書を必死に読み込んで、見様見真似で調合しちゃあ、薬研を摺っていたもんです。……ハハハ。今じゃあすっかり、薬草じゃなくクソの臭いが染み付いちまった手っすけど……。首を差し出して、気がついたんだ。いつかじゃない。今この一回きりしか、おれの人生はねえんだって」
傷だらけの大きな手の震えを隠すように両手でこぶしを組み、ガーゼからはみ出た青あざが覗く口元が、一度ぎゅっと噛み締められた。
「伝説の秘宝をいともたやすく調合して、母さんの命を救ったあの御業……。どうしようもなく、憧れて仕方ねえ。おれはバカで、自分の痛みばっかり見て嘆いてたガキで、救いようもない間違いを犯したクズだけど……それでも、救ってもらえた。だからずっと忘れていたものを、ようやく、思い出すことができたんだ。――アリアさんのおかげだ。あんたは、おれたちに差し出した手を、一度だって引っ込めなかった」
浅瀬色の瞳も真っ直ぐに少女を映し、眩しそうに笑った。
「て、照れるわ~」
混じりけのない親愛と尊敬を浴びたこそばゆさに真っ赤になって頭を掻きながら、アリアは思考を巡らせた。
(ふむ……。わたしからお願いしたら、そりゃあ聞いてくれるだろうけど……それじゃあ、先輩に甘えすぎね。いくら、シロップ漬けの上から生クリームをてんこ盛りにして、さらに蜂蜜をかけまくったレベルでベタ甘だからって……尊重しなくちゃいけない一線がある。ここは、ダヴィドさん自身にがんばってもらわないと)
すぐ隣で絶対零度に冷めきった目線を浴びせているティルダも、二階の自室で会話を聞いているに違いないニュクスも、――この青年の首を斬り落とさないのはただ、我慢しているだけなのだ。
(わたしだって……他のだれかが同じ目に遭ったとしたら、そう簡単には許せないものね)
「それならまた、頼んでみてください。どれほど冷たく断られても諦めずに、何度だって」
アリアは、ニッコリと笑みを浮かべた。
小さな花のような、しかし眼差しには心中の苛烈な炎が滲む笑顔。
「もしかしたら、殴られたり、蹴飛ばされたりしちゃうかもしれないけど……それくらい、なんてことないですよね。高台の坂を上って、この家のドアをノックする勇気を持っているんだもの。夢のためなら、どんな痛みだって怖くないって思うから、ここまで来たんでしょ?」
大事なものを奪われかけた怒りの熱さを、知っている。
だが同時に、皮肉屋の魔法使いがどれだけお人好しで情に厚いのかということも、呆れかえるほど、よく知っているのだ。
「はい……っ! はい! なんでも、できるっす!」
可憐と評するにはあまりに力強い笑みに背を押され、ダヴィドはそれから毎日、隙を見つけてはニュクスに頭を下げた。
大の男が恥も外聞もなく、年下の少年に追いすがって懇願するさまは非常に人目を引き、チンピラ仲間も一人残らずドン引きしていたが、薬屋の倅は諦めなかった。
当初、容赦ない鉄拳に加えて「失せろ」と一言だった魔法使いの拒絶も、四日目には「視界に入るなと再三言ったはずですが」と敬語に変わり――ゴミから人間扱いに昇格した証である――、とうとう七日目にして、長い長いため息とともに、夕刻色の瞳が逸らされた。
「……使い物になるかどうかだけ、見てやりましょう」
「……!」
浅瀬色の瞳が、キラキラとアリアを振り向いた。
「ヤッター!」と両手でハイタッチして喜ぶ小さな少女とチンピラの姿を、少年は悔しそうに無言で睨みつけたのだった。
一度近づくことができれば、あとはどちらも同じ、家族思いの真っ直ぐな性根の持ち主である。
ニュクスの眉間から険が取れ、調合の出来栄えと新たな課題について、仏頂面ながらも自分から話しかけに行くまでに、長い時間はかからなかった。
お読みいただきありがとうございます!
おかしい…導入のはずが一万字を超えている…
大変申し訳ないのですが、あと一つだけエピソードをお許し頂けますと幸いです。
次話、他人行儀だった魔法使いと騎士がどのような関係に決着したか、現在の状況をお知らせします!
果たしてストーカーと珍獣は友になれるのか?
挟まれたゴリラの絶望もあわせて、お楽しみください!