第140話 皇帝レクス・ユスティフ・マグヌス・アンブローズ
「!」
コツ――と軽やかに、石の床を革靴が鳴らす。
「ああ……空気のエレメント、ペンタグラム、それからアンク。――シュタイナッハの矛盾全知配置、それからパラケルススの第五精髄を掛け合わせたんだね。ヴェロニカの数学理論も下敷きにしている。うん、悪くない。よく考えたものだよ」
男は息を詰めたまま、「おっ、おおおお褒めに預かりまして……! 恐悦至極でございます!」と深く頭を垂れた。
吸い込まれそうに揺らめく虹色の瞳を見上げる蛮勇は、ない。
この秘匿研究室に展開されている魔術式は、特務機関が数カ月を費やし、無数の複雑極まる理論を搔き集めて組み立てた、帝国の叡智の集大成。
それを、ただ一瞥しただけで、いともたやすく看破した。
(バ、バケモノ……!)
レクス・ユスティフ・マグヌス・アンブローズ。
齢四十になろうというのに、いまだ青年にしか見えない若々しさと眩しいばかりの美貌を保つ皇帝は、かすかに首を傾けると、癖ひとつない銀の髪をサラリと揺らして微笑んだ。
「死した先人の知恵を足場にし、さらなる高みへ上り詰めていく。そう、礎……人間の尊きところは、まさにそこだ。わたしは、過去から学ぶ者を好ましく思う」
心地よく、甘い水のように耳に沁みこむ声に、ふっと男の緊張が解れる。
単に労いに訪れただけかもしれないと、優しい夢想が脳裏を過ぎる。
「だからお前の智慧を、新しい個体へ導入しようと思ってね」
「……はい?」
皇帝が長い指を鳴らすと、影からいくつもの手が現れ、魔術師を捕らえた。
「!?」
四肢を拘束され、声も出せぬよう口元も戒められた男の手から、長杖が滑り落ちる。
影から出現した無数の前腕には小さな白い花がびっしりと生え、獲物がもがくたび、獣の体毛のように蠢いた。
地下室に、花の香りが満ちる。
溢れる陽光を思わせる、澄んだビターオレンジの花──ネロリの風韻。
澄み渡ったこころよい芳香は、血と鉄錆、汗と絶望に淀んだ空気と混ざり合い、吐き気を催す禍々しい悪臭と変じた。
「ン゛ーー! ン゛ーーーッ! 」
「きみたち。ちょっと手伝ってくれるかな? 棚に入ってるそれと、あと足元のそれを取って」
「へッ!? は、――ははははいッ!」
諜報部室長とは、生半可な実力の魔術師が到達できる地位ではない。
強大な力を持つ上官がそれでも指先一つで拘束される様に、部下たちは事態を把握するやいなや、涼やかな声の命じるままに迷いなくキャビネットに手をかけた。
ユスティフにおける最新鋭のエリート集団、帝国魔術特務機関。
明晰なる頭脳も、名誉と真理を追い求めてやまない貪欲な精神も、自分以外であればいかなる命であってもゴミのように使い捨てできる残酷さも、折り紙つきの者揃いである。
「あっと……わたしがほしいのは、斧じゃない」
「ッ! も、申し訳ございません……!」
「そう、そっちの――鋸のほう。あとはペンチとニッパーを……寄越してくれるかい?」
身動きの取れない自分の前に陳列されていく、工具類。
平和な日曜大工でも使用される道具たちが、この八角錐の塔ではどういった用途に用いられるのか、他の誰でもない室長自身が、骨身に沁みて理解していた。
恐怖に見開いた瞳は、凍り付いたように動かすことができない。
「ああ、心配しなくていい。わたしは昔から、手先が器用でね」
白い手袋をはめ、まるで聖なる教本でも持つような清々しさで鋸を手にした皇帝は、この部屋に現れて以来、ずっと浮かべていた秀麗な笑みをさらに深めた。
淡い虹色の瞳を慈愛深く細めた、神のごとき微笑。
「貴重な脳を傷つけることなく、そっくりそのまま採取できるだろう。……だからお前は、安心して神の御許へおゆき」
幾重にも重ねられた、黒い粘板岩の塔。
地の底まで続く螺旋階段の行き止まり。
重い鉄の扉で秘匿され、覆い隠された悲鳴が、糸杉の木立を長く長く吹き抜けた。
++++++++
皇帝宮、雷鳴宮殿トニトルス。
白銀、そして夜空のような深い蒼を基調とし、白大理石で作られた壮麗な城の最上階が、皇帝レクスの私室である。
控えの間で政務を行っていた尚書省長官、クレマン・コルネイユは、ふと隣室の空気が動いたことに気が付き、凝り固まった腰を上げた。
朝から薄暗い花曇りの空だったので気づかなかったが、すでに日は暮れて、壁掛けの時計は宵の口の時刻を指していた。
「陛下。お戻りでしょうか」
「ああ」
一瞬前まで無人であった室内に姿を現した主に驚くことなく、クレマンは頭を垂れた。
皇太子テセウスの側近である息子ジュストと同じヘーゼルブラウンの髪は、整髪料でピッタリと撫でつけられているため、どれだけ深く下げても乱れることはない。
「お疲れでしたらコーヒーをお淹れしますが」
「必要ないよ。お前も、もう下がるといい」
「はっ」
命に忠実な宰相が書類をまとめ、部屋を出ていく音を聞き届けて、――レクスは、長い足をドカッとソファーに投げ出した。
「はああああ~~~~~……」
口から出たのは、いつ途切れるとも知れぬため息。
「ど~~~こに雲隠れしちゃったのかなあ、本当さあ……」とぼやきながら、稼働中の錬金炉に手を突っ込んで取り出したのは、――ふかしたサツマイモであった。
低温で長時間熟成させたのでデンプンは余すところなく糖に変わり、蜜が滴っている。
『ろくでもないやつらに任せるからだぞ』
皇帝のほか誰もいないはずの部屋に、男の声が響いた。
炎を思わせる朗々とした呆れまじりの声は、壁に掛けられた大きなボトルシップから聞こえた。
「だってさあ、やりまあああす! って元気よく手を挙げるんだもん。まさか目先の金に目が眩んで、わたしの命を破ってあの子をぶち殺そうとした上にみすみす逃亡させるほどのド無能だとは、誰も思わなくない? 本人も灰になってて事情聴取もできないし。ああっ! このわたしが、人の願いを無下にするのが苦手な優しい性根の持ち主であるばかりに……!」
『いやだ。ドブに出された吐瀉物みたいな性格をしてるくせに、何言ってるのかしら』
希少薬を並べたガラスケースから零れるのは、芯のある女の声。
たった今人間をひとり潰したばかりの男は、直球の悪口を受けても「ひどいなあ~」と笑うだけで、マイペースに好物を咀嚼していた。
「アリアドネ。わたしの愛しいかわいい娘。いったいどこで、どんな暮らしを送っていることやら」
低温熟成芋を食べ終えたレクスが、ご丁寧に複合魔術を使って両手を清めたうえで取り出したのは、猫ほどの大きさのぬいぐるみ。
髪は白金の毛糸、瞳は淡いピンク色のボタンで作られた、小さな女の子を模したそれは、手先が器用――手芸を趣味とする皇帝レクスお手製の、『アリアドネちゃん人形』であった。
「よしよし今日もかわいいね。しっかりごはんを食べているかい? エリサルデで初めて会った時、フレデリクからは九歳だって聞いていたというのにすっごく小さくて、お父さまはびっくりしたんだよ。この冬は寒かったけど、きちんと暖かくして過ごしただろうか? はあ〜〜。お前の身が気がかりで、お父さまは夜も眠れないよ……」
三体目である力作を両手で抱きしめながら、毛糸の髪を撫でくり回す。
『この地上で唯一、お前からだけは、つくづく心配されたくないと思うぞ』
マホガニーのチェストの上、ガラスと黄金製の置き時計から、老熟した男の声が上がった。
呆れ三割、ドン引き七割の声音である。
「ああっ! お父さまが見つけてあげるからね、一日も早く!」
レクスは被せ気味にデカい声を上げ、聞こえなかったフリをした。
「このまま時を経たら、――また、大罪が発現してしまう。凶悪にして傲慢。禍々しく、忌むべきリオンダーリの呪い……」
端然とした横顔が、酷薄な憂いを含んで人形を見下ろした。
この世のものとは思えぬ光が、双眸に揺らめく。
「せっかくこの血を半分混ぜたのだから、きっとわたしの手元に置けば、いい親子になれる。彼女も、わたしを愛してくれる。ねっ、そう思うよね、アリアドネ!」
「オモウオモウ」
ぬいぐるみを動かしながら、すかさず裏声で合いの手を入れてみせた皇帝に、部屋の三箇所から『『『キッショ』』』と冷たい一撃が同時に放たれた。
『いやマジでいったい、これまで自分がやらかしてきた所業のどこをどう解釈したら、そんな判断ができるんだ? 頭のなかにタンポポ畑が広がってんのか?』
『アヘンでもやってるんじゃない』
『現実を受け止めきれていないのだ』
「うっうっうっ、……うるさいよきみたちい~~~!」
精霊とも名高い美貌。
市井にあっては、百年にひとりと謳われる賢帝。
他国にあっては圧倒的な武力と容赦のない侵略で、皇宮においては苛烈な粛清で、恐れを込めて見上げられる唯一にして至高の存在。
その皇帝レクスが、肉親ですら容易に立ち入りを許可されることはない雷鳴宮殿トニトルスで、毎日情けない顔をしながら無機物相手に文句をつけていることを知る者は、誰もいない。
お読みいただきありがとうございます!
ラスボスは面白おじさんでした!!
この本性を出すまでに50万字もかかっている、頭がどうかしてる本作にお付き合い頂いている読者様には、本当に足を向けて寝られません!!
ラスボスが実はいいヤツだった――といった展開にはなりませんので、ご安心ください!
レクスは生活感溢れる小物のド畜生です!!